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(回答先: 人の生き方には三種類ある 投稿者 heart 日時 2006 年 6 月 20 日 14:32:28)
heartさん、レスを戴きましてありがとうございます。
言葉が過ぎたとの自覚から、投稿を後悔しておりましたが、、
同意を戴けたとのお返事、、
大変ありがたく受け取りました。
善というものについて思いついたことがありますので、
ここに書かせていただきます。
世の中には慈善事業というものがありますが、
これは、一部の資本家、又は富めるものによる事業なのだと思っております。
貧しきもの、そして庶民には事業を担える様なお金はありませんから、、
これらの慈善事業と言われるものは、大概ニュースになり、
人々の知ることとなります。
慈善事業家が、本当に人々の役に立つつもりなら、
自分の一生を投げ打って、献身していただきたいと思いますが、、
中々そのような方はいらっしゃいません。
私は裏に下心があるのではないのか?
との下衆の勘ぐりを止めることは出来ません。
慈善と言えば、人々はこの言葉にとても弱いのです。
素直な人間は、普通に正義感があり、自分を恥じることを知り、
人の為に尽くすと云う、ある意味罪滅ぼしの様な行為を求めます。
どのような人物にも、やさしさは兼備えられているのだと思います。
その心を利用し、人々を妄信させ、一定の方向へ導こうとするのが、
一部の宗教、あるいは思想、政略なのだと思います。
善というものは磁石のように人を引きつけるのです。
そして、利用されます。
その為には、対する悪というものも必要となり、
それもまた偽造され、利用されるのだと思います。
偽善という言葉があります。
偽物の善です。
人々はこの言葉を怖れます。
自分の善を非難されると思うからです。
そして、善をなすことに躊躇いが生まれるのです。
もしかしたら躊躇いの有る無しが、
善の真贋を見きわめる要素かも知れません。
躊躇いのない善は、とても危険に思います。
けっして振り返ることのない善は、、、
ところで、地震等での義援金は、
時代毎の徴収にどれだけの差があるのか気になりますね。
人々はもはや、自分の義援金で世の中が救われるということを
信じてはいないのではないでしょうか。
また、その使途が正しく行われているのか、、、
そして、遠い国の人々を救うことより、
自分の見近かな人を守ることの方が大事なのだと知っているのかもしれません。
また、今年も愛は地球を救うのでしょうか?
救われないのは、愛が足りないのでしょうか?
自分の善はどこにあるのか?
各自が考えるときなのだと思っております。
失礼いたしました。