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(回答先: Re: 死後 <−− ある対象が、どうしても、センサーにかからなくなったときに 投稿者 健奘 日時 2006 年 3 月 22 日 19:49:38)
>私の議論においては、ロボットを、人に置き換えてもらっても、良いのですが。
当然置き換えて考えていますが、何も人間の話をするのに置き換える必要性を感じませんでしたので。
>人を、突き放して見るために、ロボットを登場させて、話しをしていると考えてもらっても良いのです。人の脳は、プログラムであり、人の感覚器官は、センサーであり、人の感情は、プログラムのある状態として、見るのですね。
まず最初に断っておきますが、あくまでもロボットはある種の人間の思い道理に行動を取らせることの出来る奴隷と考えていいのではないでしょうか。それを人間に置き換えること自体人間をどう見ているのかと気がかりになります。ロボットに意思を持たせたら大きな間違いを起こすのではないでしょうか。そう思いませんか?.
>人が、学ぶ、ということに対応するのは、ロボットが、自分のプログラムを改版するということになります。そうです。ロボットは、自分が実行するプログラムを、自分で作るように、プログラムされているのです。
あくまでもロボットは使う人間の思い道理に行動させるプログラムであり、自身が勝手に行動を起こせるプログラムではありません。人間は各自,自身で行動を起こせるように教育されるわけです。ロボットは教育を受けるのとは違います。人間をプログラムして動かすという考え方はある種のマインドコントロールに繋がります。ここにロボットと人間を同一に考えること自体に大きな間違いがあると感じますが、いかがでしょうか。
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>さて、幼児は、認識の初期段階において、”在る物は、在りつづける”ことを、学びます。たとえば、電車のおもちゃが、トンネルに入ったら、しばらくすると、トンネルから出てくる事を、学びます。在る物が消えると、その探し方を学びます(ピアジェ、ネルソン)。
>ロボットは、センサーからの入力が、どのように展開するかを、自身のプログラムとして、作成します。たとえば、転がるボールを見れば、転がりつづける事、あるいは、止まる事、あるいは、衝立の向こうに行って、見えなくなれば、そのうち、衝立の反対側から見えるようになるか、そのまま見えないか、などを、学びます。学ぶということは、対象の展開をプログラムとして作成する事なのです。(筆者のプログラムは、そう動きます。)
>このように学ぶロボットが、ある対象に関するセンサー値を、どのようにしても得られないことが続いたとき、それを、単なる事実として、新たに、そういうこともあるのだと、プログラムすれば、”死”を、プログラミングしたことになるでしょう。
>あるいは、なんらかの方法で探せば、その対象と、コンタクトできるという、プログラムを動かしつづければ、どうなるのでしょうか?ロボットは、対象の、所謂”死”後も、対象を、なんらかの方法で、求めるということでしょう。
上記の文章、上に書きましたように人間の教育とロボットのプログラミングとは大きな違いがあります。
そこでもう一度書きますがロボットに死を理解させるということは人間によって利用価値が無くなった時、産業廃棄物として死刑を宣告するのと同じです。どのようなことがあっても死を理解できるようなプログラムは組むべきではありません。
あなた自身が死を理解していないために同一として考えてしまうのではないでしょうか。あくまでも私が言っているのは人の死後、個別性をもてるのかということです。