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(回答先: アチェーの抵抗:グーグル検索「オランダ アチェー」でヒットしたサイト 投稿者 たかす 日時 2006 年 8 月 25 日 18:18:38)
615.シリッのブギス人
スラウェシ島の最有力の民族のブギス(Bugis)人は南スラウェシ半島(→199)の低地平野部に分布して水田耕作以外に漁業、養殖業、マングローブ林業、製塩業を行う。ボネ、ワジョ、ルウ、ソッペン、シデンレン、ラッパンの部族に分散しており、この中ではボネ・ブギスがブギスのメジャーである。ブギス人はスラウェシ島のボネ湾(→202)の最奥から東南半島の湾沿いにも広がっている。こちらはルウ・ブギスといわれる。⇒ブギス人(シーボルト資料)
ブギス人でもボネ・ブギスとルウ・ブギスは別民族であるかのように生活様式が異なる。前者の稲作社会の対して、後者のルウ・ブギスはサゴヤシ社会(→602)である。インドネシアの食物に基づく両社会の境界がブギス人社会を引き裂くような形でスラウェシ島を縦断している。
南スラウェシ半島は地形と気候から景観の変化が大きく、焼畑と水田が併存している。稲作
社会の辺境のような条件がブギスの移動型分散社会の色彩をもたらしたのであろう。ブギス社会はマカッサル人(→616)の影響を受けて、ブギス人を商人にし海洋民族として移住に駆り立てた。海洋民族であることは商人であると同時に時としては海賊にも変身する。
⇒ブギス人の戦士
東インドネシアの諸島では集落が海岸から離れた内陸部にあるのが一般的である。かつてブギス船(→854)が沿岸を荒らしていたころの後遺症のためである。貧しい島々でこれといつた交易商品のない所へくるブギス船は人を捕えては奴隷として売り飛ばすことを業としていた。このためブギス船とは人攫い船として恐れられ、島民は海岸に居住することを避けた。
何れにしろ海洋民族の気質として気性が激しい。南スラウェシで発生する人口当りの殺人事件の件数はインドネシア平均の6倍になりインドネシアでは最も高い。刃傷沙汰の多いことが数字的に裏付けられている。
殺傷事件の背後にはシリッ(Siri)という気質がある。シリッとはブギス/マカッサル語で“恥と名誉”の意味である。恥を与えられたならば必ず報復して名誉は回復されねばならない。これがブギス人の気質である。
男に求められる生き方が強烈すぎるため 、ついていけない男には男であることから下りることも許容されており、その受け皿がある。ブギス人にはビシュという女装(注)で先祖を崇める儀式を行う職能集団がある。ちなみにジャカルタの一角にバンチといわれるオカマの出没で有名な所がある。インドネシアにバンチが多いのはブギス人という供給源があるからであろう。シンガポールのブギス通りは男娼街として有名であった。
ブギス人の旧社会階層は三層からなっており、トップの旧王族貴族はダトゥ、プアン、アンディ(Andi)の称号を持っており、今もなお尊敬されている。
注釈と資料-615 ⇒202.ボネ湾・ブギス人の故郷
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616.マカッサル人
南スラウェシ半島の平地に陣取るマカッサル、ブギス、マンダル(Mandar)の3民族は造船術と航海術に秀れた海洋民族であり、また熱心なイスラム教徒である。マンダル人は山から海に下りて混血したトラジャ人(→618)という説もある。少し色合いが異なるがマカッサル人とブギス人は言葉が近いため同一民族と見なされることが多い。
マカッサル、ブギス人は共通するラ・ガリゴ(La Galigo)という民族神話を持っている。天孫降臨神話は文学性の高い叙事詩で世界最大級の文学という評価もある。ロンタラというマカッサル/ブギス固有の文字で記されている。マカッサル文化の伝統を残しているカジャン(Kajang)
族(注)が存在しているらしい。
半島中央の肥沃地で農業を営むブギス人(→615)に対して、マカッサル人の占拠していた半島の先端は農業には条件の悪い土地であったが、海に面していたことから早くから海へ進出していた。商業を基盤にマカッサル人の築いたゴワ王国の覇権は東インドネシアに広がりヌサ・トゥンガラ列島を属国化していた。
これに対して農業中心のブギス人のボネ王国(→268)は政治的にはマカッサル人のゴア王国に従属していた。ブギス人はゴワ王国のマカッサル人からの解放を求め、オランダのVOC(→272)と連合してゴア王国を滅ぼした。
