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自己は主体だとしているだけで、一つだとしているわけではない。
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投稿者 ○H○ 日時 2006 年 7 月 21 日 20:56:55: dYD4U0ksEk0Do
 

(回答先: どうして、一つにこだわるのか。一つじゃなきゃいけねえのか。そこんとこ考えてみちゃあどうだい。 投稿者 天蓬元帥 日時 2006 年 7 月 20 日 20:44:37)

>『“主体を無くそうとしていることは、主体を対象化していることではないのか?その時、その無くそうとしているのは、主体ではないのか?主体でないなら、何なのか?”とさせてもらうぜ。
その上で、前回の投稿内容を繰り返すしかねえなあ。つまり、「その堂々巡りはどうにかしようじゃねえか。それが主体(自己)そのものであるとどうして言えるのかねえ。そんな気がするだけなんだろ。」
“自己(主体)でないなら、何なのか?”とお尋ねだが、主体じゃねえ自己なのさ。主体じゃねえ自己ってのは何なのかとなりゃ、そいつをじっくり考えようぜってのが、はなっからオイラの言ってることよ。』

○H○
主体(対象・客体として)を無くそう(作用)とする者は何か?と問えば、それは主体(作用者)でしか在りえないのではないか?「客体」と「作用」があって何故「主体」だけが無いのだろうか?
「作用」だけが在るというのなら解る。「主体」と「作用」だけが在るというのも解る。ただ「作用」と「客体」だけが在るというのは、理解ができない。どういう場合(シチュエーション)か教えてほしい。
「そいつをじっくり考えようぜ」というのは、あなたがそれがあると創造して仮定した段階ではないか?“そんな気がするだけなんだろ?”「トンデモねえ幻想世界」を彷徨っているのではないか?
「訳の分からねえ主体(自己)なんざ実在であるはずもなかろうよ。信仰でなきゃ幻想よ。」と言うぐらいだから、さぞや「主体でない自己」の論理的根拠やイメージが出来ていると踏んではいたが・・・。


>『何故だい?どうして主体である観察者だけが自己になっちまうのかい?オメエさんがあらかじめ、自己=主体ってえ公式を作っちまってるからだろ。』

○H○
もちろん観察者も、さらに観察されれば自己ではなくなる。自己は主体であるが、それは常に主体であるために、知られること(客体)も感じられること(客体)もない。
ただ、自己同一化をすることはでき、「自己(偽)はこれだ」と言うことが起こらないということではない。
また、「自己=主体」というのは、思考や記憶を通して相対的な世界を観る時、そうならざるを得ないと思っている。


>『それで、対象化されたものは全て自己じゃあねえって決めちまった訳か。そうすりゃ、自己嫌悪や自己犠牲から解放されんじゃねえかってことだよな。良心の呵責無しに、やりたい放題の自由を獲得できんじゃねえかってわけだ。』

○H○
いつ私が信仰的だからという理由で、対象化されたものは自己ではないと決めたと書いたか?
あなたが信仰云々を持ち出すから、信仰的なのは自己を対象化することの方だろうと、例を持ち出したに過ぎない。信仰的・非信仰的というのは元からは関係のないことだ。むしろ信仰を意識することの方が、実に信仰的だと思っている。
それに「良心の呵責無しに、やりたい放題の自由を獲得できんじゃねえかってわけだ」というのは、それが罪なこととして用いたのか?それは、信仰的な発言ではないのか?
もう一度書いておくが、私は信仰的なことを駄目だという意味においてはこれらを書いてはいない。


>『ここでも、前回の投稿内容を繰り返すしかねえなあ。「思考の有様をそのまま素直に観察すりゃ、自己を対象とする時、自己は二つに分かれてんのさ。」しかし、オメエさんは二つじゃ納得できねえどっちか一つにしろって仰るわけだ。そして、対象化されんのは金輪際お断りだってね。』

