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(回答先: 貧富の差の拡大とは、すなわち文明の退行ではないか。文明化とは、大衆化の過程と同義であったはずだ。(労働への評価) 投稿者 乃依 日時 2006 年 5 月 15 日 01:49:48)
>貧富の差の拡大とは、すなわち文明の退行ではないか。
さあ、どうかなあ〜。
>大衆化とはいいかえれば、経済の普遍化と文明の普遍化の過程ではなかったのか。
違うんじゃねえかなあ〜。大衆化ってのは、国民国家化と同義じゃねえかな。19世紀ヨーロッパのよ〜。民主化って言っても良いがな。まあ、それをもたらしたのは資本主義なわけだから、資本主義化って意味で経済の普遍化と言うのも分からねえことはねえ。でもやっぱ、チョイト違うよな。普遍化じゃねえよ。そこに国境ってもんがあるからな。国境の内側は大衆化し、民主化し、同質化したかも知れねえが、外側はそうじゃねえハズだ。
>貧富の差の拡大とは、要するに、経済・文明の寡占化である。
>経済・文明の普遍化が近代化の目的であるのだから、
>貧富の差の拡大とは、すなわち文明の退行である。
普遍化が目的のはずなのに寡占化してる。寡占化は普遍化ではないから普遍化に対する退行であるって論理かな。
一つの疑問は、寡占化と普遍化とは本当に違うのか、だな。例えば、巨大寡占企業ってのは市場の拡大と激烈な競争の果てに生まれるよな。つまり、普遍化が寡占化を導くわけだ。もちろん、その事を退行と呼んでもいけないことはないだろうけどな。しかしその場合は、普遍化はやがて寡占化へと退行する、と言うべきだ。普遍化の末路は寡占化だと言わなきゃいけねえ。
>経済・文明の寡占化は、経済・文明 自体の首を絞めている。
>経済・文明とは、担うものの多数化、つまりは、大衆化によって支えられてきていたはずである。
何にでも初めと終わりがある。そのもの自体の内的論理によって終末へと向かうってことよ。
>支配構造が、貧富の差を拡大を許しているということからして、
>彼らは、ひょっとしたらあきらめてしまったのかと思わせてしまう節がある。
かもな。
>資本主義は、たしかに労働者に意欲を与えている側面はあった。しかし、資本主義が結局のところ、労働者階級に利益をもたらさないと、大衆が解釈したならば、資本主義がもたらした一時的な平穏は無と帰するのかもしれない。
多分な。
>しかしながら、資本を平等に分配されるようにしようと、いった提言事態を労働者は嫌う。また、自分たちが労働者階級の一員であることも認めたがらない。
ここんトコは、イマイチ意味が分かんねえなあ〜。
>労働をありがたいものだと思うということ、これが案外きめ手かもしれない。
他人の労働は有り難いけどよ、自分のはなるべく少なめに願いてえなあ。
労働を有り難がって、労働者階級の一員であることを認め、資本の平等な分配を嫌わない。するとどうなるのかなあ〜。教えてくれよ。