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(回答先: 生きることの意味 投稿者 まとはずれのおせっかい 日時 2006 年 6 月 17 日 04:13:57)
何もとらわれない、自由に、あるがままに生きるって、人の理想の姿のひとつだとおもいます。
私は、それを求めるがゆえに、無駄なことを考えたり、一度、生きる意味の周りを徘徊したということです。
信念という言葉について言えば、
はじめに「信念ありき」ではないはずです。
以前にも書きましたけど、信念は、これは「私の信念」です、だから法案を絶対通す、参拝するというものではありません。
思索、日々の生活からにじみ出てくる、態度、言動から、帰納的に収斂され、それが、その人の、「信念としかいえないような姿」を見せたとき、
それを私は「信念」と呼びたい。
「経験」の裏づけのない「信念」は軽い。
地球、40億年(?)の歴史、大宇宙に比較すれば、人の一生は、瞬きほどのものでもないし、どう、生きようが死のうが、顕微鏡の中で動く、微生物のそれほどでもないでしょうね。
人の一日を見れば、朝起きて、トイレに行ったり、ひげをそったり、仕事に行ったり、お使いに行ったり、ほぼ、ルーテインワークで成り立っています。
それは、人の生が「大河にながれる一滴」のようであり、「ベルトコンベアーで運ばれる、砂利石」のようにも見えます。
しかし、一面、自分の生命なり、一生は、ひとつだけ、一回でけであり、そして、自分が生きるために、多くの生命がぎせいになってます、大切に扱うべきものです。
この生の「二面性」を理解しないと、みずからの「生命観」なり「生死観」なりが片手落ちになる思います。
自分を測る物差しは、自分で創る以外にありません。
元の文、「生きることの意味」2つのテーマをひとつにしたので焦点ボケして、わかりにくい文章になってしまいました、失礼しました。
「経験」「信念」という言葉の使用について、仏文学者であった、森有正氏から、影響を受けてることを、告白します。