○H○
どっちか一つににしろとは書いてはいないし、対象化されるのは金輪際お断りとも書いてはいない。それはあなたの問題だ。
自己は主体だという議論を、論理を通して書いているだけであり、あなたに自己をどっちかにしろと強制したり押し付けたりはしないし、私に対しても自己を対象化したければすればいい。
それに対して、私が答えるとしたら、「それは自己ではない。それは私ではない。」とただ繰り返すだけだ。


>『どうして、一つにこだわるのか。一つじゃなきゃいけねえのか。そこんとこ考えてみちゃあどうだい。』

○H○
自己は主体だとしているだけで、一つだとしているわけではない。主体としての自己は「一つ」として見出すことはできないと思っている。「一つ」として見出したのなら、それは自己同一化された自己に過ぎないのだろう。
また、複数在るというのは自己の意味からしておかしい。
但し、言い方はおかしいが、「全ては自己だ」というのは、理解できる。
ただ世界の全てが自己だと言うのは、それは全体という意味において一つだと思っており、そしてそれはもはや自己とは言えないと思っている。(もちろんその場合でも一つとは言えないが・・・ましてや複数ではない)


>『そう思ってんなら話は早えや。直ぐにでも、主体なんてもんは見切っちまいなよ。』
>『心配すんなって、綺麗サッパリ無くなっちまうよ。所有者だの所有意識なんてのは、頭ん中のでっち上げよ。や〜めたって言やあ、それまでよ。』
>『だから一先ず離れちまって、ホントに何も起こらねえかどうか、確かめてみちゃどうだい。その後で改めて、生きた存在について考えてみちゃどうだい。』

○H○
「や〜めた」という思考が、「所有意識を止めること」を所有化することだろう。(笑)
また、一応聞いておくが、所有者や所有意識を簡単に止めてしまったであろうあなたの世界には、所有というものが無いのか?所有する者というのはいないのか?暴力は止まったのか?争いや戦争は終結したのか?


>『そのとおりよ。頭のイイ方ぁ違うねえ。一言で全部お見通しだあ。付け加えるとすりゃ、主体-客体の区切りはナシってことぐれえかな。』

○H○
主体-客体の区切りが無ければ、自己は消え去る。


>『自己以外もチャンと存在するぜ。オイラの世界全てがオイラの自己だとしても、オイラの世界とは別の世界が幾らでも存在してらあな。その別の世界は、オイラの世界に思いがけねえ影響や刺激を与え続けてるよ。自己の世界の外に、様々な思いがけねえ世界が存在し、自己の世界を撹乱し動揺させ変化させてんだよ。』

○H○
どうしてあなた以外に世界が在ると思うのか?あなたは他の世界の存在におけるどんな証拠を持っているというのか?あなたはあなたの世界が全てではないか?あなた以外の世界があると想像することも、証拠があるとするのも、影響や刺激があるとするのもあなたの世界に起きていることであり、全てはあなたの世界そのものではないのか?
生きて死んでいく存在と認識しているあなたは、時間と空間、記憶と想像に縛られた個でしか在りえないのではないか?それは世界の中に存在することしかできないと思っており、あなたの世界が全てだ。あなたの世界以外の世界を知るには、あなたは世界を越えなくてはいけないだろう。
だが、生きて死んでいく存在は、世界を越える事はできないと思っている。


>『一言で言やあ、全くの空虚だわな。無内容って言ってもイイ、その自己って奴よ。空虚だから対象に自己同一化すんだろうよ。そして、無内容だから、完全に同化できるし、そうなってしまった状況においては分けられねえってことだろうぜ。』

○H○
だからあなたが、対象に自己同一化していることも気づかずに完全に同化してしまったとしても理解できると思っている。


>『そうしなきゃ世界との関わりが生まれねえってなあ哀れだよなあ。そんな事になっちまったなあ、あらかじめ世界と自己とを切り離しちまって、空虚で無内容な自己を自己としちまったからじゃねえのかなあ。
離れ離れと感じている個ってなあ、もしかしてそういうこっちゃねえかい。生きてるのが辛えってぐれえの孤独かな。生きるためにゃあ、力を振り絞って主体に自己を見出し、コレが自分なんだって意識をシッカリ持ってなきゃあ遣ってられねえってことかなあ。』

