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橋爪大三郎『愛国心の根拠は何か』の根拠を問う【Kotaro Matsuo 】
http://www.asyura2.com/0601/dispute24/msg/637.html
投稿者 ワヤクチャ 日時 2006 年 10 月 29 日 22:22:49: YdRawkln5F9XQ
 

(回答先: 「愛国心」どうやって教えるの? by はりうたかし【教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会】 投稿者 ワヤクチャ 日時 2006 年 10 月 29 日 22:10:31)

橋爪大三郎
『愛国心の根拠は何か』
の根拠を問う【Kotaro Matsuo 】
http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/E/E47.htm

■ はじめに
東京工業大学の橋爪大三郎さんが教育基本法改正の動きを批判する論稿を書かれた。『論座』(朝日新聞・2003年9月号)所収、『愛国心の根拠は何か』である。原稿用紙20枚足らずの小品ながら、実に、ラディカルで手堅い論稿。私は、『言語ゲームと社会理論』(勁草書房・1985年)以来、橋爪ファンであり、実際、私のウィトゲンシュタインと構造主義の理解は彼の影響を少なからず受けている。当該の『愛国心の根拠とは何か』には、しかし、私は全面的には同意することはできなかった。『愛国心の根拠とは何か』はその扱われている思索の射程内ではパーフェクトかもしれない。けれど、その射程を越える重要な事項があるのではないか。

蓋し、橋爪さんが愛国心の対象として措定される国家の概念が私には狭すぎるように感じられた。愛国心の対象は文化とも民族とも原理的に疎遠な人為的な国民国家に限られるものだろうか。もしそうなら、愛国心を涵養する愛国心教育とは橋爪さんが喝破されるように「政治的国家に関する教育」、即ち、「民主主義の教育」に他ならなくなるだろう。そして、日本の文化伝統を中核とした愛国心なるものを涵養すべく教育基本法を改正するなどは、愛国心の育成という教育政策の目的からは「本質を外れている」という橋爪さんの主張も肯定されなければならなくなる。畢竟、『愛国心の根拠とは何か』の妥当性の根拠は、国家の概念に収束する。以下、『愛国心の根拠とは何か』を要約紹介したうえ、国家の概念について私見を整理し、もって、『愛国心の根拠とは何か』の根拠を吟味したい。では、参ります。


■『愛国心の根拠とは何か』の要約紹介
東京工業大学大学院教授・橋爪大三郎『愛国心の根拠とは何か』は、『論座』(9月号)の特集「フォーラム 愛国心って何だろう」の巻頭論稿である。同稿は、副題「個人と国家の関係をとらえ直す」を冠し紹介の文章を伴っている。即ち、「「愛国心」という言葉は、いろいろな意味や感情を込めて語られる。だから、それは、つかみどころのない、えたいの知れないもののように映る。元来、愛国心はどこから発したのか」、と。以下、本編を要約紹介する。

愛国心は、近代国民国家の成立とともに始まった。
大革命の結果、フランス共和国が成立した。その武力は、絶対王政下の傭兵というわけにはいかず、徴兵制にもとづく国民軍となった。自由という価値(イデオロギー)のために戦う、近代的軍隊の誕生である。自由に価値を置き、その自由を保障してくれる国家のために、命を投げ出す。自由を享受することと、税金を納め兵役につくこととは、いわば引き換え(契約の表うら)になる。自国のために戦う兵士たちは、自国の掲げる理念へのコミットメント、すなわち、愛国心がなければならない。(中略)しかし、フランスで徴兵制が可能になったのは、アメリカ独立戦争の経験を参考にしたからではないかと思う。(9頁上段)

今日、国民軍や愛国心の存在は、当たり前にもみえる。
けれども、そうしたものは、なかなか生まれにくかったということを理解しておくべきだろう。国家は、人為的に構成された、あくまでも世俗的な団体である。それに対して、人びとが信奉する価値は、伝統的なものや、宗教的なものであろう。要するに、国家とは関係がない。国家が理念を掲げたり、国家の理念に人びとが一体感を感じたりするというのは、むしろ、不可解な現象なのだ。(9頁下段)

愛国心は、個人が、公共的なものにいかに関わるかという問題だ。(中略)「公共」という場合、人びとの関係はいわば他人同士(違う家族の人びと)である。だから、言論によって意思疎通したり、法律・貨幣・契約・制度などによって互いの関係をつくり出したりすることが、「公共」の場では大切になる。(10頁上・下段)

人びと(人民)が自分たちの政府を組織している状態は、尊敬に値する。人びとは、このことを誇りに思うだろう。愛国心が、もしも根拠を持つとしたら、それは、この国の政府は自分たちが組織したのだという点にもとづく以外にないと思われる。近代国家は、世俗の国家である。単に自分がそこに属するからというだけでは、国家を愛する理由にはならない。(11頁上・下段)

