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(回答先: 宗教を学ばないことは、己の人生を否定するようなもの 投稿者 ぼけ仙人 日時 2006 年 6 月 29 日 18:39:38)
「宗教に入信」よりは「信仰を持つ」ことを(その二つは全く別もの)、
「信じ切る」よりは「終生、思索を続ける」ことを選びますね。
宗教の教義は人間が体系化したもの。
不完全なもの。
一人一人違う人間がそういったものに無理矢理自分をハメ込むという営為は自然の理に反していないだろうか。
第一、「宗教への帰依」ということが本当に人の道であるならば、自然の摂理はなぜヒトにああいった、使い切ることが至難の技であるような、大変なポテンシャリティを秘めた脳味噌を与えたのか。
信じ切ったり教義に制限された思考だけをしたりして一生を過ごすならば、その大部分の存在は無意味。
自然には無駄や無意味というものは ない はず。
心底から宗教の必要を感じている人は、他人が作ったものについての講釈を聞いて回るのに時間を費やすより、独り瞑想と思索のうちに、自分のためのそれを一生掛けて作るほうがマシじゃないのか。
他宗教についての知識は必要だろうけど、そういった知識は「信じ切」らなくとも摂取できる。
自分の「宗教」に他人を入信させる必要もどこにもない。
「しつけ」もまた、人の創作物である宗教にでなく、自然と宇宙を含む他者の領域の尊重に結びついたものでは。
日本の古代(弥生や奈良の世より遥か昔、数千年前のこと)には「宗教」はなかったものの、倫理教育はその後のいつの世よりも高度であったようにも言われる(オシテ文献に拠る)。
現在日本に生き残っている宗教には、
蘇我馬子が仏教の一流派「弥勒教」の衣を着せて持ち込んだ「景教」、
という皮をまた纏った「ミトラ教」
(中東から西欧全域に広まりユダヤ教にすら潜行・習合後、フランキズムの種にもなった?)、
の中に更に潜んだイルミナーティ好みのサタニズムに感染していないものは殆どない・・・
かも知れない。