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(回答先: アチェーの抵抗:グーグル検索「オランダ アチェー」でヒットしたサイト 投稿者 たかす 日時 2006 年 8 月 25 日 18:18:38)
ニューギニア島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%B3%B6より
歴史
最初の人類は、氷河期の頃にスンダランドから移住してきた人々であると考えられ、オーストラリアのアボリジニと同じ系統であるオーストラロイドとされる。
大航海時代にオランダ人やポルトガル人が来訪、熱帯雨林と湿地帯がほとんどを占めるこの島は活用方法が無く、ほとんど手付かずであった。やがて、植民地主義の到来で獲得競争はこの島にも訪れ、西半分をオランダ、東はオーウェン・スタンレー山脈とビスマルク山脈で南北に分け、北をドイツ領、南をイギリス領に三分割した。後に、イギリス植民地は1901年に独立したオーストラリア(英連邦)のニューギニア植民地となる。
第一次世界大戦後は国際連盟によってドイツ植民地をオーストラリアの委任統治領としたが、太平洋航海の中継点として利用するほかは使い道が無かった。このころまで、険しい山中には人が住んでいないと思われていたほどである。第二次世界大戦の開戦によって島の北半分が日本によって占領される。ニューギニア南部の拠点(ポートモレスビー)確保のために、北部沿岸に飛行場の建設など東部ニューギニアで戦いが行われ、日本軍とオーストラリア軍が戦闘を繰り広げた。
アメリカ合衆国軍がオーストラリアを拠点に空輸作戦や上陸作戦を実施し、北部沿岸一帯での激戦の末に日本が敗退すると、各国が植民地経営を再開するが、1949年にオランダがインドネシアの独立を認め、オランダ領西パプア植民地も国連による暫定統治を経て、インドネシアへ併合されてイリアンジャヤ州(「偉大な東」という意味)となった。現在はパプア州に改称された。
東側ではイギリスが植民地経営から撤退し、国際連合の信託統治領としてオーストラリアが支配していたが、1975年に英連邦の一員として独立を認め、パプアニューギニア独立国が成立した。
イリアンジャヤ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E3%83%91%E3%83%97%E3%82%A2
歴史
約4万年前にメラネシア系住民がニューギニア島に入り、長く原始的な部族社会を営んできた。19世紀にオランダ人が海岸部に商館を設置し、1885年にニューギニア島西半分をオランダ領東インド(インドネシア)に併合した。1942年から1944年まで日本軍が同地域の北部海岸を占領している。インドネシア独立戦争を終結させたハーグ円卓会議(1949年)で同地域の帰属問題は難航し、オランダ領のまま将来の解決に委ねられた。1952年、オランダはパプア人の自治権を認め、独立準備を進めたため、領有権を主張するインドネシアとの対立が深刻になった。ソ連の軍事援助を受けて軍備を拡張したスカルノ大統領は1960年、オランダと国交を断絶し、1961年インドネシア国軍を西パプアに進攻させた。
しかし、インドネシアにおけるソ連の影響力拡大を恐れた米国のジョン・F・ケネディ大統領は弟のロバート・ケネディ司法長官をオランダ、インドネシア双方に派遣して調停を行い、西パプアは1962年国連の管理下に置かれ、翌年インドネシアに引き渡された。インドネシアは1969年、国軍の管理下で操作された住民投票を行い、80万人のパプア人の意思を無視して西パプアを併合、西イリアン州(1973年、イリアンジャヤ州と改称)を設置した。これに対してパプア人の間ではインドネシアからの独立を求める自由パプア運動が起こったが、インドネシアは1970年、イリアンジャヤを軍事作戦地域に指定し、国軍による弾圧を行った。その一方で120万人を超えるインドネシア人がイリアンジャヤに移住して植民を行っている。2003年2月、住民の反対にもかかわらず、同州最西部(鳥の頭の部分)を西イリアンジャヤ州(州都、マノクワリ)として分割した。現在、独立運動が起こっている(イリアンジャヤ問題)
イリアンジャヤ
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/irian_jaya.html
B−11章 新パプア州(インドネシア専科より)