そこで議論になるのは、いったいどの範囲の人びとが、政府を組織し、国家を構成すればよいのかという問題だ。これには解答がない。フランスはなぜ、フランスなのか。ドイツはどこからどこまでなのか。現在、地上にさまざまな国家が存在するが、多くが分離独立運動を抱えている。国家が国民をうみ出し、国民が国家をつくり出す。この関係は、ニワトリとタマゴのようなものである。現実には歴史の偶然によって、個々の国家が生まれるほかなかった。(11頁下段)

だが国家は、まったく恣意的に生まれるとも言えない。
多くの国家は、実際には、人種や民族や、文化や伝統や、言語や宗教やといった、人びとの同質性や特殊性を基盤にして形成された。あるいは、伝統的に存在した前近代国家を再組織するかたちで、形成された。このため、多くの国家は、公共サーヴィスを行うという世俗的な役割のほかに、民族や文化や伝統などの具体的な内容をともなう「共同体」としての色彩を受け継ぐことになった。(11頁下段)

国民が、自分たちの国家を肯定しようとする運動が、ナショナリズムである。(中略)
ナショナリズムは、国民国家ならかならず必要なものである。いっぽう、具体的な内容(民族や文化)をともなったナショナリズムは、害悪をもたらす可能性が大きい。なぜならそれは、少数者を排除し、差別や迫害の標的としがちだからである。(11頁下段−12頁上段)

プレ近代から近代に移行する時期の日本の驚くべき点は、日本の存在(日本人の存在や領土の範囲)が自明とされ、疑われなかったことである。(中略)明治維新が成功したのは、天皇をシンボルとして用いることができたのが大きい。天皇は、日本のナショナリズムに、具体的な内容を(民族主義、伝統主義、文化的優越主義、・・・)を与えることになった。そして構成された国家は、まったく世俗的なもの(丸山眞男のいう中性的国家)ではなしに、共同体的要素、宗教的要素を含むものとなった。(12頁下段)

ナショナリズムに、具体的な内容を盛り込めば盛り込むほど、その内容を引き受けられない人びとに対する差別を、必ず帰結する。アメリカの掲げる「自由」(そのもとで個々人の多様性を許容する)は、そうした差別をうまない、いまのところ最善の工夫のひとつである。(13頁上段)

歴史や文化を教え、日本人としてのアイデンティティを育む教育をしようと思うなら、同様に、日本人でない日本社会の構成員の歴史や文化も、教えなければならない。(中略)多文化主義で補完しなければ、日本人のアイデンティティは偏ったものとなってしまう。(中略)これらのこととは異なったレヴェルに、政治的国家に対する国民の関係があるということを、学校教育ははっきり教えるべきだろう。政治的国家に関する教育とは、わかりやすく言えば、民主主義の教育である。(13頁上段・下段)

愛国心が大切だと、スローガンのように叫んでも、なんの意味もない。教育基本法を改正することも、問題の本質を外れている。大事なことは、「公共」の新たな概念をもとに、個々人と政治的国家の関係をとらえ直すことであり、それに基づいて、民主主義をきちんと教育することである。(13頁下段) 以上引用紹介終了。


■『愛国心の根拠とは何か』の根拠は妥当か?
近代国民国家は、須らく、人為的な国家に過ぎず、それは個々の諸国民にとって、国家内の社会生活に参加し、国際政治というゲームに参加する際に必要な<チーム>や<チームのユニフォーム>に過ぎない。而して、ある人が(もちろん、受け入れ先のチームがあるという前提付きではあるけれど、)、「来年は現在のチーム(例えば、日本)ではなく、好条件をオファーしてくれる別のチーム(例えば、米国)でプレーしようと」考えることも、近代国家とその国民の間ではなんら問題ではない。否、国民の概念自体が、人為的で世俗的な近代国家の成立と同時に(一枚のコインの表とうらの関係として、)、誕生した。大革命が産み落としたフランス共和国やプロイセン主導のドイツ帝国の成立までは、一人のフランス人も一人のドイツ人も地球上のどこにも存在しなかったのである。畢竟、ある任意の近代国家の正規メンバーが当該国家の国民であり、また、当該国家とはその国民が形成する共同的な幻想や共同的な法体系の観念に他ならない。橋爪さんの『愛国心の根拠とは何か』が基盤を置くであろうこのような国家観と国民の概念に私は全面的に賛同する。

