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(回答先: サンフランシスコとイサドラ・ダンカン 投稿者 Sun Shine 日時 2006 年 11 月 17 日 18:11:47)
「イサドラ・ダンカン」と「お玉ちゃん」
Sun Shineさん。コメントありがとうございました。
玉野黄市さんのニックネームがアメリカで「お玉ちゃん」
そう呼ばれていたのは知りませんでした。
イサドラ・ダンカンを教えていただきありがとうございます。
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イサドラ・ダンカンは1877年5月26日、サンフランシスコの名家に生まれました。同じ年の10月、父が経営する銀行が倒産。少しして両親は
離婚し、父は別の女性と再婚します。育ち盛りの4人の子供たちと後に残されたイサドラの母は、ピアノのレッスンで生計を立てなければな
りませんでした。2人の息子たちも雑多な仕事を見つけ、幼いイサドラと姉のエリザベスも近所の子供達に踊りを教えました。イサドラは、
踊りのレッスンや学校にいる時間以外は、いつも海辺を散策したものでした。寄せては返す波の動きをみていた時、舞踊についての最初の
インスピレーションが浮かんだ、と後に言っています。
http://www.duncandance.org/idhsj/html/isadora_duncan.html
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昨日、図書館へ行ってきたのですが、あいにく1ヶ月1回の図書整理日にあたり、
休みでした。
今日、行って
「イサドラ・ダンカン」に関する本をさがしてきます。
映画「はだしのイサドラ」の存在も知りませんでした。
この歳になって、イサドラ・ダンカンに関する本も読んだことがないのは、恥ずかしいかぎりです。
玉野黄市さんは実にきさくな方で庶民的な人です。
カルフォニアで寿司屋をやっているせいか、人とコミュニケーションする能力は高いです。
大衆的人柄といいますか、フーテンの寅さんのごとく人から好かれます。
アメリカで「お玉ちゃん」の愛称であるのも人柄であると思います。
しかし身体は鍛えています。だから60歳を越えても世界各地で踊っているのだと思います。
「イサドラ・ダンカン」と「お玉ちゃん」の記事を読むと、
映画「フラッシュダンス」を思い出します。
ダンス・舞踏はプロレタリアート出身者でも表現者になることができる分野だと思います。
バレエは中流上か富豪の家でないと無理であると思います。
歌舞伎なども3歳から稽古が始まるのですが歌舞伎の家に生まれませんと歌舞伎役者になれません。
能・狂言も家系に生まれないと、3歳からの稽古は無理です。
バレエや歌舞伎の英才教育は歴史ある強固な育成プログラムを持っております。
現代舞踊としてのダンス・舞踏は、こうした芸能育成プログラムには負けてしまいます。
クラッシック伝統芸能の「英才教育」と「育成プログラム」には、負けてしまいます。
しかし、ダンス・舞踏は「プロレタリアート」の現代芸能ですから、間口は広く、庶民を観客として呼ぶことができます。
暗黒舞踏も現代芸能であり、歴史も土方巽が暗黒舞踏を発見した1965年からであると思います。
まだ40年の歴史しかありません。
日本の戦後現代美術は、つねに現代思想の展開でもあったと思います。
現代美術家は現代思想の展開と協働作業してきたところがあります。
現代芸能は現代思想と協働しながらやっていかないと、自己完結の落とし穴に入ってしまいます。
そこで批評が必要なのですが、
三島由紀夫、渋澤龍彦、寺山修司が生きていた時代と違って
今、日本の舞踏批評家はあまり書かないです。
現代演劇を批評する演劇批評家もあまり書きません。
ほとんど批評家は、かつて文藝雑誌メディアからほされた吉本隆明がガリ版で文藝批評を書き
ガリ版印刷で自ら批評誌を出していた根性がありません。
ヨーロッパやアメリカでは公演翌日には舞台批評が新聞に掲載されると思います。
日本の新聞はあいかわらず舞台批評に関しては、スピード感がなく、ほとんど影響力がありません。
自分の経験ではクロアチアのリエカで野外路上舞踏をやったときは、翌日のクロアチアの新聞に写真つきで出ました。
スロベニア首都での野外路上舞踏も、翌日の新聞には写真つきで掲載されました。
劇場公演の批評もすぐ新聞に出るわけです。
演劇の現場でも演劇批評家は無視されております。
「批評家はおれたちがゼロからつくる気持ちをわかっていない」と言われております。
批評と現場の双方向系がないと、精神的貧困になってしまいます。
現代思想が現場と応答関係になれるのは批評のみです。
しかし日本の演劇批評家も舞踏批評家も現代思想には、ほとんど無関心であります。
日本とは「イデオロギー」が無化されている国ですから。思想には関心がありません。
批評とは方法意識でもあり、「見えないものを観て」舞台空間に生成したなにものかを
言葉へと置換し、劇場(夢)と劇場の外(現実)を繋いでくれるものだと思います。
舞台とは観客が主体ですから、批評が死滅しますと、舞台現場も自己完結になってしまいます。
日本はものすごい閉塞感が支配しております。
言語化できぬ舞踏批評家は一番前の席で、舞踏家の写真などをデジカメで撮って、自己閉塞しております。
言語へのたたかいを放棄しているのであります。
暗黒舞踏はまだ40年の歴史しかないのでありますから、そうとう危機感をもって
現代思想の身体論展開と呼応し、批評精神を奪還しませんと、自己閉塞してしまうと思います。
