★阿修羅♪ > 雑談専用19 > 330.html
 ★阿修羅♪
それはあなたの偏った認識と、相対的な決め付けによるものだろう。
http://www.asyura2.com/0601/idletalk19/msg/330.html
投稿者 ○H○ 日時 2006 年 7 月 26 日 00:39:49: dYD4U0ksEk0Do
 

(回答先: 形而上的エイリアンたるOHOさんへ 投稿者 天蓬元帥 日時 2006 年 7 月 25 日 16:44:51)

>『自分で論理構成だって言いながら、その論理構成に自分が騙されてんじゃねえかい。オメエさんの言う「作用」「主体」「客体」を並べて考げえりゃ、三つの項目になるんだよな。「作用」は単独でも理解できる。「主体」:「作用」の組み合わせも理解できる。しかし、「作用」:「客体」の組み合わせは理解できねえ。〜だな。 。』

○H○
「自己は主体だ」という件における議論に於いては、それは論理的発想だと書いているが、ここで述べている件については必ずしも論理的なものではない。これはあなたの取り上げた「作用と客体だけの状況」「主体でない自己」をどうにかして私が理解する為に書いたものでしかない。
それは何か?それは論理的なことか?それとも形而上的なことか?イメージか?とにかく、私に少しでも理解できるように書いてほしいというものだ。だから、あなたの想像するシチュエーション、つまりより具体的な状況を教えてほしいと書いたのだ。
私が書いた「作用だけ」「主体と作用だけ」というのは、比喩的な例えとして状況をイメージすることで、理解ができるというものだ。もちろん想像(イメージ)は想像の範囲内しかなく、それは真理に迫ることはできても真理では在りえないだろう。
だからそれらの状況があるという論理的根拠(前提)として何かを主張した憶えは無い。ただそれはイメージとして理解はできるし、またあり得るかもしれないとは思っているだけで、思考と想像と記憶と言語を通してはこれが限界だと思っている。

「作用だけ」「主体と作用だけ」に対する比喩的なイメージというのは、例えば、夢を観ている時、主体(自己)と作用と客体(対象)とに分けられる。だが、夢から覚めると、そこに現れていた自己(主体)や客体(対象)は現実ではなく、自己が創り上げた夢であったと感じることができるだろう。その場合、現実の自己の内においては、観る・考える・感じる等の作用だけが現実であったと知る。これが作用だけがあるという状況においてのイメージであり、これは夢を創り上げた主体(自己)と作用だけがあったとすることもできる。
ただそれは、論理的に的を得たものではないし、夢から覚めた現実と呼ばれるこの世界が、これを根拠にして現実ではなく夢のようなものだとして主張するわけではない。それをするなら、あなたの言うような形而上的な主張になるのだろう。あくまでもあなたの言う「主体でない自己」を私が少しでも理解する為に取り上げたものでしかない。


>『ここで、どの項目にも「作用」が含まれてるよな。その「作用」が曲者よ。「作用」の中身は何なんだい。オメエさんの考げえる「作用」ってなあ、どんなもんなんだい。オイラの睨んだとこじゃ、その「作用」ってヤツの後ろに最初っから「主体」が隠れてんだよ。オメエさんにゃ、「主体」抜きの「作用」なんて理解出来てねえんだよ。』
>『オメエさんにとっちゃ「主体」と「客体」ってなあ何時だって相対的なもんらしいから、「主体」の隠れ蓑みてえな「作用」に対して「客体」を考げえようとすりゃ、どうしても「主体」が顔を覗かせるってことになるんじゃねえかい』

○H○
もちろん主体がある限り、「作用だけ」というのは考えられない。だが、主体の不在(客体の不在)、若しくは主体と客体との一致においては、作用だけが残されるだろうとはイメージしている。勿論想像の内でしかないし、想像している「私」という自己が無くならない限り、それがあるとは言い切るつもりもないし、論理的根拠として主張するつもりもない。むしろ『オイラの世界全てがオイラの自己』と主張して、『主体-客体の区切りはナシってことぐれえかな』と持ち出しているのはあなたではなかったかな?


>『意識作用でも思考作用でもイイがよ、作用ってのを考げえる順序は、先ず、何かを捉えてるとか考げえてるって意識なり思考なりがあるってことに注意を向けることからだよな。つまり、最初に意識の内容とか思考の内容とかがあって、そうした内容を生み出してる作用が有りそうだって考げえるんだろうぜ。その上で、その作用に意識とか思考とかってえ名めえを付けたんじゃねえのかい。 』
〜中略〜
>『で、ここに主体と客体ってえ関係を持ち込んだのがオメエさんよ。こんがらがらねえように主体と客体に分けてみたんだろうよ。つまり、作用ってなあ主体から客体へ向けての作用に違えねえってわけよ。主体と客体の関係の中で作用を考げえよってことにしたんだろうよ。作用される作用と、作用する作用に分けて考げえようってことだろうな。』

○H○
思考や意識に目を向けるとそれは客体にしかならない。目を向けているものが主体であり、自己だと認識している。ただ主体(自己)は知られることも認識されることもない。つまり主体が見出された時、それは客体に変わるだけだ。


