★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ45 > 592.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
(回答先: NHKの大河ドラマの「功名が辻」は単なるホームドラマであり、これでは秀吉が何故バテレン追放令を出したのか分からない 投稿者 TORA 日時 2006 年 8 月 25 日 14:35:54)
359 名前: 厄災の予兆または警告 投稿日: 01/10/18 00:13 ID:CHMTgxNN
ヨーロッパ人は、1650年頃までに、アメリカ大陸、シベリア、サハラ砂漠以南の
アフリカ沿岸の一部、東南アジアの島嶼部で軍事的な勝利を収めた
中央アメリカでは、少数のスペイン人の集団がそれまで世界の5分の1を超える人口を抱えた二つの大帝国を崩壊させてしまった
これらの土地の人々は軍事的な技術も戦術もおよそ異なっていたが、
ヨーロッパ人の侵入に際して、全く同じ一つの経験を共有した
彼らが出会ったヨーロッパ人は皆例外なく戦い方が汚く、
さらに困ったことには殺すために戦うことだった
ニュー・イングランドのナラガンセット族は、植民者の戦い方に強い憤りを感じた
ナラガンセット族のある誇り高い戦士は、イングランド陸軍の大佐に
「人を余りに残忍に、余りに大勢殺し過ぎる」と文句をつけ、
その大佐は、「お前たちの戦い方では7年戦っても7人も殺せないだろう」と応じた
植民地総督ロジャー・ウィリアムズも「(アメリカ・インディアンの戦争は)
ヨーロッパ人の残虐な戦争よりはるかに流血が少なく、破壊もしない」ことを認めている
もっとも、これは戦争に対する文化の違いもあった
アメリカの先住民社会では、戦闘に生き延びてもその後の宗教儀式で玩具にように
殺されることもあった
アステカ帝国の「花戦争」は、戦闘での戦死者は殆どいなかったが、
それは捕虜全員が人身御供になるよう命じられたからだった
同じ頃、地球の反対側ではインドネシアの諸民族が、全てを破壊し尽くしてしまう
ヨーロッパ人の凄惨な戦いぶりに同じようにおののいていた
ジャワの人々は、「出来ることなら戦いたくない一心」だった
彼らの言い分は、「自分たちの富は全て奴隷に依存している
だから、奴隷を殺されてしまうと物乞いをしなければいけなくなる」
そんだけ
360 名前: 黄金海岸 投稿日: 01/10/18 00:14 ID:CHMTgxNN
この性格は、アメリカとサハラ以南のアフリカにも共通する特徴だった
これらの地域の戦争は、敵を皆殺しにするのではなく、奴隷にするために行われた
1788年にギニアを訪れたイングランド人の記録によると、ある種族の首領は
「戦いの目的はただ奴隷を得ることにある
奴隷がなくてはヨーロッパの商品は手に入らない
そして、奴隷を得るためには、それを求めて戦わねばならない」
と認めている
彼らの戦争とは労働力を得るためのものであって、土地を支配するものではなかった
領土でなく人を確保するためのものだった
この手の発言は、ヨーロッパ人が植民地を獲得するための宗教的・人道的な掩護射撃を植民者たちに与えた
「異教徒はこのような不正行為を働く
故に、キリスト教徒が異教徒を殺しても許される」
異教徒とは周辺諸国全てに当てはまった
結果、キリスト教徒は増えなかったが、不信心者は確実に減ることになる
勿論、例外は存在する
アルゴンキン族のようなアメリカ・インディアンの一部の部族は、
捕虜を手の込んだ儀式によって拷問にかけて殺した
19世紀のズールー人は敵を無差別に殺した
フィリピン群島のルソン島中部のイゴロット族は、つい最近まで奴隷よりも
人間の頭を集めるほうを好んだ
ヨーロッパ人も時には捕虜を奴隷にした
1650年代にイングランド軍の捕虜となったスコットランド兵は終身奴隷を宣告された
行き先はイングランド国内の場合もたまにあったが、大抵はバルバドス行きだった
