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(回答先: “踏切”はテクネーの延長線上にあったものか? 投稿者 如往 日時 2006 年 11 月 17 日 03:14:34)
如往さん。こんにちわ。
「テクネー」という言葉を教えていただきありがとうございました。
>私の高校時代は部の備品であるミッチェル(16mm)で遊んでいた一端の写真小僧ならぬ映画小僧でした。
16mmがあったとは、先進的な高校だと思いました。
1970年ごろですが、栃木県の高校には写真部はありましたが、映画部の存在は聞いたことが
ありませんでした。県庁がある宇都宮の大学には映画部があったと思いますが、まだ高校にはなかった
と思います。自分と映画の出合いは、中学生のとき新聞配達をしていまして、なにか新聞配達少年には
「映画鑑賞券」が毎月、新聞販売所からもらえ、それでよく、ひとりで町の「東映」や「日活」系列の
映画館に見にいきました。洋画を観るようになったのは、高校生になってからです。学校をズル休み
しては、隣市の大田原の映画館に自転車で観にいきました。「卒業」などはそこで観ました。
地方の場合、映画は都会より遅れて上映されますので、世界同時性でいえば、全国の書店に販売日には
ある「まんが」でした。自分の場合、手塚治虫の虫プロが発行していた「COM」と青林堂が発行する
「ガロ」でした。
高校を卒業してから、自分が住んでいた栃木県北部の故郷で、自主上映運動が立ち上がりましたので
そこに参加して、「原爆記録映画」とか「パリ・コミューン」「鉄路の闘い」などを栃木県北部の
各地で上映しました。当時はまだ、青年労働者の反戦運動である「反戦青年委員会」などがありまして
組合の青年婦人部が観客動員してくれました。しかし、お客様が5人くらいのときもありました。
ほとんど宣伝は、夜、電信柱に洗濯のりで貼るステッカーとガリ版印刷のチラシでした。
そのころの自主上映運動の先輩に、今年のお盆、帰郷したとき、24年ぶりに再会してきました。
自分は1973年に新左翼系社会運動に一度、挫折しまして、東京品川に逃亡いたしました。
栃木県の自主上映運動は70年代に田中正造で有名な足尾鉱毒事件の「谷中村」農民のその後を
ドキュメンタリーで撮る映画を企画し、進行させていたのですが、最後まで撮れなかったという
ことです。先輩に聞いたら田中正造研究会は今も健在であるとのことでした。
神奈川に住むようになってから、印象強いのは、「山谷ーーやられたらやりかえせ」の自主上映
運動です。「三里塚農民の闘争記録映画」なども、よく集会で観ました。「70年安保闘争の記録
映画」なども観ました。
1、斉藤監督「愛ノ戦士ーからくり戦士ゼンマイン」
>最初に出て来た踏切は彼岸と此岸とを別けるターン・テーブル、あるいは二つの並行する宇宙(空間)を繋ぐ扉の比喩なのかも知れないと月並みですがそんな想像をしたことが端緒となって、断続的な接点の象徴化によって反面では関係性の不在という現実を描出しようとされているのでは
自分は受付をしておりましたので、会場で斉藤監督の「未完成作品」を観ておりません。
斉藤監督は働きながら映画をつくっており、料理屋で仕事が終わるの夜11時、休みも週の平日1日な
ので、なかなか時間がなく、上映当日も編集しておりまして、よくやく上映時間に「未完成作品」を
会場に持ち込んだという経緯でした。
上映時間を待っていた如往さんとも、もっとロビーで話したかったのですが、いやはや斉藤監督の到着
がまだなので、申し訳ありませんでした。自主映画の場合、監督ひとりで、役者への出演依頼から調整
絵コンテつくり、撮影、編集、宣伝ハガキつくりとやりますので、演劇とか舞踏の集団的創造と違って
たいへんだと思いました。撮影は斉藤監督の仕事が休日の平日にやりました。撮影は10月にやりまし
