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物証からは、古墳の形が、征服王朝だと言われる、大王をまたいで、つまり、年代を超えて、変わっていないことが、確認されてきたからです。
また、半島と列島を、またぐ形で、倭の広がりがあったことが、物証と、神話の分析などで、分かってきたからです(たとえば、鳥越健三郎)。
あるいは、列島における、文明の発達の調査が、進んできたからです(たとえば、遠山美都男)。遠山のまとめは、しかし、物足りないですが。
一方で、弥生人と、縄文人の関係も、単純ではなさそうです。
縄文人は、優秀な船乗りだったことは、考古学的に明らかになっています。大陸から、倭人がやってきても、船乗り達は、受身的な展開をせざるを得なかった、ということは、ありえないですね。対馬でさえ、縄文人は、倭人と、むしろ、融合したと考えるほうが、自然でしょう。
(半島の、南方系の主力は、辰を作り、後に、新羅を作ったと言われていますが、百済、高句麗など、北方系を駆逐することなど、できなかったのでした。済み分けと戦争、そして、融合、の繰り返しだったわけです。)