しかし、橋爪『愛国心の根拠とは何か』には国家と国民の関係につき、私は、2重の意味で過度な単純化の弊害を見出すのである。即ち、人為的で世俗的な近代国家はその苗床となった「前近代国家」の影響を完全には払拭できないのではないか。そして、もし近代の国民国家が「前近代国家」に憑いている民族的・文化的・伝統的な要素を少なくとも法律や行政の部面においては完全に払拭できたとしても、そのような人為的=人工的な国家も時間の経過の中で他の諸国民に対しては、一種、特殊で独特な民族的・文化的・伝統的な要素(共同体的要素)を帯びる<共同体>に変容してしまうではないか。そのような変容の進行は(例えば、アメリカ憲法が物神化しているとしか思えない現在のアメリカ合衆国を想起すれば、)不可避であり、神ならぬ身の人間には押し止めることはできないのではないか、ということである。


■ 人間は人為的国家という枠組みに収まりきれる存在ではない
20年近く昔のことだけれど、同志社大学で行われたあるセミナーの懇親会で橋爪さんとご一緒したときに、橋爪さんの言葉で今でも印象に残っているものがある。即ち、「完全な自動翻訳機ができるとしたら、天皇制はなくなるでしょうね」、と。私はこの命題の真偽については今でも結論を出せないでいるけれど。民族の文化や伝統なるものが、煎じ詰めれば、民族の構成員の行動の傾向性の中にしか存在せず(例えば、正月になれば神社にお参りにいくとか、男の子が産まれたら5月5日には鯉幟を立てるとか、)、その行動の傾向性を担保しているものは言語が媒介する世界観や世界像に他ならないことまでは正しいと思う。ならば、ある言語を(例えば、日本語)をあるアルゴリズムに従って完全に他の言語(例えば、北京語や英語)に移行できたとするならば、日本語が形成している日本人の世界観や世界像もまた北京語や英語が各々形成している世界観や世界像とコンパチブル(共約可能)ということであり、日本文化の核心たる天皇制も自動翻訳ソフトのアルゴリズムの上では特別な要素ではなくなり解消して行くことになる。まあ、このような帰結も、満更、荒唐無稽ではないのではないか。もちろん、橋爪さんが「完全な自動翻訳機ができるとしたら、天皇制はなくなるでしょうね」という言葉で本当は何を仰りたかったのかは不明だけれども。

完全な自動翻訳ソフトの開発は可能か? 私は、実は、かなり懐疑的である。その理由は、いたってシンプル。言語は常に変化していること(しかも、総ての部分が他の全体と相互作用を繰り返しながら常に変動していること)。また、完全な翻訳か否かを判定するのは人間でしかないのに、言語は1個の人間のキャパを遥かに超えた有機的な統一体であり、生身の人間にはその翻訳の正しさ(というか、翻訳アルゴリズムの能力)を判定することができないことである(その点、円周率を小数点以下50億桁とか500億桁までコンピューターが計算で求めた成果の判定とは事情は全く異なる)。言語の恒常的な変化と言語が判定者たる人間存在のキャパを超える存在であること、これが「完全な自動翻訳機ができるとしたら、天皇制はなくなる」という命題の真偽に私がいまだに結論を出せないでいる理由である。

言語が自生的な存在であり変転極まりないものだとするならば、ある言語が最終的に担保しているある民族の世界観や世界像もまたそうなのではないか。蓋し、前近代の国家の共同体的要素や、ある人為的国家に時間の経過と共に憑依する共同体的要素を、国家=国民という近代国民国家の教科書意的な理解で否定し尽すことは不可能である。私はそう考えている。畢竟、人間存在は人為的国家という枠組みに収まりきれる(一旦収まったからといって未来永劫そのままであり続ける)ような存在ではないのではないか。


■『愛国心の根拠とは何か』の教育基本法改正論批判は妥当か?
私は、橋爪さんの立論に半ば賛成で、半ば反対である。
国家が世俗的存在を超える共同体的な要素を払拭できないにせよ、近代国家が人為的国家として前近代国家を苗床にしながらもそれを再編しそれを超える存在として形成された経緯は尊重されるべきである。人類は、その生産力と生産関係の二重の発展段階において、かつ、対自然関係・対国家関係・対国際関係・対社会関係というエコシステムの総ての領域で、最早、前近代国家が提供するような社会関係と人間関係では対応できなくなっていることは否定できないだろう。ならば、法と行政の主要な部面において民族的要素・文化的要素・伝統的要素を消去(することは無理としても、)や軽減することは不可避であろうし、公共的サーヴィスを行う国家権力を国民自らが形成し運営しているという経緯(支配の自同性)にも国民の一体感の根拠を求めることは妥当であろう。これが、橋爪さんの立論に私が半ば賛成すると記した所以である。

