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(回答先: Re: 旧軍にそっくりではなく、どこかの国の旧軍を引継ぎでしょうね 投稿者 Kotetu 日時 2006 年 5 月 12 日 10:33:33)
http://tseiso.hp.infoseek.co.jp/ml/e5_sigoki.html から転載。
私的制裁・人権蹂躙・差別
兵士の自殺
0339 Re 逃亡兵と捕虜
中国戦地で日本人捕虜が発行したと思われる新聞を見たことがあります。教育を受けている捕虜20名位の写真が載っていました。内容は記憶していません。
軍隊内の組織的な抵抗は聞いたことがありませんが、私の仲間はビンタをとられて耳が聞こえなくなったと言って、手拭いで顔をぐるぐる巻きにして暫く歩哨にも出ないで通しました。個人的な反抗です。ビンタをとった古参兵が心配なのか「お前、本当に聞こえないのか」と言っても「ハア-」ととぼけた顔をしていました。年上の面白い男でした。
私は古参兵を射殺しようと思ったことがあります。中国の農家の物置で分隊の銃を数丁並べて手入れをしていた時、入って来た古参兵に手入れの仕方が悪いと物凄いビンタを頂戴しました。テ-ブルの上には今磨いたばかりの銃と弾が有りました。殺意を感じたのか古参兵は立ち去ってしまいました。
あの時、射殺していたらどうなっていたろうか。彼にも悲しむ親、兄弟がいたろうし、私はともかくとして、私の親、兄弟も汚名を着て村八分にあっていたと思います。復員後母にこのことを話したら気丈な母は、ぶち殺せば良かったのにと怒りました。私の左耳は時々音が割れて聞こえるときが有ります。医者にかかっても直りません。
出すかどうか迷っていたので今になりました。やはり出してみます。理不尽に痛めつけられても、反抗することも出来ず、歯をくいしばるか自殺を選ぶしか方法の無かったのが日本軍隊でした。
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0347 私もビンタで難聴になりました
生れ故郷である栃木県烏山町でのことですが、私は国民学校5〜6年生の2年間(敗戦になる直前です) 海軍から復員してきた担任教師に、いつも殴られていました。一度、特にひどいビンタを受けて、とうとう難聴になってしまいました。現在でも、他の人には100%聞こえることが、80%くらいしか聞こえません。(そのため大事だと思われることは質問して確認するようにしています)
戦時中は、学校で先生に暴行されても訴えることなど考えられませんでした。「直撃弾一発!」などという掛け声と共にゲンコツが脳天にくだり、よくコブができたものでした。私はけっして「おとなしい子」ではなく、喧嘩早い相当な「ワル」で、目立つ少年でしたので、恰好のターゲットだったのかも知れません。しかし、他の先生に殴られた記憶はほとんどありませんので、この元軍人教師の暴行は相当ひどかったのだと思います。
戦争直後の何年かは体罰はなくなりましたが、しばらくすると「愛の鞭」という美名のもとに体罰が復活しました。「一億総保守化」と言われた70年代から特にひどくなったように思います。しかし、体罰を肯定する教育が欧米では通用しないことはご存知の通りです。米国では解雇処分になることもあります。ヨーロッパ諸国でも同様だと思います。
戦地での暴行についての投書を読んで暗い少年時代を思い出しました。同世代(1933年生まれ)の方には 類似の経験をお持ちの方もおられると思います。「銃後の」生活の側面として語り伝える必要を感じ投書した次第です。
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1576 汽車遊び、銃爆撃機遊び
「汽車遊び、銃爆撃機遊び」という名称は聞いた事がありませんが、昔の映画で、軍隊内の陰湿ないじめのシーンを見た記憶があります。
古参兵に目をつけられた新兵に対するいじめなのですが、兵隊たちが人間ピラミッドのようなものを作り、ターゲットになってしまった兵隊はそこを鶯の真似をして「ホーホケキョ」とか「ピーチクパーチク」とか言いながら許されるまで行ったり来たりするのです。
宴会の余興ならまだしも、こんなことをマジでやらされたら、例えば大学出の新兵などはプライドがずたずたになったでしょうし、まさにその目的のためのいじめだったのだろうと推測できます。「汽車遊び、銃爆撃機遊び」というのも、あるいはそのような類に属するものだったかも知れません。あくまでも私の推測です。見た映画のタイトルも思い出せませんがご参考までに・・・
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1577 Re ごめんなさい
記憶なので確かではありませんが 小説『遠い接近』松本清張著の中に「汽車遊び」が有ったと思います。 二等兵の主人公が毎日の訓練を終えて部屋に帰ると、腰痛を装って密かに除隊を計ってる古参兵が外出出来ないストレスを発散させるため、主人公をいじめる方法として「汽車遊び」があったと思います。 バケツを車輪に箒をクランクというのか水平のバーに見立てて蒸気機関車とし長時間やらせた。
「重爆撃機遊び」は記憶にありません。『遠い接近』の一読をお勧めします。赤紙発行が軍でなく役場の兵事係が人選しており、袖の下を使うことで不公平があり、戦後それに復讐するストーリーでした。役立たずですみません。
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1578 Re ゴメンナサイ!
