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OHOさんの「自己は主体だとしているだけで、一つだとしているわけではない。」(http://asyura2.com/0601/idletalk19/msg/275.html)へのレス。
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>主体(対象・客体として)を無くそう(作用)とする者は何か?と問えば、それは主体(作用者)でしか在りえないのではないか?「客体」と「作用」があって何故「主体」だけが無いのだろうか?
「作用」だけが在るというのなら解る。「主体」と「作用」だけが在るというのも解る。ただ「作用」と「客体」だけが在るというのは、理解ができない。どういう場合(シチュエーション)か教えてほしい。
自分で論理構成だって言いながら、その論理構成に自分が騙されてんじゃねえかい。オメエさんの言う「作用」「主体」「客体」を並べて考げえりゃ、三つの項目になるんだよな。「作用」は単独でも理解できる。「主体」:「作用」の組み合わせも理解できる。しかし、「作用」:「客体」の組み合わせは理解できねえ。〜だな。
ここで、どの項目にも「作用」が含まれてるよな。その「作用」が曲者よ。「作用」の中身は何なんだい。オメエさんの考げえる「作用」ってなあ、どんなもんなんだい。オイラの睨んだとこじゃ、その「作用」ってヤツの後ろに最初っから「主体」が隠れてんだよ。オメエさんにゃ、「主体」抜きの「作用」なんて理解出来てねえんだよ。
オメエさんにとっちゃ「主体」と「客体」ってなあ何時だって相対的なもんらしいから、「主体」の隠れ蓑みてえな「作用」に対して「客体」を考げえようとすりゃ、どうしても「主体」が顔を覗かせるってことになるんじゃねえかい。
意識作用でも思考作用でもイイがよ、作用ってのを考げえる順序は、先ず、何かを捉えてるとか考げえてるって意識なり思考なりがあるってことに注意を向けることからだよな。つまり、最初に意識の内容とか思考の内容とかがあって、そうした内容を生み出してる作用が有りそうだって考げえるんだろうぜ。その上で、その作用に意識とか思考とかってえ名めえを付けたんじゃねえのかい。
その続きで、こうやって意識や思考について考げえを巡らせてるなあ、これ自体が意識や思考の作用だろうから、意識や思考ってなあそれ自身を対象として作用するヘンなもんなんだなあって事になったんだろうぜ。それ自身に作用する作用ってんだから、頭あこんがらがるぜ。
で、ここに主体と客体ってえ関係を持ち込んだのがオメエさんよ。こんがらがらねえように主体と客体に分けてみたんだろうよ。つまり、作用ってなあ主体から客体へ向けての作用に違えねえってわけよ。主体と客体の関係の中で作用を考げえよってことにしたんだろうよ。作用される作用と、作用する作用に分けて考げえようってことだろうな。
だが、それだけじゃ事は解決しねえよなあ。作用される作用と、作用する作用に分けて考げえてるなあ一体何者かってことになっちまって堂々巡りが始まるわけよ。結局、意識や思考の外に、“決して知られるものでも観られるものでもない”何かを想像するしかなくなっちまったんだろうぜ。いわゆる形而上的議論が始まるわけだ。
オメエさんが、それ自身に作用する作用を考げえる時、主体と客体ってえ関係を持ち込んだからそうなっちまったんだが、そんな安易な論理構成なんかやらなきゃ形而上的議論は避けられるはずよ。
もともと、意識や思考の作用を考げえ付いたなあ、意識や思考の内容が先に有ったからだよな。しかも、その内容ってのが客観的な存在と区別されることによって意識や思考の内容として把握されるという、もう一つ前の事情もあらあな。要するに、作用に気付く前に内容に気付き、内容に気付く前に存在との区別に気付くってことだあな。
漠然と何かを意識したり考げえたりしてる内に、その何かをより明確に対象的存在として意識し始めた時、あるいは考え始めた時、その対象的存在とそれに対する印象やイメージのズレから意識や思考の内容が主観的なものだって気づくことになるんじゃねえかなあ。つまり、意識や思考の対象とそれに対する意識内容や思考内容の区別に気付くんだろうよ。そして、それからやっと、そうした内容を生みだす作用ってもんに行き着くんだろうぜ。そこにゃまだ、主体なんてもんは影も形もねえやな。
