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(回答先: それはあなたの偏った認識と、相対的な決め付けによるものだろう。 投稿者 ○H○ 日時 2006 年 7 月 26 日 00:39:49)
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>思考や意識に目を向けるとそれは客体にしかならない。目を向けているものが主体であり、自己だと認識している。ただ主体(自己)は知られることも認識されることもない。つまり主体が見出された時、それは客体に変わるだけだ。
“主体であり、自己だと認識している。”と言った直ぐ後に、“主体(自己)は知られることも認識されることもない。”と続ける無神経さには呆れるぜ。認識されることのないものを認識していらっしゃるってえことになるじゃねえか。
結局、単なる想像ってえことだろう。オメエさんの想像をオイラが繰り返してやろうか。〜〜目を向けているものが別に居るに違えねえ。ソイツが主体であり自己なんじゃねえか。そんな気がする。気がするだけだから認識なんかできねえが、見出された途端に客体に変わるんだからそれも仕方がねえ。〜〜ってな具合よ。
オメエさんの論理構成ってなあその程度のもんよ。辻褄合わせってことさ。
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>客体(対象・内容)に気付くということそのものが、既に作用があることを示しているではないか?
違うんだよなあ。気付くということを指して作用と呼ぶんだよ。作用があるから気付くんじゃねえんだ。既に作用があるって言っちまったら、その作用ってなあ一体何なのか掴みようがねえだろう。言葉が一人歩きしちまうのさ。
>作用が無くて、どうして客体を“認識”できるのか?
出来ねえってどうして言えるのかねえ。既に作用があるって自分で決めといて、だから作用無しじゃ困るだろうって言ってるだけじゃねえか。
>そして客体(対象・内容)に気付くには、客体でないものからの視点(主体)が必要ではないのか?
どうして?“客体でないものからの視点(主体)”なんてなあ大いなる飛躍よ。落ち着いて考えりゃこういう事じゃねえかい。先ず、気付いた。次に、気付いたということに気付いた。取り敢えずはそこまでよ。
>客体(対象・内容)でないものが無くて、どうしてそれが客体(対象・内容)だと“認識”できるのか?
出来ちゃ悪いかい。気付くという作用の後ろにゃ気付く者が居るに違えねえってえオメエさんの思い込みさえ無くしちまえばイイのよ。
>そして主体に気づき、主体と区別するというのは、既に主体を客体化することであり、二次的なことだと思っている。
確かに二次的なこった。オメエさんが勝手に持ち込んだ主体-客体なんぞはな。
>主体は、決して知られるものでも、観られるものでもなく、客体では無いものだと思っている。そしてそれが主体として観られた(見出された)時、それは主体同一化(カテゴライズ化)でしかないと思っている。
“客体でないものからの視点(主体)”ってのが結局ここに行き着くんだなあ。知られも観られもしねえ訳の分からねえもんによ。常に否定形でしか言及出来ず、其れと指示された時にゃ既にそのものではなくなっちまってる。こんなもんを形而上的存在っちゅうんだよなあ。
しかも、元はと言やあテメエで勝手に持ち出した“客体でないものからの視点(主体)”に過ぎねえじゃねえか。最初から最後までオメエさんの創作だよ。そのステキなお話が面白くて悦に入ってるだけじゃねえか。
>そして、主体が無ければ、客体も無いのだろう。
“そして”じゃねえだろう。“先ず”だろう。そこがオメエさんの出発点よ。先ず、主体が無ければ客体も無いのだろうから全てが始まってんじゃねえかい。主体-客体ってえ図式が頭にこびりついて離れねえんだろうよ。
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>そこから何故「主体でない自己」が残るのかが解らない。主体の論理的根拠を失えば、自己に対する論理的根拠も失うだろう。
主体=自己ってなあオメエさんが勝手に掲げた公式だろ。オイラの議論はそれを否定しようってえ話だぜ。オメエさんの公式に縛られる必要はねえハズだぜ。シッカリしてくんな。
>なぜ主体から対象へと向かうのか?対象と主体(自己)は論理的に区別されたのではないか?その方向性は実に非論理的だと思っている。
オメエさんの口からそんなセリフを聞くとは思わなかったぜ。“主体が見出された時、それは客体に変わるだけだ。”なんてことを平然と仰ってた方からよ。
念の為に言っとくが、“主体から”じゃねえよ。主体なんか最初から有りゃしねえよ。有るのは先ず対象よ。全てはそこから始まってんのよ。
>主体は、対象と区別されることによって、主体を相対的に創り上げ、見出すことができ、そして自己同一化は起きる。対象が、例えば親だとしたら、親ではないものとして、例えば子供だとして自己を見出す。
違うんじゃねえか。子供は親ん中に主体を見出すんだと思うぜ。そして、その主体によって客体化された自身を見出し、その客体化された姿に自己同一化するんじゃねえかなあ。その後、自己同一化した自身の姿を改めて対象化し自己を見出すんだろうぜ。
オメエさんの言う主体云々ってなあ全てその後の事じゃねえかなあ。
>自己は「対象でない」ということであるのであって、何者かであるとするのは、相対的に見出されたものであり、また、それが見出された時、それは対象(客体)にしかならないし、自己同一化という現象だと思っている。
オメエさんの論理構成じゃあ自己同一化しなきゃ自己は見出せねえんだろ。だったら、自己同一化した対象の中に自己を探すしかねえだろうよ。鏡に映ったニセモノでもイイじゃねえか。ニセモノは似せ物よ。ホンモンでねえとしても似てることにゃ違げえねえだろう。
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>だから、それらはあなたの世界に起きていることで、あなたの世界そのものであり、全てが自己なら、それも含めて自己であり、そして自己でないものは何も無くなり、それはもはや自己とは言わないということ。
オメエさんの論理構成じゃそうなるんだろうよ。しかし、オイラの世界は常に他者に接しており他者と交わり何事かが起こってる。事柄の向こうに常に他者が居るんだよ。
>思いがけない事も、驚くべき信じられないと感じることも、証拠があると思うことも、全ては世界の内にしか起きないということ。
世界の内にしか起きないが、その原因は世界の外から来るんだよ。
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>ここ数回の議論において思うことだが、どうもあなたは、相対的に決め付けをすることが多いのではないか?
オメエさんの頭ん中が段々分かってきちまったからだよ。肝心ななあその決め付けが的を射てるかどうかじゃねえかい。トンデモねえ言い掛かりだってんならその事を解明して見せてくんな。
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>主体を見切ってしまったあなたの世界において、誰が所有するのか?誰が暴力や戦争をするのか?誰が自滅するのか?
他者だよ。オメエさんの世界に欠けている他者さ。
>主体が無いのに、所有者や暴力をする者がいるのは矛盾してはいないか?
「オメエさん」とは誰の事か?私の事か?主体ではない自己であるところの私か?私は主体ではないのだろ?なら私は所有者でも加害者でもないはずだ。
有りもしねえ主体なんてえ幻想に取り付かれちまった他者の皆さんが訳も分からず取り乱していなさるってえことよ。
>客体が客体に作用するということか?そしてあなたの世界に属する客体は全てあなたなのだろ?
だったら、全ての責任はあなただ。私にそれを求めるのはお門違いだ。
オイラは主体じゃねえんだからオメエさんも客体じゃねえ。オメエさんの文章はオイラの世界の一部だが、オイラが書いたもんじゃねえ。お書きになった偉え御仁はオイラの世界の外にいらっしゃるのよ。そういう皆さんが、所有だ暴力だ戦争だってんでオイラの世界を荒らしまくんなさるのよ。黙っとくわけにゃいかねえだろ。