>『だが、それだけじゃ事は解決しねえよなあ。作用される作用と、作用する作用に分けて考げえてるなあ一体何者かってことになっちまって堂々巡りが始まるわけよ。結局、意識や思考の外に、“決して知られるものでも観られるものでもない”何かを想像するしかなくなっちまったんだろうぜ。いわゆる形而上的議論が始まるわけだ。
オメエさんが、それ自身に作用する作用を考げえる時、主体と客体ってえ関係を持ち込んだからそうなっちまったんだが、そんな安易な論理構成なんかやらなきゃ形而上的議論は避けられるはずよ。』
〜中略〜
>『 意識作用や思考作用に気付いて後、気付くってえこと自体がそうした作用の一部じゃねえかっつうわけで、それ自身に作用する作用って話になるのよ。で、一体こりゃ何なんだろうってわけよ。オメエさんみてえに慌てず、ここでじっくり腰を据えて考げえてみようってえのよ。』

○H○
客体(対象・内容)に気付くということそのものが、既に作用があることを示しているではないか?作用が無くて、どうして客体を“認識”できるのか?
そして客体(対象・内容)に気付くには、客体でないものからの視点(主体)が必要ではないのか?客体(対象・内容)でないものが無くて、どうしてそれが客体(対象・内容)だと“認識”できるのか?
そして主体に気づき、主体と区別するというのは、既に主体を客体化することであり、二次的なことだと思っている。主体は、決して知られるものでも、観られるものでもなく、客体では無いものだと思っている。そしてそれが主体として観られた(見出された)時、それは主体同一化(カテゴライズ化)でしかないと思っている。
そして、主体が無ければ、客体も無いのだろう。


>『主体の論理的根拠が崩れちまえば、主体でねえ自己について考えてみるしかねえじゃねえか。もちろん、トンデモねえ幻想世界を彷徨う恐れは多いに有るだろうよ。取り敢えずは自己の二重性から出発すんのかなあ。それも、対象的存在としての自己の二重性や、意識や思考の作用における二重性とか、それから本質的な二重性って具合に色々有るよな。まあ、ぼちぼち遣るしかねえやなあ。』

○H○
そこから何故「主体でない自己」が残るのかが解らない。主体の論理的根拠を失えば、自己に対する論理的根拠も失うだろう。
なぜ主体から対象へと向かうのか?対象と主体(自己)は論理的に区別されたのではないか?その方向性は実に非論理的だと思っている。
主体は、対象と区別されることによって、主体を相対的に創り上げ、見出すことができ、そして自己同一化は起きる。対象が、例えば親だとしたら、親ではないものとして、例えば子供だとして自己を見出す。
自己は「対象でない」ということであるのであって、何者かであるとするのは、相対的に見出されたものであり、また、それが見出された時、それは対象(客体)にしかならないし、自己同一化という現象だと思っている。


>『そうだよ。オイラの世界に間違いなく起こってんだよ。思いがけねえ事が、有り得ねえような事が、信じられねえ事が、受け入れられねえ事が、驚くべき事が、………。それで充分じゃねえか。何が不足なんだい。オメエさんの欲しがる証拠ってなあ何なんだい?論理構成かい?オイラにゃ一つの事実で充分だぜ。』

○H○
だから、それらはあなたの世界に起きていることで、あなたの世界そのものであり、全てが自己なら、それも含めて自己であり、そして自己でないものは何も無くなり、それはもはや自己とは言わないということ。
思いがけない事も、驚くべき信じられないと感じることも、証拠があると思うことも、全ては世界の内にしか起きないということ。


>『そこでオメエさんは生きて死んでいく自己じゃあねえ自己ってのをお説きになってるんだよな。“決して知られるものでも観られるものでもない”自己ってのをな。その訳の分からねえ野郎が世界の外から世界の中に客体を見出して自己同一化するんだったよな。まるでエイリアンだぜ。自分のグロテスクな姿にゃ気付かねえんだろうけどよ。』

○H○
生きて死んで行く存在というのは、世界の内にしか存在することしかできないと書いただけだ。
また、自己は生きて死んで行く存在では“ない”だろうと書いたことはあったかもしれないが、生きて死んで行く自己でない自己が“ある”と主張した憶えはない。
それは、思考や認識を使っては計り知り得ないことだとは思っているし、それが“ある”ということ自体、それを客体化することで矛盾する。だから、それは「自己ではない」という否定でしか言い表すこと(迫ること)しかできないだろう。
また、矛盾した言い方になってしまうが、“決して知られるものでも観られるものでもない”自己はあるかもしれないとは思っているが、それを論理的根拠として何かを主張した憶えはない。
自己は主体であるとした上で、それを想像によって導き出しただけに過ぎない。そして“決して知られるものでも観られるものでもない”自己があるという根拠で、自己は主体だとした憶えもない。

ここ数回の議論において思うことだが、どうもあなたは、相対的に決め付けをすることが多いのではないか?


>『オメエさんみてえなエイリアンがウジャウジャ居るうちゃあ戦争も暴力も所有も無くなるはずがねえや。「や〜めた」って言えねえ連中が自滅するまではな。悪いこたあ言わねえ、主体なんざ見切っちまいな。オメエさんの為だ。』

○H○
主体を見切ってしまったあなたの世界において、誰が所有するのか?誰が暴力や戦争をするのか?誰が自滅するのか?
主体が無いのに、所有者や暴力をする者がいるのは矛盾してはいないか?
「オメエさん」とは誰の事か?私の事か?主体ではない自己であるところの私か?私は主体ではないのだろ?なら私は所有者でも加害者でもないはずだ。
客体が客体に作用するということか?そしてあなたの世界に属する客体は全てあなたなのだろ?
だったら、全ての責任はあなただ。私にそれを求めるのはお門違いだ。

 次へ  前へ

  拍手はせず、拍手一覧を見る

▲このページのTOPへ HOME > 雑談専用19掲示板


  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。