ウースターの戦での勝利を祝ってクロムウェルのもとに派遣された議会派の代表は、
クロムウェルから「贈り物」として馬1頭とスコットランド人2人を与えられた
だがこれらのスコットランド人は反逆者とみなされ、それに応じた扱いを受けたに
過ぎない
ヨーロッパ世界の戦争は、上記の非ヨーロッパ世界のように、奴隷を確保することが
戦争目的であったことは一度もなかった
そんだけ
(中略 ここに欧州移民と先住民との戦いが現在のテロとの戦いにつながると感じるレスあり)
366 名前: マン・ハンティング 投稿日: 01/10/19 22:50 ID:9SvxaNoQ
しかしながら、アフリカへのヨーロッパ進出を火器のなせる業として片づけるのは
正しくない
機関銃が登場するまで、ヨーロッパの火器は戦闘に勝利するには有効だったかも
しれないが、戦争に勝てたことは殆ど無かった
ヨーロッパ人は、19世紀まではアフリカ沿岸の多数の要塞に閉じこもっていたに
過ぎなかった
ポルトガルは東アフリカのザンジベ河上流を支配しようとしたが、試みは常に失敗に
終わった
ポルトガルの銃兵の小集団が数少ない要塞拠点からたまたま迷い出てきても、
細身の投槍を持った原住民が襲えば大抵打ち負かすことができた
スワヒリ沿岸のムスリム君主たちに至っては、いつでも火器と弾薬をトルコ人から
入手することができた
モンバサのスルタンは、1631年にフォート・ジーザスを降伏させた
この要塞は堅固な珊瑚礁の上に建設され、稜堡を完備し、長い間モンバサの町を
見下ろしていたのだった
西アフリカでは、地元の支配者の中にヨーロッパ人さえ驚くほど大量の火器を
保有できる者もいた
これは特に、1650年代以降、オランダ人が銃と奴隷を物々交換するようになった
ことが大きかった
黄金海岸では、1658年7月からの3年間で8000挺の銃が送られ、
奴隷1人につき銃12挺で交換された
それから1世紀たつと、送られる銃の数は年に40万挺にのぼり、
奴隷1人につき銃4〜5挺で交換されていた
ところが、この様にヨーロッパの技術が流入しても、アサンテ王国のような
少数の例外を除けばほとんどの地域ではアフリカの軍事技術は何も変わらなかった
1861年になって、ナイジェリアでヨルバ族の戦争を観戦したあるイギリス将校の
体験談によると、戦闘の際の部族の戦士たちは、とりあえず
「散開隊形に拡がり、それから弾薬が尽きるまで小競り合いを繰り返す
弾薬がなくなると補充しに戻ってくる」
「数千発も撃っているのに、死者は一桁どまり、怪我人も十人単位だ」
実際、植民地化される前の東アフリカでは、兵力不足のため戦争は殆ど儀礼化していた
このような戦術では、高度に訓練されたヨーロッパの軍隊に対してはとうてい
歯が立たなかったに違いない
だが、ブラック・アフリカはヨーロッパ人と対決するために銃を輸入した訳では
なかった
あくまで奴隷を求めて戦ったのであり、土地を自分のものにするためではなかった
しかも、健康で商品になる奴隷を捕らえるのが目的の戦争に、
滑腔銃の斉射戦術が不向きだったことは明らかだった
滑腔銃特有の低い命中率では、殺すのではなく、確実に負傷させるためだけに
使うわけにはいかなかった
その上、鉛の銃弾による銃創は鉛が変形して傷口を拡げてしまい、
鉛毒によって壊疽を誘発して死に至ることも少なくなかった
18世紀になると、鉛の銃弾のかわりに石礫を使うことでこの問題は取り敢えず
解決できた
18世紀に銃の輸入が劇的に増加したのは恐らくこれが原因だった
だが、これでヨーロッパの火器戦術が戦争に採用されることにはならなかった
そもそも、火器という代物自体がアフリカの戦争に馴染まない性質のものだったのだ
そんだけ
出展:2ちゃんねる戦争論
http://yasai.2ch.net/army/kako/998/998225170.html
▲このページのTOPへ HOME > Ψ空耳の丘Ψ45掲示板