ブギス人とオランダの連合軍に破れたゴア王国の貴族は一族を率いて海外に移住した。戦いに敗れたマカッサル人は敗れた地に留まることを潔しとしない。このへんにもマカッサル人の気質が表われている。マカッサル人の海外移住に従い、元は農民のブギス人も海に出るようになる。
マカッサル人の気性の荒さはブギス人の勇猛果敢を上回るらしい。マカッサル人は「戦う以外は寝ている」といわれる直情径行の民族である。シリッ(→615)に伴う殺傷事件はブギス人を上回る。やがて移住先でも人口の多いブギス人がマカッサル人を上回るようになる。この結果、スラウェシ島の海洋民族は言語、文化、気質においてよく似ていることから移住先ではまとめてブギス人とみなされる。⇒ブギス人船長
今日ではマカッサル人とブギス人はインドネシアの中では同地域の同文化の民族として連携を保たざるをえない。したがって両民族の間の過去の確執は消えているようであるが、いわく言いがたいものが残っているという観察もある。東北の津軽vs南部、信州の北信vs南信の間よりは深刻らしい。
マンダル人は半島の付け根の海側のマジェネ(Majene)からマムジュ(Mamuju)一帯に分布する。人口約20万人、海洋民族で漁民が多い。サンデ(sande)舟などに独自の海洋文化が見
られる。古い民俗はトラジャ人と近いが、イスラム教改宗後は文化的にはブギス人やマカッサ
ル人に近い。南スラウェシの西海岸を移動するとマカッサル人・マンダル人・ブギス人の村々
の文化の相違が面白く感じられるらしい。
注釈と資料-616 ⇒267.ゴア王国
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617.海外への雄飛
VOC(→272)がゴワ王国(→267)にオランダ以外のヨーロッパ人を追放するように圧力をかけた際に「神は大地を創り人々に分け与えたが、海は万人のものでその航海を妨げるものはない」と一蹴した。マカッサル人(→616)とブギス人(→615)は東南アジアの海洋民族である。南スラウェシ以外では両方まとめてブギス人といわれている。
東南アジアの港にはブギス通、ブギス街というブギス人居住する一角がある。シンガポールのブギス町の名前もブギス人の居住地であったことを示す。最近のブギス町はもっぱら男娼で有名であるが、ブギス人と男娼は関係なくもない。⇒岸辺の船乗り
ブギス人は勇猛であり、マレー半島のスルタン家に傭兵として入りこみ、やがて廷臣から重臣となりスルタン家を乗っ取った例がジョホール家、セランゴール家である。マレーのスルタン王家は政略結婚や何やかやでブギス人の血(注)を受けていないものはない。
このようなブギスの外地への進出のパターンについては、@舌先、Aペニス先、B剣先、といわれる。その意味はまず弁舌による商才を発揮するが、それが駄目な場合は土地の有力者の娘と婚姻関係を結ぶ、それでもかなわない時は武力に訴える。
スラウェシ島の農村から航海民族としてブギス人が海外に雄飛する契機となった歴史的背景は2段階あった。@17世紀のオランダの侵略と、Aインドネシア独立戦争時の混乱である。
もとは農業民族のブギス人が何故、移住民として他郷に進出し、あるいは航海民族として海へ乗り出したかの一つの回答はイスラム教の影響であろう。熱心なムスリムはメッカに志向し移住を厭わないので定着志向が弱くなる。
カリマンタン島、スマトラ島、マレー半島に移住してコロニーを作る。植民地時代から北オーストラリアやマルク諸島でも商業活動に従事していた。商業活動の一貫として海賊行為も含まれていた。⇒ブギス人の雄飛 ⇒マレーのブギス人
東南アジアの多島海ともいうべき海域への国境の設定は、もともと国家なるものに属していない海洋民族に対して活動の場を制限することである。マレーシアとの国境ができたことからブギス人の活動は東インドネシア、ニューギニア島への進出が多くなっている。
話は飛躍するが、アフリカ大陸沖のインド洋にあるマダガスカル島の住民はオーストロネシア語族(→563)のインドネシア系語族の支流である。言語、文化面からブギス人とする説がある。
⇒100rp紙幣のピニシ船
インドネシアの港にはピニシ船(→854)の面影のあるというブギス特有の型の船が見られない港はない。現在インドネシアの海運業を担っているのはブギス人である。日本の船会社がインドネシア人の船員を養成するための施設を建設した場所も南スラウェシである。
出展:
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http://www.jttk.zaq.ne.jp/bachw308/page054.html#622