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(回答先: このような問題では徹底的に議論してもいいと考えています。そこからこれまでの社会とは違った社会の糸口がつかめます。 投稿者 縄文ビト 日時 2006 年 3 月 28 日 08:42:54)
縄文ビトさん、レスを戴きありがとうございます。
私は、私の体を道具のようなものだと思っております。
大切にすれば、長持ちします。
粗末に扱えば、それなりに不具合が生じます。
私の知らぬところで、呼吸をし、食物を吸収し、
それをエネルギーに代えてくださっているようです。
私は、自分の体を大事にしたいとは願いますが、
私の心は、それに反する行為をしたがるので、
体には負担がかかっているのだと思います。
私は、意識する自分と体は、別に動いているような気がいたします。
それは、説明できません、が、私の思い通りには動いてくれないのは確かです。
私は、自分の体を支配してるとは思えないのです。
従って、私の体は、私自身ではないような気がいたします。
ただ、長年連れ添った体なので愛着はありますが、、、
以上のような思いを持った人間なので、
縄文ビトさんとの会話が成り立つのか自信がありませんが、
私の父は他界いたしましたが、私の心には、生き続けております。
父と関わった全ての人々の中にも、少なからず記憶が刻まれているはずです。
そういった記憶が、脳だけに記録されているのだとは、
どうしても思えないのです。
なぜなら、私がここに存在している事は、あらゆるものに影響を与えていると感じるからです。
呼吸をしているだけでも、空気が動きます。
私の場所だけ暖かくなります。
目に見えない微生物も私の存在によって、別の場所に移動するのです。
意識が脳だけではなく、視角、聴覚、嗅覚、触覚、味覚で
変化するように。
自分の与り知らぬ存在によって日々変化させられている気がするのです。
さびしいという感情はどこから生まれるのでしょうか?
孤独とは、、、
さびしさを感じる事は、この世ではいけない事なのでしょうか?
私は、自分の体を友だと思っております。
だから孤独ではないのです。
ありがとうございました。