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(回答先: 【主張】 そっくり油彩 芸術家の誇りはどうした 【産経新聞】 投稿者 愚民党 日時 2006 年 5 月 31 日 12:18:45)
なごみワールド
http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20050502/p1
江藤淳「南州残影」
ひじょーにつかれているので、知っていることでお茶を濁す。
江藤淳「南州残影――全的滅亡の曲譜」を読んでみる。
西南戦争のとき、西郷は、熊本鎮台宛に紹介書を送付した。
拙者儀、今般政府へ尋問の廉有之(これあり)、明後十七日県下発程、陸軍少将桐野利秋、陸軍少将篠原国幹、及旧兵隊の者共随行致候間、其台下通行の節は、兵隊整列指揮を可被受(うけらるべく)、此段照会に及候也。明治十年二月十五日 陸軍大将西郷隆盛 熊本鎮台司令長官
この書は西郷の直筆でないという説もあるのだが、「仮りにそうであってもこの照会書に、いわば私学校党の集団的意志のごときものが凝縮されているという印象は拭いがたい」と江藤は述べている。「尋問」という言葉の強さをふくめ、「一種異様に強烈」をあたえるのが、この書状である。
なお、「陸軍大将西郷隆盛」に込められた意味について、江藤は次のようにいう。
仮に陸軍大将に政府に「尋問」する何等の権限がないとしても、西郷にはその資格が備わっている。法的に正当化される資格ではない、いわば道義的な資格が西郷だけにはあるはずである。(213)
それはもとより、西郷が、「君の寵遇世の覚え、たぐひなかりし英雄」だからにほかならない。維新第一の功臣として、賞典禄二千石を下賜されたにもかかわらず、下野し、「大観」した「達人」として、……政府に「尋問」する立派な資格がある。(214)
その背景に、新政府にたいする以下のような不満があったことは、周知の事実。
その間に、当の政府は一体なにをして来たか。外に外国の軽侮を招き、内にあっては士族の禄を奪い、これを貧窮のどん底につき落として来たではないか。西郷を推し立てて、政府に「尋問」すべきことは数々ある。このような悲惨と卑小とを実現するために、維新回天の大業は断行されたのだろうか、はたまたしからざるか。(214)
で、江藤淳の面目躍如たる、締めの文章。
だが、依然として、何故西郷が、「唯身一つをうち捨てゝ、若殿原に報いなむ」と決意したのかという事情は定かではない。彼に果して勝算はあったのか、それとも南洲はむしろ滅亡を求めて挙兵したのであったか。(215)
ところで勝海舟は、このように滅亡に殉じた西郷の姿勢を、ひたすら追慕したのだという。「近代日本というあり得べき国家に賭け」た海舟が、なぜ失敗者西郷に深く共感したのか。それは、「ひとつの時代が、文化が、終焉を迎えるとき、保全できる現実などはない」からであるにほかならない。
西郷とともに薩摩の士風が滅亡したとき、徳川の士風もまた滅び去っていた。瓦全によっていかにも民生は救われたかも知れない。しかし、士風そのものは、あのときも滅び、いままた決定的に滅びたのだ。これこそ全的滅亡というべきものではないか。ひとつの時代が、文化が、終焉を迎える時、保全できる現実などはないのだ。玉砕を選ぶ者はもとより滅びるが、瓦全に与する者もやがて滅びる。一切はそのように、滅亡するほかないのだ。(210−211)
ここには、敗戦というかたちで秩序の全的崩壊を体験した、江藤淳の思想的核心が明瞭に見て取れる。無秩序が感覚のベースとなっているならば、何らかの秩序は、一種の崩壊感覚をともなわずには受容しがたい。それは、近代日本もそうであったし、戦後民主主義もそうであったのだ。薩摩琵琶の調べに滅びの旋律を聴き取る勝海舟に、江藤は自分自身を見ているのだろう。
政治的人間の役割を離れて、一私人に戻ったとき、海舟の眼に映じたのはこのような光景であったに違いない。平家が亡び、源氏が亡びたあとに浮上したのが、北條執権の武家体制であったように、徳川が亡び、南洲と私学校党が亡びたあとには、近代日本というものが樹立されようとしているかに見える。海舟は、政治的人間として、いわばこの近代日本というあり得べき国家に賭けて来たといってもよい。だが、それはいつまでつづくか。それもまた、やがて滅亡するのではないか。(211)
このように語られると、「滅亡」への誘惑というのは、確かにあると実感する。
http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20050502/p1
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