私は、民族的要素・文化的要素・伝統的要素が軽減されるのが適当な「法と行政の主要な部面」として、所謂、人身の自由、思想良心の自由、表現の自由、経済的自由という<国家からの自由>の領域を想定している。国家の政策や方針の決定に関わる参政権や国家のサーヴィスを受ける権利たる社会権は除くということである。何故か。私は、橋爪さんとは異なり、近代国家が完全に人為的で世俗的な国家になることは不可能であると考えているからである。ならば、支配の自同性とともに日本の民族的要素・文化的要素・伝統的要素を加味した2重の契機による国家権力の正統化と正当化が、現実的なだけでなく政治思想的にも妥当な方途であると思う。而して、国家は、<便宜的なチーム>や<ゲームに参加するために必要なチームのユニフォーム>であると同時に、民族的要素・文化的要素・伝統的要素という共同体的要素を孕んだ<運命共同体>でもある。そして、参政権や社会権の主体をこのような<運命共同体の成員>に限定することは、世界のどの国からも批判されることではないと私は考える。蓋し、橋爪大三郎『愛国心の根拠とは何か』に私は半ば反対せざるをえないのである。

自動翻訳ソフトの例で説明した通り、国家なるものが人為的国家や世俗的国家に完全になりきることに橋爪さんと違い私は懐疑的である。現在のエコシステムの発展段階においても、結局、国家は人為的であると同時に自生的な2重人格者的存在であることを止めることはできないのではないか。また、近代国家の諸国民は、ある国家で支配の自同性が貫徹されているからといって、当該の人為的国家のメンバーであることにだけプライドを感じ、アイデンティティーの根拠を見出すことは難しいのではないか。ならば、日本人以外の日本社会の構成者(日本市民)に対して、教育においても多文化主義的な視点から行政の支援がなされるべきことは当然であるけれど、他方、「日本は、日本の伝統と文化に価値を置く日本人がマジョリティーとして支配する国である」という認識を日本市民が持ち、日本市民の子女に公教育を通して教育することは、世界のどの国からも、豪も、批判されることではないと私は考える。

結論を書く。『愛国心の根拠とは何か』の教育基本法改正論批判は妥当か。私は、人為的国家の一員としてのプライドを涵養するという愛国心教育の契機は重要だと思う。その点、橋爪さんの言われる「政治的国家に対する国民の関係があるということを、学校教育ははっきり教えるべきだろう。政治的国家に関する教育とは、わかりやすく言えば、民主主義の教育である」に私は全面的に賛同する。けれども、このような民主主義教育と並んで、日本の民族的要素・文化的要素・伝統的要素への帰属意識や一体感を涵養する教育もその重要性は否定されないのではないか。近代国家の苗床としての「前近代国家=日本」を愛する心は、人為的国家を愛する心とは異なる意味でその意義を失わないと考えるからである。蓋し、2つの愛国心教育。否、2重の愛国心教育を現在の日本社会は希求しているのではないか。下記の愛国心教育のタイアップである。即ち、

愛国心T(人為的国家=日本の一員としてのプライドを涵養する民主主義の教育)
愛国心U(伝統的共同体=日本の運命共同体の一員としてのアイデンティティーと
      プライドを涵養する日本文化・伝統・歴史の教育)

大東亜戦争後の日本の戦後民主主義教育は、教育における戦前の「民族的要素・文化的要素・伝統的要素」の残滓や侵入を激しく批判するもののようでありながら、橋爪さんが喝破されたように、それは民主主義(言語と法と契約と制度を媒介としたディスクールを通しての合意の形成)とは異質な<共同体>を志向するものに過ぎないと私も思う。畢竟、大東亜戦争後の戦後民主主義は、世界の中で戦後の日本社会でしか通用しない特殊な意味での「自由」と「平等」、「平和」と「民主主義」に共感するグループの中でしか説得力を持ちえない、「異質なものを排除」する<共同体的な世界観>だったのだろう。また、戦後民主主義が跳梁跋扈し猖獗を極めた時期に形成された戦後民主主義的な教育観はその純粋結晶に過ぎない。ならば、橋爪『愛国心の根拠とは何か』は、ある意味、戦後民主主義的な教育観に対するラディカルな批判なのではないか。私は、その戦後民主主義批判の点において橋爪大三郎さんの主張に激しい共感を感じている。

