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(回答先: Re: 死後の個別性、本当に興味があるのは、そして、前進するには 投稿者 健奘 日時 2006 年 3 月 25 日 14:44:28)
健奘さん、失礼な言い方ですが、続ける気を失っていたのかと思っていました。私も少し続けたくなりましたので書き込みを入れさせていただきます。
>人々の、しかし、関心は、人の意識、認識活動が、死後、どうなるのか、どうなっているのか、ということなのでしょう。
>人の死後における、意識、認識活動を、観測したことが無いのですから、科学で論じる直接的な範囲ではないでしょうね。
>科学が、論じると言うのであれば、人が、”人の死後における、意識、認識を、どうとらえているか”を観察し、それを議論する、ということになります。
>すると、人々の、死後の考え方、見方を、標本(創価学会系の人々の見方も一つとして)のように集め、グループ化することになるでしょうね。昆虫の分類と、あまり、変わりはないです。
>こうした限界から、半歩、前に文明を進めるとすれば、意識、認識を、ロボットに行わせ、その内部構成を研究するのが、有力な候補なのでしょう。
幼児の言語獲得、その個性も含めた、現象を理解することも、かくして、進歩させることができると考えるわけです。
残念ですが上記の文章と私の考えはまるっきり違います。私の言っている個別性とは、知識以前のものであり、認識以前のものでもあります。つまり「我」という意味になります。哲学では「私とは何ぞや」「我とは何か」という意味になります。それが理解された時「人間とは何か」が理解されます。そこから観念論としての有神論に進むか唯物論に進むかという分かれ道に差し掛かります。当然現在では科学性(天文学・物理学・歴史学・人類学・文化人類学・社会科学・社会心理学・心理学・経済学・政治学等)が進んでおりますので(これらの基本にあるのは唯物論です)当然科学するということは唯物論の道をとります。そして不平等を論じようとするならば歴史観としての史的唯物論弁証法ということになります。
それはさておき「我」とは何かから考えてみてはいかがでしょうか。