http://www.jttk.zaq.ne.jp/bachw308/page023.html#235
題名:パプア・ニューギニアの最高峰ウィルヘルム山(4508m)(2001/1/2〜7)
http://otsubo.info/s_contents/papua.htmlより
●パプア・ニューギニア
ニューギニアは、グリーンランドに次いで、世界で二番目に大きい島なのです。その島の東半分がパプア・ニューギニアという國なのです。
赤道と南緯10度との間にあり、日本の真南よりちょっと東に寄った位置にあります。
島の半分といっても、パプア・ニューギニアの面積は46万平米余、日本の37万平米よりも大きいのです。
それでいて、人口はたったの400万人に過ぎません。
ここに4万年ほど前に、人が住み着いたといわれています。メラネシア系の人であります。
ヨーロッパ人が最初にコンタクトしたのは16世紀始めですが、19世紀後半に、ヨーロッパ諸国による植民地獲得競争が激しくなった頃から、本格的な関係ができたのでした。
島の西半分はオランダがとり、現在はインドネシア国のイリアン・ジャヤ州になっています。
島の東半分の北側はドイツ、南半分はイギリスがとりました。今度登ったウィルヘルム山は、ドイツ人が名を付けたのでしょう。その後、第一次大戦でドイツが負けたので北側もイギリスの勢力範囲となり、植民地解消の時代を迎え、1975年,ついに独立を獲得したのです。
コーヒー、ココア、コプラ(椰子の実)、銅などを輸出しています。
今回訪ねた1月始めは、雨期の最中であります。
熱帯の雨期は、日本の梅雨とは違って、ジトジト降るのではなく、激しい夕立が毎日来て雨量が多くなるのだと書いた本がありました。
また熱帯では、年によって気候の様子がすっかり変わるので、最低2年は住まないと、ああこう言うべきではないと書いた本もありました。
私の体験だけ言えば、5日滞在していたうちに、ジトジトが2日、夕立が2日ありました。
昨年オーストラリアを旅していたときに、南半球では、真昼に太陽がある方向が北だと、自分にくどく言い聞かせていましたが、ここニューギニアのように赤道に近いと、1月という時期には太陽はさらに南にあり、理屈の正しさを面白く思いました。
ニューギニアに、なぜ人口が少ないのか、大変疑問に思いますが、どうしてもそのすっきりした理由は分からないのです。
私が行った地方は、山が多いことは分かりましたが、世界地図で見ると、この國には平野だって結構あるようなのです。その平野がどんなになっているのか、まったく分かりません。
全体に、温度、降雨、日照には恵まれていると言って良いでしょう。似たような緯度にあるジャワ本島の人口密度は、世界のトップクラスなのです。この違いは、一体何が原因になっているのでしょうか。
ある本には、今より約300年ほど前、在来のタロ芋にくらべ低温でも栽培できるサツマ芋が導入されてから、ニューギニアの人口は爆発的に増加したと書いありました。
また、オーストラリアに似て大型動物がいなかったために、タンパク質が不足し、昆虫や蜘蛛まで食べたり、また、そのために食人の習慣さえあったのだとも書かれていました。
日本でも縄文時代には、最も温暖で繁栄した前期末さえ、人口は26万人に過ぎなかったという説があります。
食料生産技術と医療技術のレベルが上がれば、この国は、もっと沢山の人間を養える土地のようにも思われます。
パプアニューギニアの歴史
http://www.meigaku.ac.jp/kokusai/png/19.htmlより
4〜5万年前、ニューギニア島はオーストラリアと陸続きで、アジア大陸とは60Kmほどの海峡で隔たっていたと考えられています。この時代に現在のスマトラ、ジャワ島などを経てニューギニア島南西部にモンゴロイドが渡ってきてパプア人となり、オーストラリアに到達したのがアボリジナル(オーストラリア先住民)となったと考えられてます。しばらくして、ヒマラヤの南部から主に現在のインドシナ半島、カリマンタン島を経由して寒冷な気候に適応したモンゴロイドがニューギニア島西部に到着しました。これらの移入は数万年の間断続的に続き、人種的にも多用で、現在のメラネシア人の祖先となったと考えられています。
以上の、それぞれタイプの異なるモンゴロイドが、現在のパプアニューギニアの人々の祖先と考えられています。彼らの中で、高地に住む人々は約1万年前には畑を作っており、これは世界でも最初の農耕とされています。