★参考文献
国家と国民の関係につきましては下記の拙稿を併せてご一読いただければ
嬉しいと思います。

●外国人がいっぱい
●揺らぎの中の企業文化
●朝日新聞批判/2001年夏 靖国と歴史教科書
●民主主義とはなんじゃらほい


また、愛国心の教育、ならびに、教育基本法改正に関する私の基本的な
考えにつきましては下記の拙稿をご参照ください。

●ゆとり教育路線批判 寝言は寝て言え<文部官僚>

作成後追記
本エッセーアップロード後、本稿および橋爪さんの主張につき、日頃私が尊敬しているある方からコメントをいただいた。機械計算課長様である。下記はそのコメントに対する私からの回答である。本編の主張をいくらか敷衍していると思ったので収録する。尚、機械計算課長様からの投稿および回答の出典は、弊サイト第2掲示板(ディスクールde道場破り)です。


◆橋爪大三郎『愛国心の根拠は何か』は健全で手強い 
 投稿者:KABU  投稿日:10月 8日(水)16時12分

>課長老師さま

投稿「橋爪大三郎」(投稿日:10月 7日(火)22時09分)有難うございました。老師の橋爪批判の4点に私は共感いたしますが、しかし、正直、それは橋爪さんの論旨には掠り傷程度のダメージしか与えないのではないかと思いました。正直、老師の投稿を読むにつけ、橋爪『愛国心の根拠は何か』侮り難し。流石、日本の現役では最高の社会思想家・橋爪大三郎の思索は凄いと益々感じたしだい。怖いよー。と、ビビッテいてもどうしようもないので、老師の批判に橋爪さんに代わって応えることで、拙稿「橋爪大三郎『愛国心の根拠は何か』の根拠を問う」の論旨を敷衍させていただきます。

老師が提供された橋爪批判の論点は下記の4個でしたよね。即ち、
(1)橋爪論稿の射程は西欧型国民国家までしかカバーしていないのではないか
(2)実際に国民が自分たちが作ったという認識を生まない憲法は権威があるか
(3)イデオロギーというものは少数者を排除し、差別や迫害の標的としがちだ
(4)日本人でない日本社会の構成員の歴史や文化を教えることの必然性と妥当性

前の2者は橋爪『愛国心の根拠は何か』には過度なクレーム(要求)ではないかと私は考えます。それは、私がしばしば使用する「論議の抽象度」というものに関わるのですが、西洋型にせよ旧西洋諸国の植民地型や旧社会主義諸国型、あるいは、我が日本の国家を考究する場合、西洋型以外の国家を近代国民国家であるという側面から(その側面だけを)検討することは何ら論理的に問題ではない。問題は、その限定した考察に特殊歴史的な諸国家の性質を<密輸>することではないでしょうか。しかし、橋爪さんはキチントその論議の抽象度に目配りしつつ、豪も、西洋に特殊な問題を一般論に密輸などされていないと私は思います。橋爪さんが持ち出されているフランス共和国の成立やアメリカ合衆国の独立の事情は、近代国民国家に普遍的な性質がいかなる歴史的特殊性(要は、偶然ですよね。)に源泉しているかの説明ではあっても、近代国民国家に普遍的な性質をそれらによって根拠づけておられるわけではない。ならば、日本の文化や伝統を持ち出して近代国民国家の論理的な拘束力を拒否あるいは相対化する企ては橋爪『愛国心の根拠は何か』への過度なクレームである。私はそう考えるのです。

論議の抽象度とは、例えば、団体で行われる球技全般について、「団体球戯の性質」や「団体球戯における各プレーヤーの役割」、「プレーヤーや監督、コーチの育成方法」を論じるここと、個別、ベースボールやサッカー、ラクビーやハンドボール、テニスやバトミントンのダブルスについてその競技の性質等々を論じることは「抽象度」が異なるという認識です。個別の球戯の話は、団体球戯一般についての話の例にはなり得ても、それらの抽象度の異なる議論は他の抽象度の議論を単純には(一度、他のレヴェルの議論に翻訳されない限り、)、サポートもリジェクトもできない。私はそう考えるのです。

畢竟、近代国民国家が国際関係のプレーヤーになって以降(グロチウスの預言した国際法秩序がこの惑星を覆って以降、)、国家は「近代国民国家」のユニフォームを着なければ国際関係において存在しないも同然な状態になった(そう、透明人間としての近代的な国民なるものが、近代国民国家という衣服をきて初めてその存在が他者に確認されるのと同じ現象でありましょうか)。そして、近代国民国家とは外に対しては独立不可侵の主権であり内に対しては最高独立の主権でありましょう。蓋し、近代国家が構成する国際法秩序の成立と最高独立の国内法秩序の体系としての国家主権の成立は1個の楯の両面の関係であり、それは、論理的には同時に生じた。これが、私の尊敬するハンス・ケルゼンが断片的に説いた「国際法−国内法一元論」の真髄ではないかと私は考えています。即ち、非西洋型国家といえども近代国民国家の論理的な拘束力からは逃れられないのではないか、と。

