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(回答先: さくら満開(土佐高知の雑記帳)【サクラの花の咲くころ/悲しい戦争で散っていった/人たちのことを思う】 投稿者 gataro 日時 2006 年 4 月 07 日 10:03:36)
http://jcphata.blog26.fc2.com/blog-entry-265.html
きのうに続いて特攻について書く。
きょうは戦艦大和水上特攻について。
1945年のきょう4時過ぎ、戦艦大和を旗艦とする第二艦隊は、広島県三田尻沖を出撃する。4000名ちかい将兵をのせた艦隊は、沖縄に突入し、自力座礁して砲台として沖縄守備隊を援護する計画だった。
多くの人たちが書いているように、それは可能性のない作戦だった。
一機の護衛機もなく、米機動部隊が待ち受ける沖縄近海への突入は、出港時点から米軍に察知されていた。
翌4月7日午後、米軍機の攻撃をうけた戦艦大和は、午後2時過ぎに沈没した。
ここいら辺のお話は、「戦艦大和の最期」や「男たちの大和」に描かれているから詳しくはそちらをみていただくとして、水上特攻を指示した側の問題について考えてみたい。
日米戦争は、基本的には前年のマリアナ決戦で終結していた。
空母機動部隊をほぼ全滅させられた時点で、戦争指導部は早期和平を行うべきであった。ところが、その決断をつきかねないままに、ペリリュー、フィリピン、硫黄島、沖縄とズルズルと被害を大きくしていった。
ここには昭和天皇の「226事件トラウマ」と「一撃和平論」が、大きく影響していたと思う。
昭和天皇も人間だから、股肱の軍隊の反乱である226事件の衝撃は大きなものがあったことは疑いない。あのときは「朕自ら近衛師団を率い」の一言で、陸軍中央の維新内閣論を一気に粉砕したし、反乱軍はその前に淡雪のごとく消え去った。だが、昭和天皇は反乱軍とその背後にある「国民に支持された軍隊が、いつそむくかもしれない」という国民世論を常に気にしていたふしがある(ロシア革命を熟知していたふしもある)。そして、近衛元首相をして、「共産革命の危険あり」という認識が、昭和20年段階であるくらいだから、昭和天皇もふくめた政府指導部にあったトラウマは大きなものがあっただろう。
それが、「一撃和平論」へとつながっていたのではないか。緒戦のわずかな勝利のあとの、相次ぐ敗北は天皇を不安にしただろうし、国民を納得させるためにどうしたらいいかを常に考えていたと思う。国民が納得しなければ、革命がおき(現実にはその力はなかったたが、指導部は軍部に共産主義が浸透していると考えていた)、天皇制が打倒されるかもしれないという危機感は、彼のその当時の言明に現れている。それは政府部内の共通のトーンである。国民のためにどう落とし前をつけるかではなく、みずからの体制を維持するために、どう国民に納得させるかが、この当時の政策をしばりつけていた。
だから、現実は可能性がない戦術を立てて、連合艦隊は壊滅したし、フィリピンでは50万の将兵が全滅した。その背後にフィリピン国民などアジア諸国の人々の数多の犠牲があった。
もし、マリアナ決戦のときに、あきらめをつけて「わが身がどうなってもいい」と決断して、早期和平へと舵をとっていたら、と思うのだが、昭和天皇は目覚めなかったのである。
彼が目覚めるのは、戦艦大和が沈められ、沖縄戦が敗北し、本土決戦の準備状況を軍令部が説明を受けた時点である。だが、そのときはあまりにも多くのものが犠牲になっていた。
そして決断したあとも、「国体護持」などというわけのわかないものにこだわって、原爆投下、ソ連侵攻という犠牲を重ねたのである。
「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める。それ以外に、どうして日本は救われるか。今、目覚めずしていつ救われるか。俺たちは、その先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか」
戦艦大和に乗っていた臼渕大尉の言葉であるという。
戦艦大和特攻から、いまの日本人が学ぶべきことは多々あると思う。
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