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(回答先: 極限状態が祈りを生む 投稿者 ワヤクチャ 日時 2006 年 3 月 19 日 20:09:23)
私は一応無神論者に近い立場のつもりですし、特に宗教の「真理」を知っているわけでもないので、私が宗教に頼る時は恐らくワヤクチャさんのおっしゃるように「弱々しい精神」状態にあるのだと思います。気をつけたいと思います。
ただ、私が上で紹介した白バラのゾフィーは、そんじょそこらの人とは比べものにならないくらい強い人だと思います。なにせ、命懸けでナチスに対する抵抗運動をし、考えを曲げれば減刑する、と言われたにも関わらず頑として撥ね付けて自分の考えを通し、死刑を受け入れた人ですから。しかも21歳の若さで。
ゾフィーの場合は、自然に対する畏敬の念がまず最初にあって、その自然を作った創造主たる神を信じ(いかにもキリスト教徒的発想ですが)、キリスト教を一つのバックボーンとして反ナチ行動をしていたようです。
それも一つのあり方ではないかと思います。
昔の思想家の考えを元に思考を展開する人がいるのと似たようなことではないでしょうか。
もっとも、極限状態に陥っている時に、例えば、「ニーチェ様・・・」とかって祈る人はいないでしょうが。
だからちょっと違うかな。
いずれにしろ、人間には弱い面もある、それは受け入れざるを得ないのではないかと思います。
どうしようもない時には、信仰心のない私でも祈ります。
どんな時も強い人なんて、いないんじゃないでしょうか。
表ではいくら強がっていても、一人になったら弱い自分がいる、そんなもんじゃないでしょうか。
ただ、その弱い側面を宗教につけ入れられることがないようにさえすればいいのではないでしょうか。
宗教自体、人間が作ったものですから、完全な宗教などないでしょう。
それはあらゆる思想についても言えることでしょう。
しかし、何か実体のないものにでもすがらずにはいられない、そんな瞬間は誰にでも一度や二度は訪れるのではないかと思いますし、それさえも許されないのはちょっと厳しすぎる気がします。
私も、いつもいつも神様に頼っているのはどうかと思いますけどね。
要は、宗教に自分が乗っ取られてしまうようなことがないように気をつけてさえいればいいのであって、常にしっかりと自分を持っていさえすれば、そう大きな問題ではないのではないかと思います。
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【ワヤクチャさん】
確かに極限状態が祈りを生むという事は事実でしょう。
死刑囚が宗教に救いを求めるという心理は理解できそうです。
しかし、救いはあるのか?という事が問題です。
冷酷なようですが「救いなど無い」というのが私の結論です。
「気休め」があるだけです。
こんな事を言う私は冷血漢でしょうか?
いや、「気休め」に過ぎないものにすがるという人間の弱さが様々な問題を生み出しているように思われるのです。
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【heart】
「救いなど無い」、「気休めがあるだけ」ではないか、というのは、たぶんそうでしょうね。
すがりすぎるのは毒ですね。
しかし人間の弱さはどうしようもないと思います。
人間はそもそも弱い生き物だと思います。
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【ワヤクチャさん】
池田大作の言う通りにしておきさえすれば自分は救われると思うような弱っちい精神こそが害悪を周囲にもたらすのです。
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【heart】
〜に従っておきさえすれば自分は救われる、こういう考え方は私もダメだと思います。
こういう「弱っちい」精神は私も擁護しようとは思いません。
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【ワヤクチャさん】
遠藤周作の「沈黙」というキリシタンの殉教者を描いた小説はその辺りの事を書いていると思います。
「救いは無いのだ。」と。
「人間は何にすがる事もなく自分で生きよ。」と言っていると思います。
それでこそ責任ある生き方であると。
自己責任という言葉は皮肉にも宗教批判の場合には成り立ちますね。
政治家が言うと政治家の役割放棄になりますが。
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【heart】
「沈黙」、内容を忘れてしまったのでまた読んでみます。
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【ワヤクチャさん】
又、極限状態にならなくても人は神頼みになります。
これは虫がいいのです。
自分が努力しなくても神に助けてもらおうという依存的な精神です。
こんな弱々しい精神の持ち主が社会に対していい影響を与える事はできないでしょう。
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【heart】
依存はだめですね。肝に銘じておきます。