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私が理想とする社会は、人々が、一定のプライバシーは守られながらも、互いの顔の見える範囲内の小規模な地域コミュニティで生活をし、自給自足を基調に、マネーゲームなどに興じることなく堅実なモノ作りを行う社会である。
私が想定している小規模な地域コミュニティは、買い物や通勤・通学が徒歩あるいは自転車で可能であるくらい小さな町である。
住宅地から近いところに、パン屋、市場(イチバ)、スーパー、衣料品店、郵便局、銀行、病院、町役場があり、公害・騒音を発生させない工場もその近くにある、という配置がよいだろう。
そして、各コミュニティの間を電車または公共のバスで結ぶ。
車は、パトカー、消防車、タクシーだけとする。
車に依存した社会から脱却するのである。
私は、車は必要最小限にしか持たず、使わないことが必要だと思っている。
なぜならば、気軽に遠くまで行ける車があるせいで、地域の商店街でなく遠くの大型店に行く人が増え、結果、地域コミュニティが崩壊している、という面があるからである。
車の出現によって社会構造が変化してきているのである。
また、自動車会社のもつ政治力も大きい。
このことは、車がいくら燃料電池車に替わるなどして自然環境に対する悪影響がなくなっても、変わらない。
私は、車に依存せず、またその必要もない社会を作ることで、交通手段が発達する前には当たり前であったであろう小規模地域コミュニティを世界中に再生させたいと思うのだ。
また、私は自給自足を基本にすべきであると考えているが、地域によっては、自給自足だけでは生きていけないような自然環境の所もある。
そうした、自然環境上やむを得ない場合に限って、地域間で交易を行う。
しかし、地球の裏側にまで買いに行くのではなく、なるべく近場で調達するようにする。
こうした、やむを得ない事情による交易については、中央政府が当該地域の役所と協議の上責任を持って補助金を投入して行う。
小規模の地域コミュニティが乱立するものの、全体に包括的に目配りして、国民が住む地域によって生活水準が異なるというようなことのないよう、中央政府が面倒を見るというわけである。
そして、世界レベルでは、国連が、世界政府として、世界中どの国も住む地域によって生活水準が異なることのないよう、所得の再分配の役割を果たす。
つまり、世界政府は各国間で生活水準が同等になるよう調整し、各国政府は、自国内の地域コミュニティ同士の間で不平等が発生しないようにし、各地域コミュニティ内では、町役場のような役所が各地域内に住む人々の間で生活水準が平等になるようにする、ということである。
ここで私の言う「生活水準の平等(同等)」は、生活の満足度が同等である、ということである。
各地域が地域の特色、自然環境に沿った消費生活を送れば、消費する内容はおのずと異なってくる。
そうすると、各地域間で金銭に基づく所得の比較をしても、意味がなくなる。
私の理想とする社会においては、貨幣の持つ意味も変わってくるのである。
次に、マネーゲームに走ることなく堅実なモノ作りをする社会、ということであるが、このような社会を作るにあたっては、どのようなモノを作るか、どのような技術を用いるか、そして、どのような体制で生産するか、という三点からのアプローチが必要となってくると思われる。
まず、どのようなモノを作るべきかについて述べる。
私の描く理想の社会で作られるモノ、つまり人工物は、自然環境の資源を再生可能な範囲で用い、かつ、環境の浄化能力に挑戦することのないものでなければならない。
つまり、環境面で循環型の社会を構成するものでなくてはならない。
ある人工物が循環型社会に適合するものであるかどうかを判断するにあたっては、当該人工物のライフサイクルを考えるのがよい。
人工物のライフサイクルとは、人工物を作るための原料の調達、人工物の生産、流通、消費、廃棄あるいはリサイクル、という、商品の「一生」のことである。
ライフサイクルのどの段階においても自然環境に対し浄化能力を超える悪影響を与えず、自然環境のもつ資源を枯渇させることがないのであれば、その人工物は循環型社会において存在が許可される。
人工物に関しては、自然環境に与える影響だけでなく、人間社会に及ぼし得る影響についても考慮する必要がある。
人工物は、作る人が意図するとせざるとにかかわらず、政治的意味を持ち得る。