イジメの方法、イロイロと知ってますが、やられたことは御座いますが、やったことは御座いません。便所の中で、首を釣った気の弱いヤツも居たそうです。
「私的制裁厳禁」と言う「命令」が出たことが在ると、ウッスラ記憶が御座いますが、その後も続きました。
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1579 ありがとうございます
実は、私も少し調べてみようと思い、近くの古本屋に出掛けて、『季刊現代史』第4号「特集 現代史のなかの兵士像」というものを購入しました。そこに、「戦争中の初年兵日記」というものがあり、「ミンミンぜみ(柱にのぼってミーン・ミーンと鳴く)、自転車(机と机の間に入り両腕で身を支え空中でペダル踏み)、うぐいすの谷渡り(寝台の下を渡り歩きホーホケキョと啼く)、おいらん(銃架をのぞき穴にみたててチョイと寄ってらっしゃいよとやる)などたくさんの種類がある」とありました。
M様が教えてくださったのは、このなかの「うぐいすの谷渡り」に該当するのだろうと思いました。それでも、「汽車遊び」や「重爆撃機遊び」はなかったので、T様のご指摘はありがたく思えました。感謝致します。早速、松本清張『遠い接近』を探して読んでみたいと思います。
もしかしたら、私の質問で、私的制裁のことを思いだされて、不快な気持ちになられた方がいらっしゃるのではないかとおそれています。もし、そうであればお詫び致します。みなさん、ありがとうございました。
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1580 Re 本について
軍隊の私的制裁をお調べのようですが、私は19歳徴兵2年目で敗戦の年の7月1日入営、8月15日敗戦9月27日召集解除、即日現場復帰でしたし、入営した旭川連隊の所属中隊長が「私的制裁禁止」の命令を徹底して実行させていましたから、直接には経験がないので、他の方の報告を期待していましたが、無いようですから隣の中隊で実行されていた私的制裁について少しだけお話ししましょう。
私的制裁は、娑婆っ気を早急に払拭するために行うと言っていますが、実際には古年需兵の鬱憤はらしや俺も新兵の時やられたんだからと言う姑の嫁いびりに似た順送りが主原因だと思われます。人間、意地悪をするときには知恵がわくもので、ありとあらゆる事を上官の命令=天皇陛下の命令として、強制されました。
対象者は新兵の内でも、公務員、教員、警察官、看守、鉄道員など民間で指導的な職業の者がねらい打ちにされました。どなたかが言われていましたように、トイレで首をつる兵もでました。多分私の中隊で禁止が厳命されたのは近い過去で自殺者が続発したのではないかと思われます。または私の中隊の新兵さんは、幹部候補生要員ばかりだったため前もって隊長が手を打ったのかも知れません。
私の知っているいじめの名称は「鶯の谷渡り」「ミイミイ蝉」「申告各班周り」などです。内容は「鶯の谷渡り」は、各班にはベッドが10台ずつぐらい向かい合わせに計20台ぐらいが置いてありますが、これを山と谷に見立て鶯は小さいんだぞと怒鳴り新兵に蹲踞(ツクバイ)の姿勢をとらせて、山と見立てたベッドに上がらせては「ホーホケキョー」谷に降りては「ホーホケキョー」と際限もなく続けさせるのです。見物人はニタニタ笑い、「元気がないぞ」「姿勢が高い」「なんだ本当に泣いているのか、鶯だ、鶯だ馬鹿野郎」こんな調子です。
新兵は誇りも、名誉も奪われ、漸く生きている動物またはそれ以下に変質させられるのです。「ミイミイ蝉」は内務班の柱にしがみついて「ミイミイ」と鳴かせるんですが足が床についてはいけません。これも体に相当応えます。「申告各班周り」は、関係のないことを各班で申告して回るんですから各班の班長・古兵は「ああ始まったな」と直感しいろいろ文句をつけやり直しを繰り返させ、または、新たな遊びを強制して笑い者にします。以上、ご注文のいじめは解説できませんでしたが参考にしてください。
さて、『戦中用語集』ですが、眼をとおしていました。そこに「私的制裁」の項があって期待したのですが、掲載されていませんでした。また、他には、北村恒信 『「戦前・戦中」用語ものしり物語』(光人社)も見たのですが載っていませんでした。そこで、このメーリングリストで聞こうと思ったのです。宜しくお願いします。