た。ゼンマイン戦士とか悪役シルバークロウなどのコスチュームは全部、斉藤監督がひとりでつくりま
した。
「踏切」のシーンは、斉藤監督が自分が描いた絵コントにそって、最初にとったシーンです。お寺の
近くにある横須賀線の踏切場で撮りました。如往さんが「彼岸と此岸」を感受されましたのは、向こう
にお寺、こちらに鎌倉八幡宮よりの木造家屋が多い町並みという空間性があったからではないかと、
想像します。寺院の境内とか庭をおかりした撮影も多かったです。
「二つの並行する宇宙(空間)」それは寺院が蓄積して出力している空間の臭覚と、
庶民が暮らす日常そのものの生活を蓄積し出力している空間の臭覚が
「二つの並行する宇宙(空間)」でクロスしているという場所性にあったと思います。
また鎌倉駅近くの町並みは古都保存法で「昭和のノスタルジア」景観があります。
京都は大きな古都で、一条、二条、三条、四条、五条、六条と、平安京造成のとき
横軸と縦軸により直線がひかれた設計図構想によって、計画都市として誕生した千年の都です。
鎌倉から京都にいきますと、京都のダイナミズムと巨大さに驚嘆します。
賀茂川の橋を渡ると横軸のぎっしりとした商店街、こちらがわには京都大学と銀閣寺、
百万遍交差点。京都の駅の近くには本願寺。バスに乗って二条城。京都大学から京都の駅を
めざし、途中、左に曲がり、行くと、平安神社と公園。京都は巨大です。
また京都には時代劇などをつくる巨大映画撮影所も健在です。
このあいだ北鎌倉浄智寺でやった野外舞踏の手伝いに来ていた30歳の若い人は、京都出身で
鎌倉に住んでいる若衆ですが、鎌倉は海がありコンパクトにまとまっているのが好きだと
言っておりました。寺院・神社・庶民の町並みが混在していることにより
如往さんが言われる
「彼岸と此岸とを別けるターン・テーブル、あるいは二つの並行する宇宙(空間)を繋ぐ扉の比喩」
が、鎌倉駅の周辺には臭覚としてあるのではないかと思います。
彼岸の場所が寺院であり神社、此岸が「昭和ノスタルジア」庶民が生活する町並み。
鎌倉には関東各地からやってきた小学生や中学生が地図をもって、
フィールドワークしております。ほとんどグループ自由行動です。おらの小学校・中学校・高校の
修学旅行は、バスに乗っての学校集団行動でした。
鎌倉は地図を読みながら、歩き、場所めぐりをするフィールドワーク自由行動の
実践学習の場となっております。場所がコンパクトだからです。
小学生・中学生が鎌倉を徒歩でフィールドワークするのは
「身体知」を学んでいくといいますか、「テクネー」の学習場所として
鎌倉が教師に評価されているからであると思います。
京都は巨大ですから、昔からのスタイルで、バスで移動する学校集団展開の修学旅行であると
思います。
鎌倉を舞台にして撮影しました小津安二郎監督の映画も、日常の家族の暮らしを撮るのですが
なにかその映像空間にもしかしたら
如往さんの言葉である
「彼岸と此岸とを別けるターン・テーブル、あるいは二つの並行する宇宙(空間)を繋ぐ扉の比喩」
という臭覚があったから、西欧の映画作家から評価されたのかもしれないと
思いました。
>断続的な接点の象徴化によって反面では関係性の不在という現実を描出
斉藤監督とは映画のテーマについて話したことはなかったのですが
去年の「絶望論」という題名も自分は面白いと思い、現代の現実感覚の匂いを感じました。
今回の「からくり戦士ゼンマイン」は、最初、何故いまさら、ウルトラマン、怪獣映画でも
あるまいし、反時代的だなぁと思いました。
自分の小学生時代は、日活系映画館に「大映」や「東宝」の怪獣映画がやってくると
遊び仲間と喜んでみました。好きなクラスメートの女の子を映画館で発見したときは
嬉しかったものです。
「ゴジラ」
「モスラー」、ザ・ピーナツが歌う「モスラーーーや、モスラーーーや」の歌声には
魅了されしびれました。とにかく蝶蛾が巨大生物になりますから、びっくらこきました。
巨大「フランケンシュタン」も面白かったです。
