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(回答先: アチェーの抵抗:グーグル検索「オランダ アチェー」でヒットしたサイト 投稿者 たかす 日時 2006 年 8 月 25 日 18:18:38)
インドネシアの特徴は置かれている状況や問題となるテーマが島によって非常に異なることが多いことである。一つの国の中に多くの国と呼ぶほどのテーマが入っているようなインドネシアだが、ボルネオ島では自然破壊が最重要テーマとなっている。一番下に転載したサイトによるとボルネオ島では過去20年間にボルネオ島から伐採した木材の量は他の熱帯地域から伐採した全ての木材の量を上回るそうである。
国境線で「一島両断」にされた島
ボルネオ島 マレーシア領とブルネイ領とインドネシア領
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/zatsu/bundanより
かつてのボルネオは各地で沿岸部を支配していたスルタンのほか、外来勢力による「アヤシイ国家」がありました。例えば西部のポンティアナクで中国人鉱山労働者が建国した蘭芳公司(※)とか、イギリス人の探検家ジェームズ・ブルックが「白人王」となって建国したサラワク王国(サラワク土侯国)とか、まるで「冒険ダン吉」の世界ですね。
※蘭芳公司は1777年に客家系の鉱山のボス・蘭芳伯が設立した会社形式の共同体で、大統領に相当する「大唐総長」は4ヵ月後とに互選で選出され、いわばアジア最初の民主主義共和国ともいえる存在。1884年にオランダに征服されて消滅した。
19世紀後半になると、それまでマラッカ海峡で覇を競っていたイギリスとオランダがボルネオにも本格的に進出して、イギリスはブルネイ王国とサラワク王国を保護領とし、さらにスールー諸島のスルタンからサバを獲得して、ここを北ボルネオ会社による会社経営の植民地とした。そして残る地域はオランダが次々と征服し、支配下においていった。
クタイ王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%82%A4%E7%8E%8B%E5%9B%BDより
クタイ王国(クタイおうこく、Kerajaan Kutai)は、5世紀初め頃、カリマンタン島東部、マハカム川下流のクタイ周辺に栄えたヒンドゥー王国。クタイ王国の様子については、ムアラカマン遺跡から出土したユパと呼ばれる7つの石柱碑文で知られる。
(中略)
クタイの繁栄は、当時の商業上の交易ルートがマカッサル海峡を通っていたことを示唆し、インドからの船はクタイに寄港し、フィリピンを通過したのち中国へ向かっていたと考えられる。
なお、勅令(ピアグム)などを石の記念碑(プラサスティ)に刻むという習慣はインドネシア独特のものであり、「巨石伝統」と呼ばれ現在も形を変えて続いている。
ボルネオ島の民族
http://www5b.biglobe.ne.jp/~amorin/borneo/people.html
★「海の民」と「内陸の民」★
イギリス領になる前は、民族名とは社会の中での役割を示すものでした。
かつては北部の沿岸部にイスラム教徒、内陸部の川沿いに非イスラム教徒が住んでいました。
●「海の民」
沿岸部に住んでいたのがブルネイ族(サラワクからサバの西海岸)とバジャウ族(サバの東海岸)。
舟の操作にすぐれていたことからボルネオの特産物を求めてやってきた中国人や西洋人と内陸部の非イスラム教徒の仲介をし、軍事や経済を独占していました。
●「内陸の民」
内陸部の特産物を提供していたことから「ダヤク(内陸)の民」と呼ばれていました。
人々はお互いに言葉が通じても見方だとは思わないという考えから、似たような言葉を話す人々がいくつかの小集団に分かれて生活していました。
そのため、場所によっては「内陸の民」ではなく「ダヤク(丘)の民」「ドゥスン(田舎)の民」と呼ぶところもありました。
★19世紀半ば以降★
この頃から蒸気船の発明によってイギリス人は海の民を追い払い、内陸の民と直接やりとりをはじめました。
そこでイギリス人は民族名を科学的につけて分類を試みたのです。
●サクラワ
