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(回答先: (無駄なことを)考えずに生きるのがラクなのは自明だと思う。 投稿者 まとはずれのおせっかい 日時 2006 年 3 月 12 日 19:49:03)
人が、無駄なことを、考えるか、考えないか,「その資質がその人の内部に形成されているか」どうかだとおもうんです。
ガッコの勉強ができる、できない、社会的な地位高低と関係ないようです。
それは(資質の有無)、その人の感受性、想像力の有無、「人」との出会い、家庭環境等によると思います。
仏教語でいう、発心(?)の起こる人と、起こらない人の差と似ているかもしれません、前にも書きましたけど、無駄なこと考えなくても、人は、社会人としてじゅうぶんに通用します、尊敬もされます、それだけで自分の人生は充実して、満足を感じる人が多数派でしょう。
別の言葉で書くと、無駄なことを考える人は、自分自身を、「自分の中にある、一段高い精神の自由の領域」にリンクさせる「無意識の努力」ではないかとおもうのです。
haruさんは、好奇心という言葉を使われましたけど。。
自分は、「無駄なことを考える」ことに、自分は、「人」が「人間」であること、「ロボットではない、人でありたい」いう気持ちを「観る」んです。
言葉のあやかもしれませんけど、
私には、夢中という言葉が、思考回路を閉ざした、周りが見えない、自分を、意識的に酔った状態に追い込む、「良い評判を求めるとか」「もっと利益を」とか、「不純なものを」想像してしまいます、だから、haruさん、ご自身かかれていたような、「夢中が」、「他人に反感を買われる、傷つける、という、危惧」は確かな想像だと思います。
似たような行為を表す言葉でも、私は、「無心」という言葉が好きです 無心という言葉は、他者との対話を拒絶してない、邪心を感じさせない、開かれた、おおらかさを感じます。
一度道路上の工事現場で、レスラーのような男が、片目をつぶりながら、20メートルほど離れた相棒に、もっと右、もっと右と、手のひらで、、クレーンで資材を置く位置を相棒に合図を送ってました、脇に自動車が、すれすれにひっきりなしに通過し、とても危険な状態でしたけど、私は、その集中した、仕事をする姿に、給料がどうのこうの、3Kだの4Kだの、「世間の物差を」吹き飛ばすような、「神々しい人の働く姿」を見ました、そしてこの「無心の姿」に、人のあるべき姿、人と、人々の幸せにするものの「姿」を見た気がしました。
脱線しますけど、「信念」と言う言葉が、つい先ごろまで、為政者とその取り巻きのマスコミによって流布されていました、しかし、その「信念」たるや、信念に内在してしかるべき、葛藤、熟慮から、乖離した、自分が考えるのがめんどくさい(能力がない)、閉じられた回路の幼稚な思考を隠すために誤用されていると思わざるを得ませんでした、そこには、「無心」はなく、「傲慢な夢中」があるだけだと思いました。
そして、それは、他者に向かって、叫ぶものではなく、自らに、静かそして熱く、に語りかけるものだと思います。
私も晴耕雨読のような生活にあこがれますけど、それが実現可能であるかは別にして、自分のしたいことを知っていると、やたら車を乗り換えたり、女性の場合ですと、ブランド物のかばんなぞを、買いあさって、満足させるというようなことはなくなるようです。
ながくなってしまうので、インターネットでの知識の獲得、経験、自分で考えるという(うそ?)について、次の機会にしたいと思います、考える、書くきっかけを与えてくださったことに感謝します。