まだ行ったことがない帝都東京と東京タワーが破壊される映像は、「あっと驚くため五郎」で
鮮やかさと恐れ爽快感がありました。
世界には奇跡があるのだということを映像から教えられました。
日本の場合、毛沢東「造反有理」を当時の小学生は
怪獣映画で学んでしまったわけです。
60年代後半から70年代の反乱の世代的情念は、小学生のときに観た「ゴジラ」にあるのでは
ないかとも妄想しております。
暗黒舞踏関係の60歳代の女性が観に来てくれたのですが
彼女は斉藤監督の今回の映画に
「古い映画の匂いがした、ロマン・ポルノを撮るといい」と言ってくれました。
自分も斉藤監督には、ぜひロマン・ポルノを撮ってほいしと願っております。
ロマン・ポルノからは数々の映画監督が輩出されていきました。
斉藤監督も今回は細部にこだわり、高校のときは映画部、大学は
京都造形大学の映画学科で経験してきた「テクネー」が、湧き出してきたな、と
自分は撮影現場で思っておりました。自主映画つくりでがんばってほしいと思っております。
2、「関係性の不在」から「関係性の一線へ」
如往さんの映画の批評を自分は自分のこととして受け止めました。
今回、受付応対をやり、お客様の存在が、本当にありがたく思い、嬉しかったのであります。
37歳から演劇・舞台に関わったのですが、今まではお客様のことよりも、観客席にさらす
公演プログラムをなんとしても成功させ、劇場であれ寺院であれ、現状復帰に戻すことに
精一杯で、お客様のことよりも、「どう関係をつくるか」は劇場であり寺院でした。破損とか
迷惑を劇場や寺院にかけてはならないが自分の鉄則でありました。
鎌倉生涯学習センターホールのスッタフは、舞台準備からバラシ、照明もやってくれて
神奈川県の照明家や舞台裏方のプロからも高い評価をされております。感謝です。
斉藤監督も未完成作品でありながら上映時間に間にあい、その安堵が、観客との約束を
果たせたことが、お客様の発見につながり、お客様個々との関係その一線は重要だと思った
のです。集団で公演する演劇とか舞踏は集団的強制力が作動し、集団と観客席の関係になります。
裏方であれ自分はプログラム集団のひとりとして、観客を迎え、そして劇場の外へ送り出します。
観客を集団としてみてしまうわけです。この年でようやく観客の存在を発見したのかと
恥ずかしいのですが、上映時間の前、音楽ライブをやっていたとき、如往さんとロビーでお話し
することができ、そして終演し、如往さんから「関係性の不在」というお言葉を聞き、
「おらは人と人との関係性から逃げてきたのではないか」と反省をしたわけです。
「お客様との関係をつくってこれなかった」と反省をしたわけです。
如往さんとロビーでお話をして、自分が再度、発見したことは、観客は観客席に座る集団ではなく
ひとりひとり違い、批評性を持っているというということでした。
何か今回は斉藤監督と如往さんによって、観客の個人としての実在を熱く嬉しく感じました。
3、「舞台」「観客」「共同主観」
> 表現者が主体となって生成させている宇宙(Space)の律動に臨場している観客の感覚が律動の先取りをも含んで完璧に同調し得るのか、そうした状態が成立し得るのか、愚民党さんの見地を敷衍すれば、観客が受けとめているのは残像もしくは痕跡に過ぎぬということになるのでしょうか。つまり、とりわけ舞台における「共同主観」が同時性を要件とするのであれば、このズレは致命的なものであるように思われます。
そこで劇場における共同主観ですが、
自分が「劇場において共同主観は成立していない」と記述いたしましたのは
俳優におのれの主観を投影する観客の「集団性としての共同主観」は成立していないと言うことです。
舞台にいる俳優から見ると、あるいは袖幕の裏にいる裏方から見ると、舞台と対峙している観客席
の観客は集団として見えます。舞台人は観客との勝負を、同一、同時間、同場所の進行において