ダヤク族は「海ダヤク族」のちの「イバン族」と「陸ダヤク族」のちの「ビダユー族」に分けられ、さらに丘陵部のさまざまな集団は「ウル(奥地)の民」のちの「カヤン族」「ケニャー族」「プナン族」などと呼ばれるようになったのです。
●サバ
ブルネイの領土の一部がサバに組み込まれたため、内陸の民として「ドゥスン族」と「ムルト族」がいました。
両民族は言語や生活様式で共通点が多く、本来ひとつの民族ではないかという見解もあったのですが、最終的にはふたつに分けられたのでした。
そして、早くからイスラム教を受け入れて独自の生活様式をもっていた人々は、独自の民族とみなされ、地方によって「イダハン族」「ティドン族」などと呼ばれていました。
★独立以降★
サバとサラワクが独立してマレーシアの一員となると、国民の代表は民族語とに出すという発想から、民族は大きいほうが他の民族に対して交渉力が大きくなるという考えと、小さく区切ってでもその中で自分がトップになりたいという考えを持つ人が現れ、様々な思惑によって民族区分が唱えられました。
独立直前のサバでは、もともと内陸の民と呼ばれていたドゥスン族が、民族名の意味が「田舎者」という見下したニュアンスがあるのを嫌がり「カダザン族」と言い換えました。
しかし「カダザン族」と呼ぶことに内部からの反対も多かったため、同様に内陸の民と呼ばれていた「ムルト族」が「カダザン族」に含まれるのかは曖昧なままとなっています。
コタ・キナバル周辺以外では「カダザン族」より「ドゥスン族」の方に愛着がある人も多く、現実には以前の「ドゥスン族」を名乗る人もたくさんいました。
民族名がどちらかで対立することがないように、1989年以降は公式の場では「カダザンドゥスン族」と呼ぶようになっています。以上のように「民族とは何か」という考え方が様々なため、ボルネオの民族状況はかなり複雑になっています。
この民族状況は「サバ州立博物館」にいくとよくわかります。
民族語との生活様式や民族衣装も公開されています。
ボルネオ島に行ったら、まずはここを訪れてみると滞在中の見方もかわるのではないでしょうか。
サバ州立博物館は9:00〜17:00・金曜は休館日です。
マレーシアの旅行情報&旅行記 ボルネオ島の情報
http://www.nichimapress.com/syokufu/syokufu_borneo_jyoho.htm
ボルネオ島
(サバ州、サラワク州、ラブアン連邦特別区)
サバ州、サラワク州、ラブアン連邦特別区のあるボルネオ島は豊かな自然を誇るマレーシアにおいても特別な地域だ。その壮大で太古からの歴史を伝える熱帯雨林と美しいサンゴ礁の島々は大自然と呼ぶに相応しい。
マレーシア全土で日本に一番近いのがサバ州。四十代から上の人達の中には、娼婦して売られた女性をルポした山崎朋子の『サンバカン八番娼館』を思い浮かべる人も多いだろう。北ボルネオのサンダカンやタワウには日本人の入植者が大勢いた。戦後二、三十年は、木材を扱う商社の駐在員たちがコタ・キナバルの街などをかっ歩していた。現在は自然派志向の中高齢者達が好んで行く。
(中略)
サバ州といえばユネスコの世界自然遺産に指定された東南アジア最高峰、標高4,095メートルのキナバル山がある。キナバル山麓は生物種の宝庫といわれ、珍しい動物や植物が豊富にある。そして、キナバル山麓に住むカダサン・ドゥスン族や幻の海洋民族といわれ一部は陸上に定住したバジャウ族などの少数民族の生活を見ることができる。
(中略)
太平洋戦争時に日本軍が占領するまで、サラワク州は、この地を統治していたブルネイ国王から指名を受けた英国人ジェームズ・ブルックを祖とするブルック王朝が支配していた。白人の支配するサラワク州はイバン族、ビダユ族といった原住民族と移住してきた中国人やマレー人などがそれぞれの文化風習を守りながら独特な気風をもつ州となった。
州都クチンは名前の通り「猫(マレー語でクチン)の町」。北市役所には『猫博物館』まであり、懐かしい「なめねこ」まである。クチンの町の中央を流れるサラワク川にそって、ウォーターフロントと呼ばれる遊歩道が整備されている。夕暮れどきになると、地元の人々だけでなく海外からの旅行者も散歩している。