人は過ぎ去った悪事(人権蹂躙)の軌跡を明らかにしたがらないものです。敵の捕虜を医学実験の材料にしたとか。首を何人切ったとか。毒ガスの実験にガス室に入れ殺してしまったとか。アジア諸国の人々に言いしれぬ罪悪を重ねていますが、今となっては(その方々はもう80代かその直前です)口をつぐんでしまわれる方が大多数ではないでしょうか。
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1586 感謝とお願い
私のぶしつけな質問に丁寧にお答えいただきありがとうございました。あの後、日本近現代史の先生から(−ここではK先生としておきます)、近現代史編纂会編『陸軍部隊戦史』(新人物往来社)を紹介していただき、そのなかの「兵営と兵隊」の項で、私的制裁の状況(ビンタ、給水塔まわり、バケツ上げ、銃口のぞき、食事抜き、食缶かぶり、自転車乗り、せみ、ウグイスの谷渡り、女郎屋など)が記してあり、だいぶわかったような気がしてきました。
ですが、KI様からのメールを読んで、臨場感あふれる記述には、その本の説明もかなわないように感じました。知識とは異なるリアルさというのを感じました。
やはり、K先生ですが、この間、日高六郎氏の文章を紹介してくれました。それには、体験者の方の感覚が、知識と思想に活力のある息吹を吹き込むとして、
「その独特の感覚とは、第一には、一つの時代を支配している、全体的な雰囲気、第二には、その時代のなかで(同時にその時代のなかの「私」のなかで)生起した、ときには重要な、ときには平凡なディテール(こまごましたことがら)についての感覚である。この全体性とディテールの感覚を持っているということは、体験者の特権である」
というものでした。 KI様のメールにそのことを強く感じました。ありがとうございました。そして、もう一つ、知りたいことがあります。
それは、戦場と読書のことです。『きけ わだつみのこえ』を読んでいると竹田喜義さんという方の文章に、文字、活字に飢えて、「メンソレータムの効能書を裏表丁寧に読み返した」というシーンがでてきます。とても心に残るところなのですが、どこかで、本を持って戦場に行ったというのを見た気もします。
あ、そうです。これもK先生が紹介してくれた宮柊二の「文庫本 万葉集を 秘めてきぬ 装具はづして背嚢をさぐる」という歌です。これ以外にも戦場に万葉集を持っていったというのを紹介してもらったような気がします。たぶん、いろんなケースがあって一律ではないと思うのですが、本を持っていったりしたのでしょうか。そして、本を読む時間をとることはできたのでしょうか。お教えいただければと思います。
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1587 兵隊いじめ
わたしが陸軍に徴集されたのは戦争末期で、内地の防衛にあたっていたのですが、もう2〜3年早く生まれていましたら、どうなっていたか知れません。MLで兵隊いじめが話題になっていますので、横レスで失礼ですが、いじめにあった新兵(初年兵)のわたしの体験談を、回顧録から抜粋してご披露します。ただし、兵営に居住でなく国民学校(小学校)が兵舎に使われていました。
夕食後は、自由時間で身の回りを整理したり、雑談したりの憩いのひと時であるが、きまって頃合を見図らって初年兵整列がかかる。「今日の訓練のザマはなんだ」「それでも帝国軍人か」と鉄拳制裁が始まる。反抗的な目付きをしょうものなら、突き飛ばす、足で蹴りつける。暴行は消灯前の点呼まで続く。隣でも始まったらしく怒号が聞こえてくると、下田班長は後を三年兵にまかせて、隣へ殴りに出かけてゆく。「貴様ら班長殿に申し訳ないと思わんか」と下田の悪の声がしてくる。隣の班長も迷惑なことである。
ある晩、T上等兵から「伍長殿のお呼びだ」といわれて、下士官室へ行った。「俺は知らんぞ」と言われて急いで戻ったら、鉄拳制裁中。列に加えられ、したたか殴られた。「せっかく出してやったのに、飛んで帰ってくるとは、しようがない奴だ」と翌朝、上等兵に言われた。
新兵いじめには、古兵にとって楽しめる伝統的なメニューがある。寝台の上を乗り越え、次の寝台の下をくぐり抜け、上下上下を繰り返しながら、休みなくホーホケキョと鳴かせる「鶯の谷渡り」。柱に滑り落ちないように抱きつかせ、ミーンミーンと鳴かせる「蝉」、「今年の蝉は鳴きが悪いなあ」とからかう。