○H○
そう、「生きている存在」「離れ離れと感じている個」は、空虚で無内容な自己を自己としてしまうのかもしれない。
そして主体に自己を見出すこと(=主体を対象化して自己同一化すること)で、「コレが自分なんだって意識をシッカリ持ってなきゃあ遣ってられねえってこと」だろうな。


>『話ぁ飛び過ぎだが、ユダヤの神様ってなあ、オメエさんみてえなお人が考え出したのかも知れねえなあ。創造主と被造物との間にゃ天地の開きがあるもんなあ。
しかし、生み出された唯一神も、時間とともに姿を変え、やがては終りの時を迎える。最初の投稿でオメエさんの書いてた執着心云々ってのを思い出すぜ。オイラにゃ涅槃寂静の話に聞こえたんだが、神様にも成仏して頂く時が来たのかも知れねえなあ。』

○H○
そう、あなたの言う「生み出された唯一神」は、世界の中に生み出された対象物であり、個でしかない。それは世界の創造主とは言えないだろう。
私の思考が敢えて神というものを語るとしたら、「神はいない」だろう。存在としての神など神とは言わないといったところか。一神教を否定するという意味においての多神教は、一神教と方向性は同じだと思っている。もし全てが神ならば、一神教の神も神だし、一神教を崇拝する者も神だ。そして全てが神だとするのなら、それはもはや神とは呼ばないだろう。

また、「オメエさん」と書いているみたいだが、正確には「オメエさんの思考と認識」といった方がこの場合は正確だろう。世界の中に属している思考と認識を通してこれらを書いているだけだ。


>『オメエさんの思考は、そうやって常に自己そのものを救い出そうとしてるんだろうなあ。自己そのものに意識を向けても、そこに意識されるのは自己同一化された自己であり、自我でしかねえ、自己そのものを指しているのではないってえ論法だ。』

○H○
自己そのものを救いだそうとしているのではなく、「自己」というものが常に主体であると論理的に認識しているだけだ。


>『そんな風に論理構成しただけだよな。別な風に論理構成することも出来ようってもんよ。』

○H○
もちろん論理構成することはできる。ただ「自己」というのは意味的には「おのれ」であり「わたし」ではないのか?あなたはわたしとは言わない。彼はわたしとは言わない。彼女はわたしとは言わない。親はわたしとは言わない。恋人はわたしとは言わない。息子はわたしとは言わない。相対的な次元に於いては、わたしは他者と分けられ、そして個は生まれ、言葉や形が生まれる。論理や言葉は相対的にしか言い表せない。


>『“決して知られるものでも観られるものでもない”そんな自己が存在するハズだ、そんな気がして仕方がねえ、そう仰るんだよな。』

○H○
存在しているとは思うが、それが自己の本質とは思ってはいない。「存在している」というのが、「存在していない」を前提にしているからだ。


>『思考が思考を超えるこたあ出来ねえって言ったなあオメエさんの方だぜ。だから、それで構わねえじゃねえかって応じたのよ。生きて死んでいく存在とは別の自己って奴があんのなら、そりゃ不老不死みてえなもんかねえって言ったのよ。』

○H○
「あなたが思考を超えようとしない」とは、「思考が思考を超えようとしない」ということではない。
思考は思考を超えられないが、思考は思考で破壊されることはあるだろうとは書いた。それは思考が思考を超えることではない。あなたが思考に同化するのなら、それは超えられないが、思考が破壊され、“あなた”から落ちた時、思考ではない“あなた”が思考を超えることができるかもしれないということだ。


>『どう感じようと自由だが、不条理ってなあ条理を極めたところに見えてくるもんじゃねえかと思うんだがなあ。生きること死ぬことの条理を見極めるのが先じゃあねえかなあ。』

○H○
どれだけの生命である個が、「自分は生きたい」と感じているかの度合いを知る必要があるだろう。あなたが暴力を放棄するという意味において所有意識を無くそうとしているのも、「生きたい」からではないか?
「生きたい」のに、死は訪れる。それは「生きている存在」にとっては、実に不条理だと思っている。

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