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(回答先: 知ることが悪であるのなら、みな無知なまま生きれば良い。 投稿者 haru 日時 2006 年 3 月 11 日 21:02:09)
無駄なことを考えずに生きるのがラクなのは自明だと思う。
極端な話だけど、セールスマンは、売り上げをたてることだけ、警察官は、町の治安を守ることだけ、がっこのセンセは、生徒受けするような、駄洒落を考えたりしていれば良い。
ある専門分野で、名を成した人が、自分の専門以外のことを語るとき、幼稚、単純な意見を、ほほを、高潮させながらまくし立てる場面に、人は誰も、一度や二度、遭遇したに違いない。
または自分を、ある宗派なり、政党なりに、預けてしまって、自分を、プロパガンダ,宗派の説で満タンにしてもらい、論争を吹っかける「議論好きな人たち」を知っている。
耳をくすぐる心地の良い、極論は、「酔いがさめると」、化粧を落とした娼婦の味気のない姿を表す、そして人は、自分の愚かしさを悟る。
自分は人が宗教に自分を託すことを否定しない、理知(って言葉にする) を求めて一生さまようことも否定しない。
多くの賢人たちが、理知を求めて求めえず、精神の荒野をさ迷い歩き、宗教的境地に自分の安らぎを求めたのは知られている。
しかし彼らは、みずからを「悟り」の中に安住させ、「宗教的真理」を他に押し付けたり、「世俗の真理を求めて葛藤するもの」を、罵倒したり、揶揄したりしたことはなかったと思う、自ら長年にわたる、葛藤の経験、が彼らに対する「寛容をうむ」のだろう。
自分は、宗教者の、「世俗的な智者」と対抗する「邪心?」を感じさせない、氷点下の、からっとした、冬の蒼空を思い出させるような、示唆に富む言葉が好きである。
自らの愚脳を自覚しながら世俗的な(?)理知を求め、同時に仏教的な「安心立命」の世界にあこがれ、季節の変わり目に多少詩心を感じ、地上100メートルの危なっかしい、人生の綱渡りを今日もそれなりにサーバイブした喜びをエンジョイする、そう思うようにしている。