プログラムを進めていきますので、相対峙する観客、おのれのお客様を集団として知覚してしまう
陥穽に入ってしまいます。これは企業が製品をつくり、その製品を購入してくださるお客様を集団
として知覚してしまう落とし穴と同じであります。
如往さんが記述しております「観客」とは、個人であり、ひとりの観客であると思います。
なかなかそのあたりまえのことを、舞台人は発見できなくなってしまいます。
大衆演劇やアンダーグランドの野外テント芝居の場合、劇が終わと、入り口のところに出演者が並び
お客様ひとりひとりに「ありがとうございました」と御礼の挨拶をします。
それは、観客とは集団ではなく、ひとりひとり違うということを再確認するためです。
>表現者が主体となって生成させている宇宙(Space)の律動に臨場している観客の感覚が律動の先取りをも含んで完璧に同調し得るのか、そうした状態が成立し得るのか
という如往さんの記述ですが
劇の場の主体は観客であるとするのが、世阿弥以来の日本舞台史の綱領であると思います。
寺山修司も劇場の主体は観客席にあると思っていたと思います。
千利休の茶道でも主人が客人を迎える宇宙をどう生成するかにあると思います。
日本の場合、西欧と違って、主体よりもまず客体に重きを置くところがあります。
野外であれ、寺院の本堂であれ、寺院神社の境内であれ、近代現代劇場であれ、劇の宇宙を生成
しているのは観客の律動と感覚、そして想像力の読みと先取りではないかと思います。
劇の幕を切って落とすのはいつも観客です。観客の存在なしには劇が成立しません。
「ゆえに劇の主体である観客の先取りをいかにみごと裏切り、観客を呆然とさせるか」にかける
演出家もおります。演出家とは観客を代表するものです。劇の主体である観客の側から観客の立場
から稽古場で劇をつくりあげていくのが演出家であると思います。
「演劇とは劇の主体である観客に仕掛ける陰謀と魔術である」要素があります。
劇の主体である観客に仕掛けるロジック構成とマジック構成が劇場にはあります。
自分は厳密な思考、厳密な言語意味の検討、厳密な記述の訓練を受けた経験が欠落しておりますので
細部と厳密さを記述するテクネーがありません。
どうしても動物的な感覚で素朴経験則で記述してしまいますので、如往さんとはズレてしまうと
思うのですが、それはかんべんしてください。
「共同主観」という言葉をはじめて知ったのは83年ごろ、ブントの荒岳介さんの著作からでした。
「革命党と革命運動における、構成員による共同主観形成」が主軸であったと思います。
そこでの共同主観とは、おのれの革命運動を対象化し、共同で対象化作業としての言語知をつくり
あげることではなかったかと思います。組織実践と組織総括から、おのれとおのれが属する組織の
価値観と思想を革命運動共同体である共同によって、同時的に生成していく、その共同主観は言葉
へと置換され、構成員全員から提出された対象化作業としての文章を批判しあるいは検討し、思想
能力を高次化させていく、指導者は、革命党のイデオロギーとして、共同主観を、おのれの組織共
同体が発行する革命党新聞に発表していく。まとめあげた共同主観を、同時的に構成員は討論に
よって主体化し、その共同主観を支持者に伝播していく。共同主観とは価値観であり規範ではない
かと自分は思ってきました。共同主観には思想的価値観が存在し、またそこでは主体性なるものが
普段に問われ、自己身体を叱咤激励していく内容であると思ってきました。
自分は共同主観を記述した廣松渉の本は、言いまわしが難解で、読むのを挫折してしまいました。
ですから普遍的な意味での共同主観がまだ理解できておりません。
感覚的には共同主観という思想言語を、劇場・観客・舞台の空間構造に置換することは
無理であると思っています。
最近の演劇批評や演劇論を読んでいないので、申し訳ありませんが、まだ演劇批評や演劇論に