もっとも広く知られているお仕置きは、銃の手入れ不良に課せられる「三八式歩兵銃殿」。銃を面前に捧げて、両腕を前に突き出す。そのままの姿勢で「三八式歩兵銃殿。このたび、わたくしは、あなた様に、まことに申し訳ないことをいたしました。今後絶対に絶対に大切にいたしますので、どうかお許し下さい」と唱えさせる。「許すと返事があったか」「返事はないであります」「返事があるまでお詫びしろ」「はいっ、返事がありました」「ばかっ、銃がしゃべるか」といびられる。腕がしびれてきて骨身にこたえる。
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5762 差別とは
兵隊の差別問題は私には難しい問題ですね、階級制度は絶対服従で、天皇の代理だと言っていました、しかし、戦地の最後になると階級での差別より、戦友としての親密な関係になっていました。其のあらましを「青春兵系譜」に記しています。お暇な時にご一読お願い致します。YH
戦前戦後変転の人生であった「青春兵系譜」
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8045 迫撃砲
ご存知のように、米軍基地に迫撃砲弾が撃ち込まれ20名以上が亡くなったようです.驚いたのは、呆然と佇む兵、抱擁しあう兵、死者の傍らで泣く兵・・・ストライカー旅団、米陸軍の精鋭部隊をはじめ兵士としてたたき上げの訓練を受けた大人の職業軍人たちがこんなになるほど迫撃砲弾が恐ろしいものなのだとしたら、はるかに強力な砲弾が頭上に降り注いでいる全く無防備なイラクの市民、老人や女性や子供たちの恐怖はいかばかりなものなのか・・・
米国防長官が戦死者の遺族に宛てておくる報せに手書きのサインをするのが当然なのに、サインまで印刷したものを送っていたため、激しいブーイングが起こっているそうです。よく送られてくるダイレクトメールと同じやり方ですね.アメリカでも兵士の命などというものは二束三文の安売り商品みたいなものなのでしょうか・・・YM
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8046 Re 迫撃砲
このニュースを聞いて、一昨日ご紹介しました次の短歌を思い出しました。
「遺骨なき箱より夫の名を記す一片(ひとひら)の紙わが膝に落つ」 どこの国でも、軍隊は非情なものですが、当時の大日本帝国では、ブーイングなどは考えも及ばないことでした。
アメリカでも兵士の命などというものは二束三文の安売り商品みたいなものなのでしょうか・・・
今度は俳句をひとつ。「第12回伊藤園:お〜いお茶新俳句大賞」で、大賞を受賞した作です。N
「一銭五厘のいのちながらえ雪と住む」北海道 早川たけお 77歳
作者より
昭和十九年私は、満州で三等兵として馬の世話を任務としていました。ある時、馬の世話をしている私たちに向かって上官が「おまえたちは一銭五厘※で買えるが馬は買えない。だから大事に面倒をみろ」といわれました。そのことを思い出して作りました。※戦時中は、出兵の通知をする「赤紙」の郵送料が一銭五厘であった。
選評
戦争時代の召集令状は赤紙と称し、一銭五厘のハガキだった。容赦もなく、戦場に駆り立てられた負の時代。運よく帰還できて故郷に帰れても、きびしい雪の環境が待っている。その中でいのちながらえ生きてきた作者の生命力と勇気を讃えたい。
「第12回伊藤園:お〜いお茶新俳句大賞」
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8047 Re 迫撃砲
質問なのですが、「三等兵」とは、どのような意味なのでしょうか。何を比喩しているのか良くわからないのですが・・・。
それから、「赤紙の郵送料が一銭五厘」とありますが、公用郵便だったら切手の貼付はなく、普通の切手貼りでも葉書なら、二銭か三銭(どちらも乃木大将図案)であるはずなのですが・・・。Wa
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8049 Re 迫撃砲
昔のことをよくご存知ですね。なかなか鋭い質問です。
質問なのですが、「三等兵」とは、どのような意味なのでしょうか。何を比喩しているのか良くわからないのですが・・・。