また、「国民が自分たちが作ったという認識を生まない憲法は権威があるか」というご指摘も、この論議の抽象度を鑑みれば橋爪『愛国心の根拠は何か』に致命傷を与えているとは言えないのではないか。現行憲法がたとえ他国から押し付けられた憲法であるとしても(そんなん明らかやないか♪)、橋爪さんが論じておられるのは、支配と非支配の自同性(ruler とruledが同じ日本国民であるということ、)が憲法規範の内容に組込まれているという経緯についてであり、憲法の歴史的や社会学的な成立事情についてではないからです。


私は老師が抽出された橋爪批判の論拠(3)と(4)は妥当だと思います。特に、(3)「イデオロギーというものは少数者を排除し、差別や迫害の標的としがちだ」こそ、即ち、近代国民国家が前近代国家から引き継いだ民族的や伝統的な内容を核とするナショナリズムに限らず、自由や平等や多文化主義という価値(イデオロギー)も、少数者を排除し差別や迫害の標的としがちではないのか、これこそ私の「橋爪大三郎『愛国心の根拠は何か』の根拠を問う」の主張の核心であります。蓋し、人為的国家が時間の経過の中で1個の伝統化していくに伴なって(最初は単なる岩石や山塊に「魂が宿り」御仏の姿として人びとに認識されていくように、)、<少数者排除の排除のイデオロギー>自体も、ある少数者に対しては差別と迫害をもたらすイデオロギーに変容していくのではないか。私はそう考えています。

けれど(4)「日本人でない日本社会の構成員の歴史や文化を教えることの必然性と妥当性」に関しては、逆に、橋爪さんから「ではKABU君。君の対案は」と聞かれたら困る(汗)。橋爪さんから、「では、多文化化の傾向を益々加速しかねない日本社会でいかにして日本国民と日本国民以外の構成員を国家の権威と秩序に統合していくのか」と聞かれたら困る。尊皇攘夷? 否、多文化化の停止=鎖国? どれも現実的とは思えない。ならば、悔しいけど、<自由>に価値を置くアメリカ化しかないのかね。トホホ。トホホ、です。橋爪『愛国心の根拠は何か』侮り難し。


◆「民主主義」の同床異夢 投稿者:KABU  
 投稿日:10月10日(金)19時35分

>課長老師さま

(前略)で、橋爪さんの(「民主主義」をどう理解するかという)真意。これは私にはわかりません(笑)。しかし、一つ言えることは、橋爪さんの念頭にある<民主主義>は、戦後民主主義者が撒き散らしたり、教育基本法に書かれているような、(甲)共同体的で、予定調和的に平安と平和と融和をもたらす「民主主義」とは全く異なると思います。彼の考える民主主義は、(乙)疎遠な他人同士が、やらないでいいなら誰もやりたくないよなという気持ちで行う議論の中で、闘争の目的や競争のルールさえ漸次整えるしかないという悲観主義的なものであり、かろうじて、消去法的にその正当性が見出されるかもしれないもの。かつ、全く成功や融和を約束しない<民主主義>だと思います。そう、(甲)現世利益的な民主主義ではなく、(乙)浄土/浄土真宗的な民主主義ではないでしょうか。

あと、これも自信ないのですが、橋爪さんは「構造主義者」でも「ポスト構造主義者」でもないと私は思っています。プロ棋士にとっての将棋の戦法と同じで、その局面局面で有利な戦法を選ぶ。その戦法オプションの中に、構造主義もまあ入っているだけ。という感じなのではないでしょうか。私が、分析哲学や現代解釈学を多用するが、多分(?)その基盤という意味では、やっぱ、マルクスとカントであることからの我田引水かもしれませんけれどもね(苦笑)。(後略)

平成15年10月10日 武州新百合ヶ丘にてKABU収録。
当時16歳だった高校生を誘拐し殺害した事件の判決言渡しにおいて、
前橋地方裁判所で久我泰博裁判長が、傍聴席にいる被害者遺族に対して
「国家が死刑判決を出すのはたいへんなことなのです。(死刑でなく無期判決を言渡した
のは)納得できないでしょうが、納得してください」と言い放った翌日。

作成後追記(2)


