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(回答先: この世が良くならないのは「贔屓による判断が横行する」からだ! 投稿者 考察者K 日時 2006 年 10 月 13 日 22:48:06)
考察者Kさん、こんにちは。
>メラビアンの法則と云うものがある。まあ、若干問題なども指摘されているが、それを信じるのなら「一般的社会においては、約7%程度の人しか、理論的判断力がない」と考える事ができる。 実に93%の人は「目(55%)」と「耳(38%)」で、人を評価してしまうのである。
最早ビジネスプレゼンテーション研修やHow to本の掴み(導入部)でしか使われなくなった“メラビアンの法則”を持ち出してきて、しかも牽強付会の解釈を開陳するとは笑止千万、まさしく未消化のまま反芻したものを吐瀉することに等しい所作です。
>しかし、同レベルの論客AとBの二人がいて「Aが好きだから、Bが間違っているに決まっている」というなら、それは間違っているだろう。同レベル論客ならAの正しい確率は2分の1であり、Aを贔屓する人は結果的には合っている可能性は有るが「Bの方が間違っているに決まっている」のではなく、たまたま「今回はAの方が正しかった」だけである。
なる程“メラビアンの法則”はA・I・D・M・Aの法則におけるAttention(注意)喚起とMemory(記銘)強化の方法に一定の方向性を与えるものかも知れませんが、少なくともそれが関係性の持続を前提とする“贔屓”にどう結びつくのかの説明にはなっていません。
>AとBのどちらの意見が正しいかは、内容の分析を行い、論理的に判断するべきであり、贔屓とか主観はできるだけ排除するのが正しい「判断の仕方」だろう。
>自己検証、自分を省みる、自己批判・・・言葉は何でも良い、問題は「中身であり」それを実行しているか、いないか、だけである。
どうして、当たり前のことを何度も繰り返えされるのか、非常に理解に苦しみます。この程度のIssueは個人の思索ノートの内に収めておくべきレベルのものでしょう。それよりも、既に新参者ではない考察者Kさんが為すべきは、何故人々が「自己検証、自分を省みたり、自己批判」することや「(成果を現実のものとするために)実行」することができないのかについて“考察”することではないでしょうか。その際、己の立ち位置を振り返ってみて視座を再構成することは当事者意識や当事者能力を涵養するものとして、ご自身の仮説・検証プロセスの進化と問題解決の方策や展望を拓いていくことにも繋がっていくと想われますが、如何でしょうか。
また、会いましょう。