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(回答先: 私はharuさんとは違う意味で「排除の理論」に対し疑問を抱いています。 投稿者 heart 日時 2006 年 6 月 18 日 17:58:33)
私たちは、学びの途中にあるのだという謙虚さを
決して忘れてはならないのだと思います。
子供に教えるなどとは、とてもおこがましく、
逆に教わることすらあります。
正邪、善悪、私も親に少しは習いましたが、
最終的な判断は、私がしました。
親が子に伝えることは、価値観や親のなし得なかった思いではなく、
どう生きているのか、そして、
人生とどう戦ったきたのかを見せることではないでしょうか?
その親の背中を見て、子供はまず真似をし、壁にぶつかり
いつか、親を乗り越えてゆくという様な、、、
親は子に正邪の区別を教えますが、その言うことを聞くかどうかは、
その子供の出会いにかかっていると思います。
もしかしたら、親は、子に対して決して教えるのではなく、
考えるきっかけを与えるだけのとても大事な出会いの一つなのかもしれません。
私がheartさんにレスした理由は、
私は、どうしても世の中で善とされるものに対して、抵抗を持っているからです。
善を行う人々に躊躇いはありません、自分の行いが善であると云う強い信念があるので、自分の行いを否定されることを信じることが出来ないのでしょう。
また、悪を断罪する人も同じです。
イラク戦争はどうでしょうか?
小泉首相やブッシュ大統領を支持した人々は、
一様に、悪の権化であるフセイン大統領から人々を救い、
民主化と云う美名のもとに行われている戦争なのだと信じているのではないでしょうか?
過疎地に水を引くことは、文明人にとっては善であっても、
水質汚濁、環境破壊の原因になり、その未開の地の人を苦しめる結果となります。
しかし、文明人は悪をしたとの自覚は持ちえません。
仰るキリスト教も古くから、善行の名の下に多くの民を抹殺して今があります。
私は、善というものに邁進する人々、悪を断罪する人々に
どうしても、抵抗を感じるのです。
来る未来の子供には、それらの人間の欺瞞的行為を乗り越え、
新たな価値観を生み出して欲しいと願っております。
乱筆乱文になりましたが、これで失礼いたします。