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(回答先: 私の理想の社会像(キーワードは地域コミュニティと自給自足) 投稿者 heart 日時 2006 年 3 月 28 日 11:42:38)
>私の理想とする社会においては、貨幣の持つ意味も変わってくるのである。
確かに替わってきます。貨幣は最終的には物もしくはサービス(人間の労働)との交換に向います。つまり現在利子等、金が金を生む現象は最終的には人間を追い詰めていくだけです。そこでは弱者が物価高騰(労働の限界性)の犠牲になるだけです。
>人工物は、作る人が意図するとせざるとにかかわらず、政治的意味を持ち得る。
商品を作る行為が大規模化していく中では、それに従事する者を経済的に縛れる。ということは政治的にも商品を作るものが従属させる力をも持つということです。
>すなわち、人工物は、特定の人々に権力・権威を与えることがある。また、社会に影響を与え得るものである。
>したがって、ある人工物を理想の社会において許容するか否かを考えるにあたっては、当該人工物がどのような影響を政治・社会に及ぼし得るかを、多角的に分析することが必要となる。
当然そうならなければなりません。
>それは、現代の非人間的な生産体制を生み出す一因となっている大量生産システムが、私が目標とする社会においては不要なものだからである。
>地域コミュニティ内での自給自足を基本とするということはすなわち、小さな地域コミュニティの中で経済活動が完結するということであるから、大量生産は必要ないのである。
小さな地域ということにこだわらなくてもという感じがしますが。基本となる「人間とは何か」ということの中で、大きなコミュニティでも自分だけよければというのではなく相手を思いやる心が芽生えれば,グロウバル社会においても充分機能するかと思います。自分さえよければという考え方がどういうものかということを理解すれば、人は他人を押しのけてまでという気持ちを捨てるのではないでしょうか。
>したがって、効率性の追求ということも、必ずしも要求されないのである。
効率性の芽生えは新石器時代からだと考えています。それまでの自然と向き合う狩猟採集経済から、効率を重視した農耕牧畜経済に入り、人間の共同体意識を破壊し現在社会まで来てしまった。
>私は効率性の追求を必ずしも否定するものではないが、効率性の追求によって犠牲にされてきたものの方が大きいと思うため、効率性には拘らない立場をとるものである
>個々の方策は別にしても、社会のあり方を根本から見直そうとすれば、中央政府がそれに向けた制度構築を行うことに賛成しなければならないし、民主主義政府であれば、国民の大多数がそれに賛同しなければならない。
これは、容易なことではない。
まず容易なことではないでしょう。それには理論を作っていくことです。そこからはじめるしかないと考えています。
>しかし、今の新自由主義的政策のあり方のままでよいかというと、決してそうではないだろう。
そして、この社会のあり方は、小手先の、対症療法的なやり方では変わらない。
>根本が間違っているのに、表面だけ繕っても、「病原菌」は取り除けない。
根本的な経済・社会システムの変革が必要である。
全体的に読ませていただきこのような文章が書ける人が阿修羅にいたということが驚きでした。