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アチェーの抵抗:グーグル検索「オランダ アチェー」でヒットしたサイト
http://www.asyura2.com/0601/idletalk19/msg/670.html
投稿者 たかす 日時 2006 年 8 月 25 日 18:18:38: ifeEPcYg7BdHI
 

世界の織物の概観
http://www.lian.com/TANAKA/comhosei/textile/WORtextile.htmより貼付け
17C  コルベールによってフランス絹織物が活性化する。/ ベトナムは、絹の技術が中国・日本と同じくらい発達しており、輸出していた。とくに、生糸は1617年の日本の禁止令が出るまで、日本に大量に輸出されていた。/ インドネシアの木綿の生育と織りとは、南スラウェシ本島地域近辺で集中して行われていた。このあたりの男たちは船大工になり、女たちは機織りをした。1669年、オランダ人によってマカッサルが陥落すると、ブギス人商人が木綿交易を掌握するようになり、マレー世界全体の島々にそれを持って行った。
(中略)
1630〜40  布の積荷のインド船が、アチェーに、年に3隻ぐらいしか来なくなった。オランダにとってかわられつつあった。

[PDF] 第9章 アチェ州独立問題
www.mof.go.jp/jouhou/kokkin/tyousa/tyou016j.pdf - より
1.アチェ特別州略史
(1)「インドネシア独立闘争の礎」
今は独立運動の激しい波にのみこまれているという印象が強いアチェだが、その歴史を
ふりかえってみれば、分離主義的な主張よりは、むしろインドネシア志向の強い主張や運動の方がより伝統的であったことがわかる。
たとえば、オランダからのインドネシア独立戦争に際して、アチェは「インドネシア独
立闘争の礎である」とスカルノに言わしめるほどの貢献があったことで知られている。ほかの地域が次々とオランダに再占領されていくなかで、オランダ軍の上陸を阻止し続け、インドネシア共和国が実行統治していると主張できる領土を維持した。また、域外のメダンへも相当数の義勇軍を派遣してその奪還作戦の主力を担った。スカルノ大統領ら共和国政府幹部がオランダに逮捕されたために結成された臨時政府も、一時はアチェに拠点を置いていたほどである。
現在のアチェがほかの第一級地方自治体と異なり、アチェ「特別」州と呼ばれているの
も、著名なイスラム指導者で、独立戦争時にはアチェ地域の軍政司令官を務めたダウド・ブルエが、独立戦争の際の貢献に見合う地位と権限をアチェに与えるよう要求して武装反乱を起こしたことを受けて1959 年に出された首相通達(Keputusan Perdana Menteri RINo.1/Missi/1959)に由来する。この中で、アチェ固有の文化・伝統、あるいはイスラムのあり方を尊重し、育んでいくことの重要性が強調され、宗教、教育、伝統文化の領域で最大限の地方自治が行える州であるという意味で、特別州という呼称を与えることが、確認されている。

英文学史 スウィフトとアジア
http://www.hmt.toyama-u.ac.jp/eibei/Kusanagi2/gulliver-asia.htmlより
スウィフトの時代,ヨーロッパの人々にとって東洋とは香辛料の供給地であった。特に,インドと東南アジアは垂涎の地と言ってもよかった。
この地域にまず進出したのはポルトガル人であった。航海王エンリケたちの努力でアフリカ西岸の探検を続け,ついに1498年バスコ・ダ・ガマがインドのカリカットに到着し,大航海時代の幕が切って落とされた。
1510年,ポルトガルはインド西岸のゴアを占領し,植民地としたのを皮切りに,アラビア海からペルシア湾への中継基地ホルムズ,東アフリカ沿岸各地を次々に手中に収め,16世紀のインド洋交易を独占することになる。ポルトガルは,マラッカからジャワへのスパイス交易路を支配すると共に,北上して1537年にはマカオを植民地とし,1543年には日本の種子島に漂着する。その際船長が種子島の人々の歓待への感謝の印としておいて帰った2丁の鉄砲は,瞬く間に全国に拡がり,戦国時代の大勢に大きな影響を与えることになる。
17世紀にはいると,ヨーロッパの各国に東インド会社が設立され,ポルトガルに対抗して東洋貿易を開始する。まず活発な動きを見せたのがオランダであった。オランダにはスペインとの長年にわたる抗争の間に多くの新教徒商人が集まり,彼らが積極的に海外進出をめざしたからである。ついで,1588年,スペインの無敵艦隊を破ったイギリスが,アジアへの進出を開始した。1620年末,ホルムズ東方のジャスク沖海戦でポルトガル艦隊をうち破り,1622年にはペルシアを支配していたサファヴィー朝のアッバース1世がイギリス軍と協力してポルトガルからホルムズを奪還し,ポルトガルのインド洋独占の時代に終止符が打たれた。
イギリスは1612年,インドのスラトに商館を建て,ムガール王朝と交渉して,マドラス,カリカット,ボンベイにも進出した。さらに,モルッカ諸島にも進出しようとしてオランダと激しい抗争を起こし,1623年のアンボイナ虐殺事件以後は香料諸島から手を引き,インド経営に全力を尽くすことになる。オランダは,1619年,バダヴィアに拠点を置き,1639年にはポルトガルに代わって日本との貿易権を獲得し,1641年にはスマトラのアチェー王国と連合してマラッカを占領し,東南アジアの覇権を握った。
『ガリヴァー旅行記』の時代は,まさにそれからさほど遠くない時代であり,ガリヴァーがラピュータに行くきっかけとなった海賊船に乗っていたオランダ人のことを,ガリヴァーが糞味噌にけなしているのもこうした事情があったからだと考えられる。

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