ボルネオ島には明治時代から多くの日本人が移住し、地元の人々とともに生活していた。戦争という不幸な時代に日本軍が残した爪痕も残されている。戦後、木材などを扱う商社員たちが活躍し、その後、熱帯雨林保護のために日本への木材輸出は激減した。ここ2、3年、日本の中高齢者の注目がボルネオ島にも向けられるようになってきた。豊かな自然の中で第二の人生を送りたいと考えている人達がふえている。
ボルネオの自然_記事
http://www.bbec.sabah.gov.my/japanese/01_nature/na_060117_01.html
タビン野生生物保護区北部に生息するボルネオゾウの重要な移動ルートであり、オランウータンが好きな果物が多く育つ河岸林、そして、30グループ以上のテングザルの住む森をセガマ下流域野生生物保護区とすることが承認されました。同保全区とタビン野生生物保護区の間では、ティドン族の人々が自然と共生した生活を営んでいます。野生生物生息域管理コンポーネントは地域に住む村の人たちが最適な保護官であるとの認識の下、彼らに視察や研修を実施してきました。そして、保全活動がもたらす経済的な収益を例示するため、これまで自然とともにかれらの生活や文化を資源としたエコツアーを試験的に実施してきました。延べ200人ほどの日本人が訪れてくれ、村の人たちも自分たちの生活や森の価値に気が付いてくれました。訪れてくれた人々と一緒に村の土地にオランウータンが好きな果物の木を100本以上の植えて、オランウータン専用の果物の森のレストラン開業を目指してきました。残念なことに昨年移動ルートをアブラヤシプランテーション開発により妨害されたボルネオゾウによって踏み荒らされてしまいました。しかし、これから訪れてくれる人たちと村の人たちが一緒になってボルネオゾウ専用河岸林ハイウェイ、河川によって分断されたオランウータンが交流できるオランウータン専用橋(単純なロープですが)、そして、テングザルの専用の森レストランを建設し、その自然再生とともにティドン族の人々の自然と共生した生活と文化へのプライドの復活を目指しています。
EWJ - 体験記 - ボルネオの熱帯雨林
http://www.earthwatch.jp/project/experience/1_eco/03_borneo.html
ボルネオの一日は五時半ごろ鳥達のさえずりとテナガザルの挨拶で始まる。森のいたるところから 一斉に「ホィィー、ホィィー」という声が響きわたる。
宿泊所のロングハウス、5時半時起床、皆が眠そうな顔をして「Hi, Good morning」と挨拶をかわす。 6時キッチンに集まり朝食、7時仕事開始。
朝は慌ただしい。ボランティアの一日めは基本技術の習得。まず、手始めは「Howto survive in the forest」。森の中でコンパスを使って目的地へ辿り着く方法の実習。
午後は移動の為のカヌーの漕ぎ方の練習、これがなかなか面白い。夕方になると、順番でカヌーで イブニングクルーズに行く事が楽しみになってしまった。夕方になるとテングザルやカニクイザルが 河岸の森に移動して来る。彼等は河岸で夜を明かすのだ。だからイブニングクルーズはこれらの動物 を見るためにはもってこいの方法なのである。
フィールドの前半の作業は、約240本の植林。この植林はテングザルの生息に必要な環境を調べる 為のデータ取りの目的の森を作る事である。2〜3mの背丈の草原を切り開き、ベンターン、アパナ マポポーンという2種類の木の苗を整然と植えていく。午前中のまだ涼しい時間帯とはいえ、かなり 大変な作業だった。
体中傷だらけである。半ば冗談で「この10年間こんなに働いた事はないよ」等と話ながら作業を すすめた。仕事の合間に、現地のダヤッ族のスタッフから50種類の木の名前を教えてもらった。
中にはマホガニー、ラワン、ロタン、ウリン(ボルネオ鉄木)の様に知っている名前もあったが、 基本的にインドネシア語の名称なので、後で日本名等調べようにも何がなんだか分からない。言葉の 壁の悔しさをまたも感じた。
違法伐採で壊滅の危機に瀕するボルネオ島の熱帯雨林
http://hotwired.goo.ne.jp/news/culture/story/20040219206.html
かつて南米アマゾンとともに「地球の肺」と呼ばれたインドネシアのボルネオ島[現地名:カリマンタン島]では、違法な森林伐採が熱帯雨林(写真)を破壊し、生態系を壊滅の瀬戸際に追いやっている。