すなわち、人工物は、特定の人々に権力・権威を与えることがある。また、社会に影響を与え得るものである。
したがって、ある人工物を理想の社会において許容するか否かを考えるにあたっては、当該人工物がどのような影響を政治・社会に及ぼし得るかを、多角的に分析することが必要となる。
次に、堅実なモノ作り社会を築くにあたっての第二のポイント、つまり、どのような技術を用いるべきかを考える。
技術は、人工物を作り出すにあたって、また、人々が何らかの活動をするにあたって用いられるものであるが、人と人の関係にも、人と人工物の関わり方にも、また自然環境に対しても影響を持ち得るものである。
つまり、技術のあり方は、社会のあり方までも変え得るのである。
例えば、インターネットという通信技術の発達は、情報化社会を招来した。
技術の導入の可否を決めるにあたっては、それが社会に与え得る影響を慎重に考慮しなければならないし、技術がいかにあるべきか、ということも考える必要があるのだ。
堅実なモノ作り社会を作る上での第三のポイントは、生産体制のあり方である。これに関して、シューマッハーは、「スモール・イズ・ビューティフル」の中で、「今日の生産方法は工業社会に住む人間の人間性を蝕んでいる」と述べている。
現在の生産体制においては、ある人は来る日も来る日も生産ラインの一部のみを扱い、他方では、生産現場で実際に働いたこともない経営者が机上の議論で会社の経営方針を決める。
さらには、会社の生産物を見たことも触ったこともないような者がその会社の株の投機的売買を行う。
この生産体制においては、人間同士の有機的つながり、つまり、コミュニケーションは必ずしも必要とされないし、人間同士の相手への思いやりも必要とされない。
また、個々の人間は、会社を組み立てる部品のごとく、自分に割り当てられた仕事をしさえすればよい。
これは、物事を最初から最後まで自分でやることに喜びを見出す生き物である人間にとって、苦痛である。
このように非人間的な生産体制をいかにして人間的なものに変えることができるか。
この問題は、私が掲げている小規模の地域コミュニティを実現していく中で自ずと解決すると思われる。
なぜか。
それは、現代の非人間的な生産体制を生み出す一因となっている大量生産システムが、私が目標とする社会においては不要なものだからである。
地域コミュニティ内での自給自足を基本とするということはすなわち、小さな地域コミュニティの中で経済活動が完結するということであるから、大量生産は必要ないのである。
したがって、効率性の追求ということも、必ずしも要求されないのである。
私は効率性の追求を必ずしも否定するものではないが、効率性の追求によって犠牲にされてきたものの方が大きいと思うため、効率性には拘らない立場をとるものである。
以上で描写したような私の理想の社会が本当に理想的であるかどうかは今後研究の余地があるが、仮にこうした社会を実現しようとすれば、人々から多くの批判が寄せられることであろう。
なぜなら、私の案は、車社会、大量生産システム、効率性の追求といった、現代において前提とされ、また善とされている社会のあり方や価値観に挑むものであるからである。
例えば、車は世界で広く受け入れられており、車の存在はほとんど当たり前となっている。
その車を、作るな、使うな、使わずにすむ社会を作ろう、と言っても、なかなか受け入れられないだろう。
たわごとを言うな、と言って一蹴されて終わりかもしれない。
一蹴されなかったとしても、自動車業界からはかなりの圧力がかかるに違いない。
自動車業界からの献金を受けている政府からの政治的圧力もかかるだろう。
また、大量生産システムや効率性の追求ということになると、それらの放棄は現代の価値観の放棄に等しいといってよい。人々がこれまで信じ、依拠して生きてきた価値観をそう簡単に翻せるかというと、難しいだろう。
個々の方策は別にしても、社会のあり方を根本から見直そうとすれば、中央政府がそれに向けた制度構築を行うことに賛成しなければならないし、民主主義政府であれば、国民の大多数がそれに賛同しなければならない。
これは、容易なことではない。
しかし、今の新自由主義的政策のあり方のままでよいかというと、決してそうではないだろう。
そして、この社会のあり方は、小手先の、対症療法的なやり方では変わらない。
根本が間違っているのに、表面だけ繕っても、「病原菌」は取り除けない。
根本的な経済・社会システムの変革が必要である。