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(回答先: 蝋梅さん ご意見に感謝いたします。 投稿者 考察者K 日時 2006 年 5 月 13 日 19:28:23)
考察者Kさんへ
妙な場所にレスポンスを入れてしまったにも関わらず、お叱りも無くお返事を頂戴して、恐縮しています。この掲示板に参加されている皆様は、書き込みの内容の充実はもとより、板の使い方に対しても、とても真摯な気持ちをもっておられるようなので、本当に申し訳ないことをしてしまったと反省しています。それに、前回は、様子見のような発言で・・・本当に、失礼しました。では、本題に・・・
まず「判断を放棄した者」や「決断をしようとしない者」の罪は、大変深いと、わたしも思っています。そして、それに「いつも、自分を被害者や弱者の立場に置いて、ただ声高に批判だけを叫ぶ者」も、付け加えたいと思います。それは、考察者KさんがAで指摘されている、様々な問題を「自分以外の者の犠牲で処理して欲しい」と思っている国民や、Cで指摘されているマスコミにも通じる姿勢だと思っています。
そういう意味では、考察者Kさんのご発言の姿勢には、とても感心させられます。常に、主体者として諸問題に向かい合っておられるからです。そういう姿勢が、我々国民一人一人にあったとしたら、代議士は判断を放棄したり決断を避けたりは出来なくなるでしょう。
わたしは、先に「システム」ということに僅かでありますが言及しました。が、本来、一番力を入れたいのは、今申し上げたような、国民一人一人の意識の問題です。そう、考察者Kさんがおっしゃる意識改革です。ただ、わたしの場合は、論理的で緻密な思考回路がないものですから、もっと単純に「各人が自らを主体者と感じ、責任をもって考え行動しなければならない」という程度のことになりますが。
わたしが、「すべては選択なのだ」と言うのは、前にも述べましたように、何事に大しても「絶対に正しい」という確信が持てないからですが・・・「正しさ」によって立つことに危険を感じるからでもあります。「正しさ」を盲信する人は、当然のようにそれを人に押し付けますし、結果に関しても自ら責任を取りません。神からの啓示のごとく「正しさ」に仕えただけなのだから、自分に罪はないということです。ですが、それを「自らの選択」と認識していれば、結果に対する責任は、その選択をした自らが負わねばなりません。怖ろしいことだけれど、それが自由の源だし、権利の条件だと思います。
もちろん、その選択のためには、各自が「今の自分が考える限り、最も正しく思えること」というのを見つけ出さなければならないとは思います。そういう意味での「正しさ」は存在すると思っています。
そうして、各自が、自分の選択を提示したとして・・・それが、少数派であった時、他の多くの人が選択した多数はの選択を、一時的に認容しなければならない・・・とは、確かに思っています。けれど、あくまでも一時的です。だから、現状認容の要素はありますが、諦めではないつもりです。当然、巻き返しの策を練っていくわけです。たとえば、この掲示板に書き込みをするというのも、その巻き返し策の一つになると、わたしは考えます。どんなに小さく感じられるものだったとしても、それぞれの人が、それぞれの場所で、その人なりの努力を諦めないことが肝心だと思っています。
少し、話は後先になりますが、各自が自らの選択をするとき、大切なのは自らの感性、そして情報です。その情報の多くを、我々はテレビなどマスコミの報道から得ています。そういう意味で、マスコミの力は絶大です。なのに・・・と、思う気持ちは、考察者KさんがCで指摘されているとおりです。松井選手の骨折や、五遺体どうのこうので、あんなに盛り上がっている理由が、まったく分からないです。
取り留めなく長く話してしまいました。努力はしているつもりなのですが、散漫にしか話せなくて、申し訳ありません。