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(『日刊まにら新聞』 2006年7月24日記事より)
■比日国交回復50年 比日友好解説
国交回復後、経済連携強化一筋できた比日関係が「日米同盟強化」で軍事連携へ
国交回復五十周年を記念する「比日友好の日」の行事は在比日本大使館が「主役」、麻生太郎外相訪比が「華」となった。だが、二十三日付地元各紙の一面は イスラエル軍のレバノン攻撃に伴う比人海外就労者(OFW)の安否を気遣う記事で埋まった。身近な比人に尋ねてみても、「友好の日」を知る者は皆無だっ た。国交回復後、両国関係は「町人国家」を自称した日本が主導して経済連携強化に徹してきた。だが、世界規模での「日米同盟の強化」が比日関係に軍事連携 とその拡大を迫りつつある。 (加治康男)
一九七〇年代から八〇年代にかけて、日本政府は工業化を急ぐ東南アジア諸国連合(ASEAN)の要請を受け、巨額の政府開発援助(ODA)を注ぎ、産業イ ンフラ整備を支援。日本企業はASEANを米欧への一大輸出拠点とした。それは自動車、電子製品・半導体などを中心とする日本製品の集中豪雨型輸出を加速 させ、日米経済摩擦は八〇年代半ばピークに達した。だが、九〇年代にバブル経済崩壊の後遺症に長く苦しみ続けた日本にとっては、それは「黄金の八〇年代」 を意味した。
こうした中、ASEAN原加盟五カ国中、半島組のタイ、マレーシアは日本企業への低賃金提供にとどまらず、日本の官民から技 術の移転、生産システム高度化、部品産業育成などを積極的に学んだ。半島組は日本を追走したシンガポール、韓国、台湾などアジアの新興工業国・地域 (NIES)に次ぐ高成長を遂げながら、自立した経済力を付けていった。
対照的に、フィリピン、インドネシアの島国組は落ちこぼれた。そ れでも比は八〇年代末に米レーガン政権が提唱した対比多国間援助構想(MAI)での第一の資金源、最大の対比援助国の日本から九〇年代前半首都圏周辺での 本格的な産業インフラ整備のための援助資金を得て、遅ればせながらASEAN自由貿易圏を活用した日本企業の地域分業体制に参入できた。
だが、歴代政権が製造業を重視しなかった比はASEAN原加盟国中、製造業の基礎製品で、最重要な金型製造のための数値制御付工作機械すら生産できない唯 一の国となった。カトリック教会の人工避妊禁止で人口が三十年で倍増、タイ、ベトナムがコメ輸出世界一の座を争う中、逆に最大のコメ輸入国となるなど第一 次産業も深刻な競争力喪失に陥っている。
この状況を端的に反映しているのが、行き詰まってしまった比日経済連携協定(JPEPA)締結交渉だ。比は日本の自由化要求を受け入れられず、貧困層の窮乏化を踏みとどめているOFWの日本への大量就労を拒む日本との折り合いがつく見通しは今のところないようにみえる。
一方、軍事連携は軍需産業絡みで急速に進んでいる。昨年、マニラでの初の比日防衛実務者会合、日本の防衛長官の初訪比、さらに在沖縄米海兵隊の対テロ訓練 を名目とするミンダナオ地方への実質常駐が進行中。また、旧米空軍基地クラークを手始めとした米軍需産業の対比進出が顕著だ。
さらに、日米が合意したミサイル防衛計画に象徴される軍事用航空・宇宙関連産業の多国間分業体制に組み込まれる可能性もある。「比日友好」の内実が問われている。