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(回答先: 「テクネー」と「共同主観」、劇の主体は観客 投稿者 愚民党 日時 2006 年 11 月 18 日 12:27:43)
愚民党さん、こんにちは、レスをありがとうございます。
冴えた頭脳と自由闊達なお人柄に単なる語部としての使命を託するのではなく、今暫くは愚民党さんには表現者の道を貫いて欲しいと望んでいます。
>野外であれ、寺院の本堂であれ、寺院神社の境内であれ、近代現代劇場であれ、劇の宇宙を生成しているのは観客の律動と感覚、そして想像力の読みと先取りではないかと思います。劇の幕を切って落とすのはいつも観客です。観客の存在なしには劇が成立しません。「ゆえに劇の主体である観客の先取りをいかにみごと裏切り、観客を呆然とさせるか」にかける演出家もおります。演出家とは観客を代表するものです。劇の主体である観客の側から観客の立場から稽古場で劇をつくりあげていくのが演出家であると思います。「演劇とは劇の主体である観客に仕掛ける陰謀と魔術である」要素があります。劇の主体である観客に仕掛けるロジック構成とマジック構成が劇場にはあります。
商業演劇の現在性は観客の存在によって担保されているのは事実でしょう。けれども、芸術活動の本義は主にクリエイター(供給側)の情念の表出にあり、『観客の存在』とは本来無縁のものではないでしょうか。私は劇と演者の存在それ自体が醸し出すものが観客を引き寄せるのであって、『劇の幕を切って落とすのは(いつも)観客』ではないと考えています。たとえ商業演劇であっても、マーケティングに基づいた構成(スクリプトやキャスティング)には魅力を感じませんし、そこに何等クリエイティビティを見出すことはできないと思っています。
『演出家とは観客を代表するものです。』、この場合の観客は鑑賞眼において或る一定の水準を具えた個人もしくは大衆を指すのでしょう。そして、観客は如何に受け手としての主体性を形成できるかが問題ですし、また演者にとっては受け手の主体性の形成を喚起することに如何に主体的に関わることができるかが課題となるでしょう。それを深く内省した結果として生成したのが、60年代後期に発した“アンダーグランドの野外テント芝居”(状況劇場)という実験ではなかったのではないでしょうか。
このことで想起されますのは、『ああ、もう抵抗と異議提示の群がる身体じゃない…個々が深みから個々の上向する命と魂の形を汲み出して放つ舞踏が見たい。』(Re:未明に眠った手紙http://www.asyura2.com/0311/dispute15/msg/583.htmlというマルハナバチさんのフレーズですが、他者(受け手)のことや往きつくところに全く意識のない表現にこそ芸(術)の真価があると、そのようにマルハナバチさんの文意を受けとめました。と同時に、それは愚民党さんに投げ掛けられていた問いでもあった筈です。例えば純粋なる供給としての大道演劇が創り出す状況こそが真の舞台であり、大小に拘わりなくその全体・全容は命の躍動を現出している生命体そのものと云えるのではないでしょうか。また、そこでは供給関係も受給関係も最早存在しないでしょう。けれども、少なくとも自律神経系ではないフィールドにおいては、やはり供給者の存在がなければこうした状況は決して生成し得ないのは自明だと想われるのです。
>暗黒舞踏関係の60歳代の女性が観に来てくれたのですが彼女は斉藤監督の今回の映画に「古い映画の匂いがした、ロマン・ポルノを撮るといい」と言ってくれました。自分も斉藤監督には、ぜひロマン・ポルノを撮ってほしいと願っております。ロマン・ポルノからは数々の映画監督が輩出されていきました。
確かに70年代初頭頃から、日活ロマン・ポルノは若手映画監督の修業の場でありました。ロマン・ポルノがどのような今日的な価値を有するのか、あるいはその手法が斉藤監督の作品を構成する「テクネー」として相応しいものになるのか、私には推断ができ兼ねます。むしろ、日活ロマン・ポルノと併せて、斉藤監督には70年代の増村保造監督作品にも眼を投じていただければと想います。何れにしても増村監督との間にある距離感を埋めることなど叶わぬかも知れませんが、ただしこのラインで職人的修業を重ねていこうと志向するのならば、価値あるメルクマールになり得ると考えます。
>斉藤監督も今回は細部にこだわり、高校のときは映画部、大学は京都造形大学の映画学科で経験してきた「テクネー」が、湧き出してきたな、と自分は撮影現場で思っておりました。自主映画つくりでがんばってほしいと思っております。
編み出されたものと云った観点で 「テクネー」を捉えるのならば、その根源は『おのれの制御装置とは、「客観」ではなく、美術作品のように、観客の前にさらされ、見られ長年の本番舞台で身体感覚をきりひらいてきた技術でもあります。制御装置こそが表現を成立させていきます。』(愚民党さん)に求めることができ、その表れとしては“描く”技術に集約されていくと想われます。己の悲惨な運命を語るのに、唯単に“苦しい”という個別的表現を用いるのでは「テクネー」の意味はありません。そうした表現を用いずに実情や状況を“描く”ことによって情念を浮き彫りにするのが「テクネー」の本義でありましょう。
>「去年マリエンバードで」ようやく、昨晩、最後まで見ることができました。最初は途中で眠ってしまい、2回目も眠ってしまい、3回目でようやく最後まで観ました。
>すごい映画だと思いました。土方巽はこの映画を観て白塗り暗黒舞踏を誕生させたのではないかと思いました。寺山修司も確実に影響されたと思いました。
「去年マリエンバートで」は掴みどころがないばかりではなく、作品自体が観る者をキャッチしようとはしない映画です。ですから、3回目で観終えることはかなり映画が好きな人であり、逆にシュールなものに関心がない人ならばとうの昔に投げ出してしまっていることでしょう。アラン・レネの全盛期の作品でありアンチ・ロマンの極致とも謂われるのは、観る者の想像力や思考力に問い掛けているように見えてそうでもない、しかしコンテクストを貫いて妥協しない寂なる力の存在の為せる業だと想われます。
さて、世の中は世界も日本も同胞の篩い落し合いの過酷な状況に向かいつつあるようです。しかし、人間が、人類が、何故そうしたことを繰り返すのか、未だに私は本当の原因を掴めずにいます。生物の本性が寄生にあることは紛れもない事実であり、もちろん宿主は地球です。我々人類の運命が地球のそれと伴にあるものならば、さらに想像力が豊かな脳機能を有する人類ならば、寄生の永続を展望してもっと穏やかで緩やかな篩い落しで応じるべく智慧を働かせてもよいのではないかと想われるのですが、急速な環境改造に奔走する人類は地球の運命の終局よりも遥か以前に滅亡を迎えることになるかも知れません。
文明は人間活動を形成する生存手段の発展に伴う人間生活の物質性を表象し、一方、その所産とも謂える人間生活の精神性が様式化したものが文化であり、さらには、双方共に人工化[artificiality]=大脳化[cerebration]の諸相を構成するもので、そのベクトルは寄生[parasite]の持続に他ならぬでしょう。すなわち、人類(生物)の存在様態は寄生であり、生存に関わるテーマは寄生の恒久化ではないでしょうか。さらに問題の要諦は生命の躍動[élan vital]をも包摂する「人工化=大脳化」の制御にあり、人間は自らの脳を以ってして斯かる問題の解決を図っていかねばならず、我々人類の運命(生命の運行)の本義とは遺伝子の振る舞いを脳機能によって受けとめることではないかと考えています。
また、会いましょう。