意識作用や思考作用に気付いて後、気付くってえこと自体がそうした作用の一部じゃねえかっつうわけで、それ自身に作用する作用って話になるのよ。で、一体こりゃ何なんだろうってわけよ。オメエさんみてえに慌てず、ここでじっくり腰を据えて考げえてみようってえのよ。
大体、それ自身に作用する作用なんて言い方が良くねえよな。オイラが自分で言っちまったんだが、良くなかったぜ。それ自身に作用する部分もあるが、そうでない部分もあるんだよな。もともとの意識内容や思考内容ってなあ、意識や思考の外部に対する作用の作り出したもんのハズよ。つまり、意識や思考はそれ自身に作用するだけじゃねえで、外部に対しても作用すんのよ。作用のあり方が二通りってえことよ。
意識や思考は、先ず外部に対して作用し、次に、そうして獲得した意識内容や思考内容に作用してこれを整理し、更に、そうした作用の流れ全体を内容として捉え意識作用・思考作用として整理し、最後に、その二重性を把握して、そこから自身の本質把握を目指すという段取りじゃねえかなあ。
そうやって形而上的議論を避けながら遣ってきたのが近代の西洋哲学って聞いてるぜ。もちろん、形而上的議論のどこが悪いって居直ってもイイんだろうけどよ、ソコからは何も生まれねえってのが賢い皆さんの統一見解ってもんらしいぜ。
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>「そいつをじっくり考えようぜ」というのは、あなたがそれがあると創造して仮定した段階ではないか?“そんな気がするだけなんだろ?”「トンデモねえ幻想世界」を彷徨っているのではないか?
「訳の分からねえ主体(自己)なんざ実在であるはずもなかろうよ。信仰でなきゃ幻想よ。」と言うぐらいだから、さぞや「主体でない自己」の論理的根拠やイメージが出来ていると踏んではいたが・・・。
主体の論理的根拠が崩れちまえば、主体でねえ自己について考えてみるしかねえじゃねえか。もちろん、トンデモねえ幻想世界を彷徨う恐れは多いに有るだろうよ。取り敢えずは自己の二重性から出発すんのかなあ。それも、対象的存在としての自己の二重性や、意識や思考の作用における二重性とか、それから本質的な二重性って具合に色々有るよな。まあ、ぼちぼち遣るしかねえやなあ。
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>どうしてあなた以外に世界が在ると思うのか?あなたは他の世界の存在におけるどんな証拠を持っているというのか?あなたはあなたの世界が全てではないか?あなた以外の世界があると想像することも、証拠があるとするのも、影響や刺激があるとするのもあなたの世界に起きていることであり、全てはあなたの世界そのものではないのか?
そうだよ。オイラの世界に間違いなく起こってんだよ。思いがけねえ事が、有り得ねえような事が、信じられねえ事が、受け入れられねえ事が、驚くべき事が、………。それで充分じゃねえか。何が不足なんだい。オメエさんの欲しがる証拠ってなあ何なんだい?論理構成かい?オイラにゃ一つの事実で充分だぜ。
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>生きて死んでいく存在と認識しているあなたは、時間と空間、記憶と想像に縛られた個でしか在りえないのではないか?それは世界の中に存在することしかできないと思っており、あなたの世界が全てだ。あなたの世界以外の世界を知るには、あなたは世界を越えなくてはいけないだろう。
だが、生きて死んでいく存在は、世界を越える事はできないと思っている。
そこでオメエさんは生きて死んでいく自己じゃあねえ自己ってのをお説きになってるんだよな。“決して知られるものでも観られるものでもない”自己ってのをな。その訳の分からねえ野郎が世界の外から世界の中に客体を見出して自己同一化するんだったよな。まるでエイリアンだぜ。自分のグロテスクな姿にゃ気付かねえんだろうけどよ。
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>「や〜めた」という思考が、「所有意識を止めること」を所有化することだろう。(笑)
また、一応聞いておくが、所有者や所有意識を簡単に止めてしまったであろうあなたの世界には、所有というものが無いのか?所有する者というのはいないのか?暴力は止まったのか?争いや戦争は終結したのか?
オメエさんみてえなエイリアンがウジャウジャ居るうちゃあ戦争も暴力も所有も無くなるはずがねえや。「や〜めた」って言えねえ連中が自滅するまではな。悪いこたあ言わねえ、主体なんざ見切っちまいな。オメエさんの為だ。