『サイエンス』誌2月13日号に掲載されたイェール大学のリサ・M・カラン準教授による新たな報告では、ボルネオ島では合法的な伐採用に確保されていた熱帯雨林のうち95%がすでに切り払われてしまっただけでなく、国立公園として保護されているはずの森林でも約60%が違法に伐採されているという。
非合法に伐採された木材は合板に加工され、アジアの他の地域へ輸出されている。また、日本や欧米の市場に向けた家具の製造にも使われている。ボルネオ島の貴重な原生林から採れるメランティー材(フィリピン産のラワンに相当)も、床材や高級車の内装に使われる。
イェール大学熱帯資源研究所の所長でもあるカラン準教授の報告によれば、現在のペースで森林破壊が続くと、テキサス州とほぼ同じ大きさのボルネオ島から、あと3年で完全に熱帯雨林が消えてしまうという。そんな事態になれば、野生生物や現地に住む人々、さらには地域の気象パターンにも甚大な影響を及ぼすことになる。現在でも、マレーグマやサイチョウ、ヒゲイノシシ、オランウータンといった動物は、急速に絶滅危惧種になりつつあるという。
今回の報告は、航空・衛星写真を、マッピングシステムや遠隔探査(リモートセンシング)機器から得たデータと統合したものだ。調査は1999年から2003年9月にかけて行なわれた。
カラン準教授は、「(森林の)残っている範囲は狭く、寸断されてしまっているので、すでに熱帯雨林に依存して生きている多くの種を支えられなくなっている。オランウータンやマレーグマ、野生のイノシシといった大型哺乳類が飢えている姿を初めて見た」と述べている。
ボルネオ島には420種類以上の鳥類と222種の哺乳類が棲息しており、そのうち半分は熱帯雨林がないと生きていけない。さらに、ボルネオ島の先住民であるダヤク族は、主にイノシシをタンパク源としている。
「動物たちが危機に瀕しているのは明らかだ。たとえば、西ボルネオのグヌン・パラン国立公園では、これから数年のうちにオランウータンの個体数が3分の2に減少するだろう」とカラン準教授。
カラン準教授は、現在の減少率が続けば、熱帯雨林に棲む動物の多くが10年も経たないうちに絶滅するだろうと考えている。「ある種の限界点に達するまでは、動物が絶滅することはない」とカラン準教授。「われわれは今、その限界点のごく近くまで来ていて、いったん限界点に達してしまえば、もはや手遅れで踏みとどまることは不可能だろう」
また、アブラヤシ農園が急速に拡大し、1992年から40倍になっていることも、問題をさらに深刻にしている。アブラヤシの栽培場所を確保するため、広大な熱帯雨林が伐採されているほか、農園が動物の移動を妨げる障害にもなっているからだ。
ボルネオ島の熱帯雨林の成長サイクルはエルニーニョ現象と関連がある。エルニーニョは以前、森林の再生を促す力を持っていたが、熱帯雨林が寸断されたことにより、むしろ森林を破壊する方向に働くようになってしまった。また、森林が切り払われたため、干魃(かんばつ)が以前より頻繁に起きるようになり、その深刻度も増した。その結果、森林火災も増加している。
ボルネオ島は、比較的大きな陸地のなかで、『エルニーニョ・南方振動』の影響を最初に受ける場所だ。また、1997年と1998年にはボルネオ島とブラジルでエルニーニョに起因する森林火災が起きたが、カラン準教授によると、この際に排出された二酸化炭素は西ヨーロッパ全体の工業生産による排出量よりも多かったという。
これほどまでに熱帯雨林の破壊が進んだ理由については、数多くの説がある。たとえば、地方分権化された政府が監視を怠ったことや、目先の利益を追う地元住民の行動に原因を求めるものだ。
だがカラン準教授は、森林破壊の真の原因は、世界的に木材の需要があることや、合法的に伐採された木材が業界全体で大幅に不足していること、スハルト独裁政権当時に始まった政治腐敗にあるとみている。しかも、政治腐敗はスハルト政権に限った話ではない。
過去20年間にボルネオ島で伐採された木材の量は、中南米とアフリカから輸出された熱帯の木材をすべて合わせた量を上回る。輸出が最高潮だった1990年代半ばには、木材産業は年間90億ドル規模に達していた。だが今や、合法的に伐採できる森林はほとんど残っていない。インドネシアの木材生産量のうち、90%以上は違法な伐採によるものだ。