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「姥捨て山」があった。
名のとおり、「穀つぶし」おじいさん、おばあさんを捨てに行く山のことだ、昔話か、実話か知りません。
芭蕉は、「野ざらし紀行」の中で、富士川(?)で捨て子をを見つけ、
「猿を聞人捨子に秋の風いかに」、と詠んでいる。
そして、自分には、なんともならない、その捨て子をそのままにして旅を続ける。
「サザエさん」の初期のものに、親父の波平が、飼っている鳥をおろして、晩御飯のご馳走にして、わかめちゃんが泣き出す、どう「落ち」がついていたか忘れましたけど、そんなエピソードがあった。
自分が、生きるために、肉親を見殺すこと、動物を殺すことを強いられること、そして死に行く人を助けられないほど、残酷なことはありません。
皮肉なのは、人がみづから鳥をおろし、畑を荒らす小鹿を撃っていた時代が、
人の精神が荒廃していた時代だとは言えないことだ。
死にまつわる 醜悪、残酷、畏怖は、清潔、簡易、合理主義という言葉に隠されて久しい。
しかし、「死について思いをめぐらす」ことを回避することは、「生」そのものを回避することに通じるとおもう、死ぬことがあるから、生きることがあるのだ。
生、死に対する敬虔、自分が生きるために犠牲になったものたちへの祈り、それがあるのが「人間の文化」だとおもう。
血統書がなければ引き取り手がない犬猫?、ブランド志向の(中身のなさをブランドで隠す)人たちににふさわしい。
haruさんから書くヒントいただきました、感謝します。