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(回答先: 創価学会の方、ロボットではなく人間の話を致しましょう。死後、個別性を持った存在者でありえるかどうか 投稿者 縄文ビト 日時 2006 年 3 月 22 日 15:10:21)
私の議論においては、ロボットを、人に置き換えてもらっても、良いのですが。
人を、突き放して見るために、ロボットを登場させて、話しをしていると考えてもらっても良いのです。人の脳は、プログラムであり、人の感覚器官は、センサーであり、人の感情は、プログラムのある状態として、見るのですね。
人が、学ぶ、ということに対応するのは、ロボットが、自分のプログラムを改版するということになります。そうです。ロボットは、自分が実行するプログラムを、自分で作るように、プログラムされているのです。
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さて、幼児は、認識の初期段階において、”在る物は、在りつづける”ことを、学びます。たとえば、電車のおもちゃが、トンネルに入ったら、しばらくすると、トンネルから出てくる事を、学びます。在る物が消えると、その探し方を学びます(ピアジェ、ネルソン)。
ロボットは、センサーからの入力が、どのように展開するかを、自身のプログラムとして、作成します。たとえば、転がるボールを見れば、転がりつづける事、あるいは、止まる事、あるいは、衝立の向こうに行って、見えなくなれば、そのうち、衝立の反対側から見えるようになるか、そのまま見えないか、などを、学びます。学ぶということは、対象の展開をプログラムとして作成する事なのです。(筆者のプログラムは、そう動きます。)
このように学ぶロボットが、ある対象に関するセンサー値を、どのようにしても得られないことが続いたとき、それを、単なる事実として、新たに、そういうこともあるのだと、プログラムすれば、”死”を、プログラミングしたことになるでしょう。
あるいは、なんらかの方法で探せば、その対象と、コンタクトできるという、プログラムを動かしつづければ、どうなるのでしょうか?ロボットは、対象の、所謂”死”後も、対象を、なんらかの方法で、求めるということでしょう。