バレエ・歌舞伎のように「育成プログラム」をまだ確立しておらず
若手暗黒舞踏家は、玉野黄市さんがアメリカに行ったように、世界中に日本から飛び出さないと
道は開けないと思います。自己閉塞の日本で窒息するのも若手舞踏家の自由ですが、
危機感を内包した若手舞踏家は、今、どんどん外国語の勉強をして
日本からアジア・ヨーロッパ・アメリカのダンス公演のオーディションを受けに行っております。
現在、日本の若手舞踏家は、土方巽の第1弟子である玉野黄市さんが日本を飛び出した道を歩んでおります。
「いかなるテクネー」を身に付けるのか、「いかに伝えるのか」、若手舞踏家たちも模索しながら
がんばっております。観客が主体だからです。
1、
1994年から2003年まで舞踏公演に出演していたのに、自分の舞踏・舞踊・ダンスへの問題意識の
なさと探究心の怠慢に、恥ずかしいかぎりです。
稽古前の野口体操とか稽古、振り付けなどは、演出家と指導者がやってくれましたので、それに甘え、
主体性がない舞台人生を送ってきてしまったと反省しております。
演劇の方も自ら、様々な演劇の本を読み、主体的に演技を対象化し深めていくという作業を怠ってきました。
劇団でも舞踏団でも宣伝制作の方もやっていましたので、宣伝チラシの折込やチラシまき、
「どう社会に向けて宣伝し話題性をとっていくのか、劇団、舞踏団の公演情報をどこまで伝えることができるか」
などばかり考えていたと思います。
2003年などは、舞踏公演のチラシを「20世紀バレエ団」公演の会場である上野の東京文化会館の入り口で
まきました。新宿の「新国立劇場」の入り口でもまいたことがあります。
外国からの来日公演、音楽・オペラバレエ・ダンス公演宣伝チラシは専門業者が透明ビニール袋に入れて、
会場の入り口でお客様に渡すシステムが東京では確立しています。
そこに割り込んで、おのれが属する舞踏団のチラシをお客様に手渡し
ました。夜などは焼酎を飲みながら、宣伝計画工作ばかり考えておりましたので、「舞踏・舞踊・ダンス」への
問題意識を欠落し、本も読まず、すさんだ生活になってしまいました。
探究心がある演劇人や舞踏家は残っていくのですが、貧乏劇団、貧乏舞踏団の場合は、とにかく観客を集めない
ことには、公演で膨大な赤字を出してしまいますので、いつも赤字が恐怖でした。日本の場合、「制作」という
位置が認知されておりません。ですから、制作をやる人間は、ほとんどボロボロとなり廃人となってしまいます。
東京では、制作会社ができており、若手の劇団などは、制作会社に委託する形態が以前から進行しております。
公演チラシを様々な劇場に折込する会社も東京にはあります。
外国からの来日公演宣伝を受け持つ制作会社スタイルが東京には進行し
制作予算がある劇団などは、委託していると思います。
ひとりで踊っている舞踏家の場合、制作もやらなくてはならないので、たいへんです。
舞踏界の場合、いつも制作が脆弱です。昔は学生などが積極的に手伝ったのですが、時代が変わり
頭脳を全面的に展開し、お客様と対応し、困難な仕事にかかわらず、出演者からはあまり感謝されず
わりにあわない制作をやる若い人が減ってきました。裏方を手伝っても、やはり若い人は舞台に出演した方が
継続していけると思います。舞台に出ると開放感があります。そして観客から拍手をもらえます。
お客様の拍手と励ましの言葉をいただけると、後、10年間がんばることができます。
やはり劇場の主体は観客です。
2、
玉野 黄市プロフィール
舞踏家 「ハルピン派」主宰。 在サンフランシスコ。
1946年 静岡県生まれ
1965年 土方巽に師事
1967年 舞台デビュー/土方巽暗黒舞踏派公演「バラ色ダンス」
1972年 哈爾賓(ハルピン)派旗揚げ「長須鯨」
1976年 アメリカデビュー「Japan Now参加」
1978年 渡米。以降カルフォルニア州在住
以降、日本、ヨーロッパなどワールド・ワイドに活躍。
http://www.fliedlice.com/tamano/profile.html
自分は3回ほど、「とりふね舞踏舎公演」で玉野黄市さんの背景として踊らせていただきました。
2002年にスロベニア・クロアチア公演のときも背景として踊り、かわいがっていただきました。
玉野黄市さんの日本の弟子は工藤丈輝さんだと思います。
20歳代のとき工藤丈輝さんはアメリカに行き、玉野黄市さんから学んできました。
大駱駝鑑の若林淳さんも、何度か玉野黄市さんと出演しております。
本番でいろいろ玉野黄市さんからは、学んだと思います。
http://blog.drecom.jp/wakabayashi/
http://www.geocities.jp/camelarts/camel_arts/tarents/waka.html
●自分の感覚では、今後の暗黒舞踏界を継承させていくのは、工藤丈輝さんと若林淳さんだと思っております。
とりふね舞踏舎の榊大亮さんも、玉野黄市さんと舞台を踏んでおり、いろいろ学んだ
と思います。「テクネー」を身に付けたと思います。
現在はスロベニアと
日本を往復しながら、がんばっております。
スロベニアでのダンスオーディションに受かり
「カラマンゾフの兄弟」というダンス公演に出演するそうであります。
暗黒舞踏の「テクネー」と模索は、寺山修司のごとく永遠に現在進行形であります。
寺山修司が生きていたころは、「アメリカの実験演劇の今」などを書いて「新劇」に
掲載され、世界同時性の方法意識を読むことができたのですが、
日本では寺山修司が亡くなってたから、面白い舞台批評は死滅してしまいました。
寺山修司は記号論とか現代思想をつねに情報取得しておりました。
Sun Shineさん。ありがとうございました。