確かに昔の陸軍の階級の最下級は二等兵ですから、「三等兵」というのはありませんでした。作者が自らを三等兵と言われているのは、一番下っ端の兵士としていわば自嘲的に言っておられるものと思います。
それから、「赤紙の郵送料が一銭五厘」とありますが、公用郵便だったら切手の貼付はなく、普通の切手貼りでも葉書なら、二銭か三銭 ( どちらも乃木大将図案 ) であるはずなのですが・・・。
おっしゃるとおりです。赤紙(召集令状)は、郵送でなく、役場から各家庭に届けられて、手渡しされたといわれています。またはがき代が一銭五厘だったのは1937年3月以前で、戦時中は2銭でした。この俳句の選者も戦後生まれなのか、間違った選評を書いていますが、それが「兵士の命は軽視されていた」という趣旨にとくに関連するものではないので、あえて注釈を付け加えませんでした。 ただ当時の軍隊では、兵士は「一銭五厘の消耗品」といわれていたのは間違いないと思います。徴兵制度の下では、はがき1枚で簡単に兵士が集められるということを比喩的に、あるいは自嘲的にいったもので、おそらく1937年以前からいわれていたものでしょう。例えば次の HP をご覧ください。
私は兵役の経験がありませんので、伝聞によるお答えしかできません。実際に兵役に服された方から、修正や補足をお願できれば幸いです。N
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8050 一銭五厘の旗
“一銭五厘”について、今度はひとつの詩をご紹介しましょう。雑誌「暮らしの手帖」の編集者だった花森安治が敗戦後間もなく書いた「見よぼくら一銭五厘の旗」の一部です。N
軍隊というところは ものごとを おそろしく はっきりさせるところだ
星一つの二等兵のころ 教育掛りの軍曹が 突如として どなった
貴様らの代りは 一銭五厘で来る 軍馬は そうはいかんぞ
聞いたとたん あっ気にとられた しばらくして むらむらと腹が立った
そのころ 葉書は一銭五厘だった
兵隊は 一銭五厘の葉書で いくらでも召集できる という意味だった
(じっさいには一銭五厘もかからなかったが……)
しかし いくら腹が立っても どうすることもできなかった
そうか ぼくらは一銭五厘かそうだったのか
〈草莽(そうもう)の臣〉〈陛下の赤子(せきし)〉〈醜(しこ)の御楯(みたて)〉
つまりは〈一銭五厘〉ということだったのか
そういえば どなっている軍曹も 一銭五厘なのだ
一銭五厘が 一銭五厘をどなったり なぐったりしている
もちろん この一銭五厘は この軍曹の発明ではない
軍隊というところは 北海道の部隊も鹿児島の部隊も
おなじ冗談を おなじアクセントで 言い合っているところだ
星二つの一等兵になって前線へ送りだされたら
着いたその日に 聞かされたのが きさまら一銭五厘 だった
陸軍病院へ入ったら こんどは各国おくになまりの一銭五厘を聞かされた
考えてみれば すこしまえまで貴様ら虫けらめ だった
寄らしむべし知らしむべからず だった
しぼれば しぼるほど出る だった
明治ご一新になって それがそう簡単に変わるわけはなかった
大正になったからといって それがそう簡単に変わるわけはなかった
富山の一銭五厘の女房どもが むしろ旗を立てて 米騒動に火をつけ
神戸の川崎造船所の一銭五厘が同盟罷業をやって
馬に乗った一銭五厘のサーベルに蹴散らされた
昭和になった だからといって それがそう簡単に変わるわけはないだろう
満洲事変 支那事変 大東亜戦争 貴様らの代りは 一銭五厘で来るぞ と
どなられながら 一銭五厘は戦場をくたくたになって歩いた
へとへとになって眠った 一銭五厘は 死んだ
一銭五厘はけがをした 片わになった 一銭五厘をべつの名で言ってみようか
<庶民> ぼくらだ 君らだ
全文は:見よぼくら一銭五厘の旗
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8051 赤紙
1銭5厘で召集はしなかった。幾ら軍国主義の日本でも天皇の赤子と謂われる国民を葉書一枚で召集する程落ちてはいなかった。役場を通じて本籍地の本人か家人に召集令状を届けて、受領印までとっていた。令状を届けるのは役場吏員か或いは定められている人だった。嫌な役目ですね。これより辛かったのは戦死公報を通知する役目の人でした。