「言論の自由」の意味を履き違えているとしか思えない投書を朝日新聞で見かけた。義憤にかられ、批判する文章を書きメルマガ『社会批判通信by海馬之玄関』で配信した(平成15年10月15日)。本編で考究した「民主主義の意味」を敷衍する上で便利と思いここに収録する。尚、本日、『週間金曜日』に掲載されていた、河合隼雄さんと森巣博さんの対談、「激論 なぜいま「心のノート」なのか」を検討するエッセーを書いた。というか、森巣さんの発言に濃厚に漂う戦後民主主義の腐臭を批判したもの。橋爪大三郎さんの「愛国心論」を理解する上でも有効と思う。是非、本編とあわせてご一読をたまわれば大変嬉しいです。『週間金曜日掲載、森巣博「心のノート」批判を検討する』。以下、メルマガの収録。


●喜寿の会社役員に「言論の自由」の意味を錯覚させる戦後民主主義の害毒
▲「言論の自由」の意味の戦後民主主義的な改竄

平成15年10月15日、朝日新聞の『声』欄に大東亜戦争後の戦後民主主義の害毒を痛感させる投書が掲載されていた(東京本社版)。77歳の会社役員の方の投書、「物言えば・・・にしないために」である。この静岡県伊東市の大旦那曰く、(以下引用)

憲法が言論の自由を保障していても、世の中は、そうはいかないことがある。拉致問題についての論評がそれだ。(中略)北朝鮮をたたくこと以外、タブーだ。そんな雰囲気が、テレビのワイドショーなどを中心にみなぎっている。(中略)北朝鮮の立場を少しでも配慮しようものなら、すさまじいバッシングに遭う。それこそ「爆弾を仕掛けられても当たり前だ」などと攻撃される。わが国では今、拉致問題については「物言えば唇寒し……」の状況にある。

戦前、日本には多くのタブーがあった。それが国民を不幸にした。今また同様のことが起こりつつあるのではなかろうか、とさえ思うほどである。たとえどのような発言であろうと、脅して抑えることは民主主義に反する。朝日新聞には、言論の自由を守るために、タブーに果敢に挑戦してもらいたい。(以上引用終了)


私は、広い意味の「教育業界」で世過ぎ身過ぎしてきたが、この投書を読んで、「なぜ、朝日新聞が大学入試問題に最も出題されるか」が解ったような気がした(笑)。うんにゃ、笑い事ではない。そうなのだ、受験生に、この投書を与えて、「投書子が考える言論の自由と民主主義について、その誤りは何か。そして、それはなぜ誤りと言えるのか」という問いさえつければ、自動的に良質の小論文問題が、京都は北白川の「餃子の王将」で炒飯と餃子をたのんだより手早く、<はいよ、一丁あがり>になるではないか。これオイシイよな。有難う77歳の投書子さん。サンキュー、朝日新聞、である。

けれど、喜んでいられるのは(?)、業界人としての私だけであり、一人の日本人としては(喜寿の投書子はさておき、)、このような政治哲学的にはボロボロの投書を全国紙の東京本社版に掲載した朝日新聞には怒りを禁じえない。朝日新聞よ、77歳の投書子を世間の物笑いの種にしてそんなに嬉しいか。それとも、朝日新聞よ、本当に、言論の自由とは「誰もがどんなことでも発言することが許される権利」と考え、また、「どのような発言であろうと、脅して抑えることは民主主義に反する」と本気で考えているのか。もし、前者なら悪趣味だし、後者ならここに戦後民主主義の害毒を読み取ることができよう。まあ、その両方かな。と、前書は冗長だが、結論はシンプル。即ち、タブー、言論の自由ならびに民主主義の戦後民主主義的なバイアスの指摘である。


伊東の会社役員の大旦那、「戦前、日本には多くのタブーがあった」とはなにですか。旦那は、「少なくとも最近までは、戦後の日本にはタブーはなかった」と仰られたいのですかね。旦那ね、人類史の中で「タブー」(社会的禁制)のない社会があったら教えてくだしゃんせ。そう、「それが国民を不幸にした」かどうかに関しては(少なくとも、不幸にした主要な原因の一つであるかどうかに関しては)、私は疑問を持っているが、戦前の日本にもタブーはあっただろう。しかし、三矢研究、栗栖統幕議長辞職、あるタイプの少年犯罪の実名報道自主規制、等々。大東亜戦争後の日本にも凄まじいタブーが存在し、それは、間違い無く国民を現在完了進行形で不幸にしているのではないか。少なくとも、そう感じている日本人が少なくないことは、旦那、文章書くんならね、それくらい意識した上で書かなあかんかったんちゃいますやろか。もう、喜寿にもならはってんやからね。これがタブーの誤謬。で、有名な「朝日新聞を叩く掲示板」で読んで盗んだ中山さんの芸を拝借。

今売り出し中の「一人劇場」
「だからオレ言ってやったんだよ。お前ざけんじゃねぇぞぉ、「タブーのない社会なんかない」なんて、そんなこたあ1960年代後半の文化人類者でも知ってたことだぞって。そしたらさぁそいつが言ったんだよ、『お客さん、オレたちの頭はコミンテルン段階なんです、無茶言わないでください』って。オレしばらく暗―くなって落ち込こんじゃったな」


