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誰も自分の意思で、この世に生まれたものはいない、母胎のなかで、
生まれてくることを、問われたこともないし、時代、親、性別、国籍、選べるものはなにひとつとしてない、しかし、たとえ、それが可能でも、幸せになるとは限らない。
有無を言わせず、引きずり出され、場違いなものを感じながら生きてきて、ようやく、身の回りを眺めることができると思ったら、ゲームオバーを宣告される、この不条理を誰にぶちまけたらいいのだろう。
どのように生きるかということは、どのように死ぬかということの逆命題に過ぎない。つまり、自分がいつか死ぬということが、終末点ではなく、人の出発点になるのだと思う。
「生きることの意味」、その周りを長く徘徊していたことがある。
在日韓国人作家、高 史明の作品に、「生きることの意味」という、少年少女向けの自伝小説がある。
貧乏長屋で、生きることに疲れた、主人公の親父が、家族の前で(?)首をつろうとする、みなが泣いて止めようとするがやめない。
そしていざ首をつろうとするや、縄が切れて、親父は、床に転げ落ちて助かる。
その転げ落ちた場で、親父も、その主人公も、ほかの兄弟も、みなが泣いて抱き合う、、抱き合いながら、親父が生きていることの喜びをかみしめあう。
この部分だけは覚えている。
僕が、そこに、「生きることの意味」、を見るのは、仏教の言葉で言う、
「色即是空」(人生は虚しい、つまらない)から、「空即是色」(生きる意思を表示したり、自分で意味を創ってたちあがる)への転換をみるからだとおもう。
算数の放物線の、最小値から、上昇へ向かう曲線、
株の言葉で恐縮だが 「底から」、リカバーにむかう、人の「意思の曲線の中に」
生きることの意味を解明するヒントがあると思う。
ある女医さんとの対話の中で彼女の言葉、「人生の意味?、それは、人間が、人間であり続けることですよ、、、」といわれたことがある。
何かを、やり遂げたり、人のため、自分のためになる仕事したり、芸術家のように全身全霊を打ち込む仕事が、「生きる意味」を満たす唯一の手段だと思っていた、自分には、耳たぶが赤くなる思いがした。
他者の思想に酔っ払うロボットでもない、電子デバイスの扱いの上手な、オペレーターでもない、「人間が人間であり続けること」。。
この言葉の中にも、「生きることの意味」をさがすヒントが隠されているのではないかとおもう。
生きることの意味イコール何々というのはない
それは自分で創る以外にない。
人の過去は変えられない。
しかし、その過去を、見方を変えてみることはできる。
じぶんで失敗したと思っている経験も、見方を変えれば、何らかのプラスになっていることがある、それはあたかも、人の性格の長所が短所の裏返しであるかのようなものだと思う。
決断力があるという性格は薄情だったりする、優柔不断という欠点は、熟慮家であったりする。
だから、アナウンサーのインタビューで、あなたの性格の長所と、欠点を挙げてくださいというのは愚問なのだ。
宮本武蔵は、「われ、ことにおいて後悔せず、、」一度、自分が、決めてやったことは、後悔しない、振り返らない、ハラを持っていた、
時に、そんな「決断」(薄情?)も必要なのかもしれない。
しかし、あまり自分の過去なりを、無消化のままにしておくと、それが自分の心のなたで肥大化して、自分を圧倒してしまうときがある、これには注意が必要。
人の一生は、三次元の空間を遊ぶ「地球ゴマ」のようなものだと思うときがある。
(実際、地球ゴマは、地上に浮かない、あくまで、想像の話)
地球ゴマは、絶えず自転している(人の生命活動)そして、羽振りや、調子のいいときは、上昇し、時に下降することもある。そして、左に右に、動き回る。
そして力がなくなると、動きがやたら、神経質になり、やがて、地面に落ち、クルくるっと二三度、地面の上を、徘徊したかと思うと、首をうなだれて動きを止める。
そのこまの「見えない軌道」をたどると人の歩む一生に、似ているのではないかとおもった。
自分の意思で生まれたやつはいない、だから自分の意思で死んではだめなのだ。 (シェークスピアの言葉です)