おいて、共同主観という言葉は登場していないのではないかと思います。
阿修羅「論議」における劇場と観客に関する共同主観の記述は、「客観」と「主観」との差異の例証
から登場したと思います。
自分はあんがい保守的でありますから、劇場空間を思考する場合は、身体論と想像力論から
論じた方が安定感があります。
しかし如往さんが記述しました
> 表現者が主体となって生成させている宇宙(Space)の律動に臨場している観客の感覚が律動の先取りをも含んで完璧に同調し得るのか、そうした状態が成立し得るのか、愚民党さんの見地を敷衍すれば、観客が受けとめているのは残像もしくは痕跡に過ぎぬということになるのでしょうか。つまり、とりわけ舞台における「共同主観」が同時性を要件とするのであれば、このズレは致命的なものであるように思われます。
この文章を読むと
ひとりの観客と舞台の応答関係には、観客の想像力と感覚が主であり、プログラムを
同時間、同場所において進行させている表現者が従であるという劇の構造関係において、間口が
広い意味での共同主観成立の可能性を、舞台批評、舞台生成論として検討することは
課題であるとも思いました。
舞台を観ている観客席にいる複数の観客たちに、共同感覚はあると思っております。
その共同感覚は世代によっても違うのではないかと思います。
如往さんがロビーでお話しされました、若い世代の音楽の声質と、伝えるというテクネーについて
「ジュラルミンの盾」と壁、68年〜72年世代が共有感覚としてもっていた身体感覚、
井上揚水「氷の世界」「傘がない」その最初の声質で、伝えるテクネーを有していたという
現代の若い世代による歌、声質との、伝播力の差異。
いろいろ考えさせられました。
現在は携帯電話によって、距離感覚と壁感覚が溶解してしまったのかもしれません。
自分は80年代後期、三島由紀夫の「文化防衛論」から距離のとり方、剣道でいう「間合い」を
学ぶことができました。
撮影が終わり、10月、鎌倉駅線路沿いにある「映画館」というスナックに飲みにいったのですが
50歳代のお客様にあおられなぜか盛り上がり、歌うことになりました。もちろんカラオケなど
ない飲み屋さんです。若い男性の役者が歌ったのは中島みゆきの歌でした。いつも部屋で聞いている
そうです。若い女優が歌ったのは「異邦人」でした。
若い世代の歌が久しく誕生していない現状があると思います。
2006年の現在、若い世代に世代意識はもはや無いと思います。
吉田たくろう、「かぐや姫」が今年の夏、「つま恋コンサート」をやったそうです。
2004年に京大西部講堂での舞踏公演のとき知り合った京都の若い女性も
「つま恋コンサート」に行ってきたと聞きました。
時代と歌、声質、伝えるテクネー、これはまた書き込みしたいと思っております。
「去年マリエンバードで」ようやく、昨晩、最後まで見ることができました。
最初は途中で眠ってしまい、2回目も眠ってしまい、3回目でようやく最後まで観ました。
すごい映画だと思いました。
土方巽はこの映画を観て白塗り暗黒舞踏を誕生させたのではないかと思いました。
寺山修司も確実に影響されたと思いました。
1961年。まだ三島由紀夫、渋澤龍彦、寺山修司、土方巽も元気で
埴谷雄高も元気で
至福な黄金の60年代、幕開けを感じる映画でした。
「あなたは……」
その「あなた」とは、ホテルの若い人妻ではなく、劇の主体であるわれわれ観客でした。
「そしてあなたは迷宮に入る」という最後のセリフ、テキストの野外彫刻は
イタリアとスロベニアにある国境の港町、アドリアの海が丘から見える、
イタリアのトリエステ、職人の店が並ぶ坂道を登り、城跡をめざす。
海が見える丘には巨大な彫刻、スロベニア・クロアチア舞踏公演の帰りによった
国境の港町を思い出しました。
自分はもう二度とイタリアには行けないのですが、
イタリアでは寺山修司が今でも読まれていると思います。
如往さん。ありがとうございました。