また、誰が召集令状を発行するかが問題です。村役場に勤めていた老兵事係に尋ねたところ、口を濁しながらも役場から提出した資料によって各地方にある連隊区司令部で指名し、警察を通じて村役場に通知されたと話しました。
この辺の経緯は「赤紙、男たちはこうして戦場へおくられた」と言う本に詳しく書いてあります。著者:小沢真人 NHK取材班 創元社発行
また赤紙の見本は私のHP「軍隊まんだら」にあります。http://www2.ocn.ne.jp/~sukagawsa(Not Found)
兵事係がまた作られてからでは遅いのです、年寄りもさることながら、若い人達に不再戦の決意をしつかりと持って貰いたいものです。余生老人
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8052 Re 一銭五厘の旗
手元にある「日本陸海軍事典」から転載します。
「一銭五厘」
動員召集は役場の兵事係員が、被召集の本人や家族に充員召集令状(赤紙)を手渡し受領印をもらうことで行われた。本人が不在の場合、令状を受け取った家族が転居先の本人にハガキ連絡をすることもあり、当時のハガキの値段が一銭五厘であったため召集令状の代名詞ともなった。徴兵制で兵隊が容易に動員できたことから「お前らは一銭五厘で簡単に集められるが、軍馬や軍用犬は、そうはいかない」など自嘲的に使われることもあった。ハガキは一九三七年(昭和一二)に二銭に値上がりしたので、それ以前に作られた話であろう。(寺田 近雄)JH
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8054 Re 赤紙
早速に召集令状の実態をご説明いただき、ありがとうございました。いくらプライバシーを軽視した時代でも、召集令状をはがきで寄越すなどということは考えられませんね。
また、誰が召集令状を発行するかが問題です。村役場に勤めていた老兵事係に尋ねたところ、口を濁しながらも役場から提出した資料によって各地方にある連隊区司令部で指名し、警察を通じて村役場に通知されたと話しました。
「歌集八月十五日」に次のような歌がありました。
「父を殺しに来た男」
月青き阿弥陀山越え来たるらし幼きわれもよく知れる人
庭に立ち造林鎌を光らせて父を殺すと音声(おんじょう)はいう
戦場に息子送れる仇としてわが父を今夜殺さんという
兵事課に勤めたる父終戦の間もなく他人に恨まるるなり
下南 拓夫
兵事係がまた作られてからでは遅いのです、年寄りもさることながら、若い人達に不再戦の決意をしつかりと持って貰いたいものです。
同感です。孫や曾孫のために、「貴様らの代りは50円で来る」などという時代は来て欲しくないものですね。N
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13046 兵士の自殺 N
前にもご紹介しました、海軍兵学校出身の牧師・宗像基さんが、機関紙「バベル」の最新号で、イラク帰りの自衛隊員の自殺に関連し、兵士の自殺について書いておられます。
わたしの時代、旧海軍兵学校でも、軍艦でも私的制裁はひどかった。「上官の命令は朕の命令」という絶対服従の掟があったし、私的制裁も教育の手段として認められていたから、兵学校では私も散々にやられ、またやってきたことを告白する。軽巡洋艦木曽に乗ってからは、将校として直接手を下すことはなかったが、下士官のひどい水兵いじめを黙認していた。映画「男たちの大和」にもその一場面があり、たまりかねて抵抗する場面も出てくるが、もうすぐ全艦沈没というパニック状況の中ではあったかもしれないが、およそ下級兵からの抵抗などは考えられなかったのだ。あの恐ろしい天皇制の呪縛が全軍を支配していたのだ。
それでも我慢のできない水兵が艦を道連れに自殺をするということもあったらしい。わたしが兵学校に在学中に瀬戸内海の柱島で戦艦陸奥が自沈をしたが、我々の間ではひそかにある水兵の道連れ自爆らしいとささやかれていたものだ。 自殺
戦艦陸奥の自沈は水兵が犯人らしいというのは、戦後になって聞きましたが、すでに海軍部内ではささやかれていたのですね。1,121名もの将兵がが犠牲になった戦艦陸奥の自沈については、下記サイトをご覧ください。
「陸奥記念館 戦艦『陸奥』 東和町」