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(回答先: 死刑を扇動するマスコミって何? 投稿者 happyblue 日時 2006 年 7 月 04 日 22:26:14)
死刑判決を求めた朝日新聞の社説
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2164354/detail
【PJニュース 07月05日】−去年11月、広島市で下校中の小学1年生の女子児童が性的暴行を受け、殺害された事件で、広島地方裁判所は4日、殺人など4つの罪に問われたペルー人の男(34)に対し、無期懲役の判決を言い渡した。この事件は、子供を狙った事件が全国的に相次ぐ中で発生したもので、検察側が死刑を求刑、被害者の遺族も極刑を望んだことから、広島地裁の量刑判断が注目されていた。
今回の「無期懲役」の判決は、1983年の永山事件の最高裁判決で示された死刑の適用基準を踏襲したもので、結局、子供を狙った犯罪の厳罰化を求める声や遺族の処罰感情といった「情」よりも、ほかの事件の量刑判断との整合性という「理」を重視した“理性的な判決”と言える。
この判決に対し、極刑を望んでいた遺族側からは無念の声が聞かれた。幼い命が遭遇した不条理な死に対する肉親の応報感情は、そもそも第三者によって否定されるべき性質のものではない。もし、自分が当事者であったらと想像すれば、その痛切な気持ちを理解することもできる。ただし、今回の判決は、刑事裁判が被害者サイドの「私刑」の場ではないこと、量刑は法廷に提出された証拠と客観的な基準によって判断されるべきものであることをあらためて示したものと評価でき、現行法制度の下では、妥当な量刑判断と言わなければならないだろう。
ところが、5日付けの朝日新聞は「女児殺害判決 無期でよかったのか」と題する驚くべき記事を「社説」として掲載した。この記事では、検察側が被告の母国ペルーでの犯罪歴に関する証拠を提出できなかったことを指摘し、この点を「きちんと審理していれば、結論が変わったかもしれない」としたうえで、「子供をねらった凶悪な犯罪が各地で相次ぎ、親たちの不安が募っているだけに、それも考慮した判断があってもよかったのではないか」と結論付け、事実上、死刑を求める内容となっている。社説記事は、文字どおり言論機関としての社の見解を表明するもので、裁判官が量刑判断にあたって理性的に接した結果と考えられる本判決に、言論機関として「死刑」を求めるのは異例と言えよう。
そもそも、この事件に関する一連のマスコミ報道では、ペルー人という外国人に対する裁判であるという事実認識が当初から欠けていたように感じる。外国で刑事裁判にかけられる日本人の被告に関する報道では、マスコミがその国の刑法上の量刑の妥当性について言及するのをしばしば目にするが、国内で裁判にかけられる外国人についてはそういった意識が存外乏しいという印象がある。被告の母国での前科が、異国で起こした犯罪の量刑判断に反映されるべきものなのかどうかを慎重に検証するのが言論機関としての役割ではないか。朝日新聞の社説は、死刑適用論の識者の理屈に安易に便乗し、短絡的に結論を導きだそうとしたように思えてならない。
日本は法治国家であり、法制度上の刑罰の種類が明文化されている以上、事件の内容によって裁判官が「死刑」を選択することはやむを得ない。裁判官は立法者ではなく、それを解釈・適用する法の番人にすぎないからだ。個人的な心情を介入させずにできるだけ公平に量刑判断をした結果、「死刑」しか残らないこともあるだろう。一方、国際的には、国連の「死刑廃止条約」というものが存在し、死刑廃止に向けた動きが広がりつつある。アムネスティ・インターナショナルによれば、死刑制度を廃止した国は現在、87カ国に上るという。しかし、死刑制度を採用する国々も依然として多く、日本国内でも死刑制度の是非と犯罪被害者救済の議論は密接不可分として、必要以上に混濁して語られることが多いのも現実である。
朝日新聞は、社説として取り上げるのなら、そうした状況を客観的に示したうえで、より慎重に本事件に潜む本質な問題を探求すべきで、単純に死刑を求めるような論調は言論機関としての使命の放棄である。【了】
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朝日がこういうことをするとは…
最近左右双方からの袋叩きで自暴自棄で暴走気味とは聞いていたけど、
こんな下品な論説産経でもやらないでしょ。