この77歳の会社役員の「言論の自由」と「民主主義」の理解は間違っている。それは、年齢に似合わず、純真な処女のような(こんなん、渋谷や池袋では、トキの如く絶滅して久しいが、)、ナイーヴで文学的な幻想=戯言に過ぎない。旦那、言論の自由は、原則、国家に対する権利です。だから、国家権力ではない、私人間でも(もっと正確に言えば、「市民社会」の中でも、)、「誰もが何を言っても許される」などという朝日新聞少年少女児童合唱団の謳う詞の内容のごとき命題と現行憲法が規定する言論の自由とは縁もゆかりもござんせん。市民社会内部での言論抑圧が「言論の自由」の侵害となるのは、ひとえに、@憲法の言論の自由の価値が民法の不法行為なり、刑法の脅迫罪という法律・政令レヴェルの法規範の法益にインカーネートする場合、あるいは、A立法と行政の不作為が、上記@で述べた、法律・政令レヴェルの法益を侵害すると同程度と認定される場合に限られます。

畢竟、国家権力による直截な抑圧でない場合、憲法上の言論の自由は、法律・政令に反する(あるいは、法律・政令に反すると同程度の)抑圧に対してのみ意味を持つのです。「法律に反しない限り、誰もが何を言っても許される。ゆえに、どのような言論に対しても誰も法律に違反して妨害することはできない」というのが憲法的な言論の自由の真髄でありましょう。「言論の自由は大切だが、誰もが、満員の劇場で「火事だ」と叫ぶ権利は持たない」というある米国元最高裁判事の有名な箴言は、この経緯を、言論の自由の主体の側から眺めた言葉ではなかったのでしょうか。

「法律に反しない限り、誰もが何を言っても許される。ゆえに、どのような言論に対しても誰も法律に違反して妨害することはできない」ということは、誰も他人の意見を聞く義務も義理もないこと、ならびに、誰もが法律に反しない限度において、誰の言論に対しても反論し攻撃する権利を持つことと同値です。

だからね、北朝鮮贔屓の静岡県伊東市の会社役員の77歳の投書子さん。北朝鮮擁護の発言に対して、世間の多くが嘲笑侮蔑こそすれ耳を傾けず、あまつさえ、そのような発言は批判され攻撃さえしかけられるのは(その批判や攻撃が法律に反しない限り)、言論の自由への挑戦ではなく、批判者・攻撃者にとっては言論の自由の正当な行使であり、言論の自由自体のありようとしては、言論の自由が、彼の朝鮮半島つけ根の国とは異なり(私は、自国民の1〜2割を餓死させるような政治体制を近代的な意味での「国家」とは到底呼べないと思いますが、)、我が神州では正常に機能していることの証左なのですよ。

国家権力による赤裸々な言論弾圧は問題外の外として(例えば、大東亜戦争前の天理教への弾圧、等。)、市民社会内部においては、自己の言論によって、自らが攻撃され批判され侮蔑され嘲笑されるリスクを取る者の発言を、法律の規制を超える批判や攻撃から護ることが言論の自由の核心である。そして、そのような社会的なリスクを負った言論によって、今日の少数派が明日の多数派になる政治のダイナミックスを担保することが(国民代表制と合体した後現在まで続く、)民主主義に他ならないのではないでしょうか。ならば、喜寿を迎えられた投書子の「唇寒し・・・」の認識とは異なり、現在は、民主主義の聞きでもなく、否、民主主義が我が神州においてやっと正常に機能し始めた時期だと考えられると私は思います。而して、貴殿が言論の自由や民主主義の危機と感じる同じ現象を私は言論の自由と民主主義の本来ある姿に過ぎないと見なす。これが、戦後民主主義の言論の自由の誤謬が貴殿の投書に見られると私が判断した根拠です。最後も「朝日新聞を叩く掲示板」で盗んだ中山さんの芸を再度拝借。

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「だからオレ言ってやったんだよ。お前ざけんじゃねぇぞぉ、そんな「言論には責任とリスクが伴なう」なんてこたあ小学校の学級会あたりで済ましておけぇって。そしたらさぁそいつが言ったんだよ、『お客さん、オレたち民主主義=戦後民主主義の結論と整合的な多数決のことって小学校以来日教組の先生に教わってきたんです、無茶言わないでください』って。オレしばらく暗―くなって落ち込こんじゃったな」

お粗末さまでした(笑)。

平成15年10月17日 武州新百合ヶ丘にてKABU記す。

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