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(回答先: 下山事件読解T<意図/5章> 鈴木市蔵、従属国、国鉄一家 投稿者 下山事件 日時 2008 年 4 月 27 日 12:27:18)
下山事件読解T「葬られた夏・追跡下山事件」(諸永裕司 著、2002年12月 朝日新聞社 刊)
<疑問/2・7・終章> 飴玉、九・一一、反共、亜細亜産業
本書の著者は下山事件の意味をどのように捉えているのだろうか。終章の記述から見てみよう。
(p.340)“考えをめぐらせているうちに、頭のなかにぼんやりと浮かんできた言葉があった。
「下山事件とは、戦後の日本に与えられた『飴玉』のようなものではなかったか」
事件を機に、労使関係は対立から強調へと転じ、翌年の朝鮮戦争による特需、その後の高度経済成長をへて、日本は経済大国へと駆け上がっていくことになる。半世紀たったいま、バブル経済の崩壊によって停滞から凋落へと向かっているとはいえ、経済が国を支えてきたことに変わりはない。その意味では、確かに「おいしい飴玉だった」と言うことができるかもしれない。”
ここにある「飴玉」という表現は不自然ではなかろうか。かりにも人ひとりが死んだ事を捉えての表現としては不適切であろう。事件後に達成された経済成長が「飴玉」であることは頷けるとしても、事件そのものが「飴玉」であろうはずはない。下山事件の意味としてなら、「飴玉」の裏返しとしての「鞭」が適当ではないのか。アメリカから与えられた飴と鞭によって今日の日本があるということならば、この文章も納得できるではないか。
本書の著者は、ことさらに「鞭」という表現を避けているように見える。しかも、避けていながら「飴玉」という言葉によって「鞭」を連想させているかのようだ。
ところで、本稿の<意図/第5章>において紹介した鈴木市蔵の見解、“アメリカ帝国主義のいうなりになる日本支配層をつくりだすための、そのための脅迫性をもった「警告的宣言」という意味あいが下山事件を貫いている。”との指摘も、まさしく「鞭」という言葉を思い起こさせる。
本書の著者は、実は、鈴木市蔵の見解を肯定しているのではないか。見解自体の紹介はしていないが、鈴木市蔵の名前は第5章以外にも登場する。第7章(動機)の末尾にこうある。
(p.263)“堂々巡りに陥りそうになる思考を止めてくれたのは、ふいに浮かんできた、ある老人の顔だった。八十八歳になる労組左派の重鎮、鈴木市蔵が、忘れられないと口にした言葉がある。
「整理の主体は国鉄側にない。それは政治である」
事件の四日前、運輸大臣の大屋晋三が労組代表に首切りの断行を告げた場で、下山はこう漏らしていた、というのである。”
そもそも、一章を割いて鈴木市蔵と「九・一五闘争」について触れていること自体、読者の注意を彼に向けようとしているのではないか。それでいながら、その鈴木のユニークな見解については沈黙している。熱心な読者が、自身で鈴木の著書に目を通し、自らの発見としてその見解に到達するように仕組んでいるとは考えられないか。
本稿は、本書を読み込むことによって実行犯や偽装の構図、さらには事件そのものの意図について推測を重ねてきた。振り返ってみれば、それらの推測の一つひとつが著者によって誘導されていたのではないかとの思いに陥る。実は著者は、全てを解明し尽くしているのではないか。解明し尽くしてはいるが、それをあからさまに述べることはせず、注意深い読者の読解にゆだねているのでは。
しかし、なぜ? 何のために?
事件の真相を公表することが身の危険につながる恐れがあるからだろうか。しかし、本書はCIAの元諜報部員三人に対するインタビューを主要な内容としている。最初からCIAに焦点が絞られていると言ってもいいだろう。CIAの了解または黙認の下に出版されたと考えていいのではないか。身の危険などあろうはずもない。
むしろ、何らかの効果を狙ってのことではなかろうか。真相をあからさまにはしないが、かといって、ひた隠しにするわけでもない。真実味のある、しかし漠然とした印象を与えることによって、さまざまの理解を可能にし、さまざまの反応を呼び覚ます。人々の関心を下山事件に誘い、戦後の一時期を回想させる。そして、終章の文章は以下のように続いている。
(p.340・341)“では、飴玉をもらった結果、日本はどうなったのか。
「戦後が死んだ」
作家の野坂昭如はそう表現している。
思考停止。判断回避。現状容認。直情径行。責任放棄。他者依存……。だれかに拠りかかり、決定を委ね、みずからは何も引き受けないという、戦後、半世紀をすぎた日本の、日本人の姿を指しているように思えてならない。
斎藤茂男は、戦後の自由や民主主義はそもそもスタート時点から、見せかけ、まやかしの幻影だったのかと思えてくる、と『夢追い人よ』に書いている。
<戦後という時代がもし、そんな虚構から出発し、人間にとって譲り渡すことにできない自由などというものの価値を、実ははじめから知らずに過ごしてきているのだとしたら、「人間」ばかりがやたらと貧しくさせられていく、この効率至上主義のモノ・カネ超大国の現在は、当然の結果というべきかもしれない> ”
著者は、どうしろと言いたいのか。
(p.341)“下山事件当時、国民の大半がそれとは気づかないまま巨大な力に操られていたのかもしれない。日本の分岐点となったあの夏、やはり歴史はねじ曲げられたのではないか。”
ねじ曲げられた歴史を元に戻せと言うのだろうか。ねじ曲げた連中をやりだまに挙げろということなのか。
(p.341)“米国立公文書館別館、マッカーサー記念館の館員ゾベルは言った。
「まだ公開されていない資料がたくさんある。なかでも事件のカギを握るひとり、(G2部長の)ウィロビーのファイルだけがなぜか、まったく解禁されていないんです。そこに真相が眠っている可能性は大きい。いつか公開されることになるのか、それとも、その日は来ないのか。ただ待つしかないのですが……」
あの「九・一一」以来、「世界は変わった」と言われた。しかし、実際に変わったのは「世界」ではなく「アメリカ」だった。「正義」という錦の御旗を振りかざして独走しようとする姿に、どこかあの夏の影に似たものを感じるのは気のせいだろうか。”
「テロとの戦い」を掲げるアメリカ、ブッシュ政権に追随することを止めろということだろうか。いや、それだけではないようだ。
(p.341・342)“半世紀前、消息を絶つことになる七月五日の朝、下山は自宅を出て都心へ向かう公用車のなかで、こんな言葉を漏らしている。
「今朝は佐藤さんのところへ寄るんだった」
しかし、思い直して、そのまま車を走らせた。轢死体で発見される十六時間ほど前のことだ。いったい、どんな用件があったのだろうか。
それから十五年。佐藤栄作は奇しくも下山事件が殺人事件としての時効を迎えた一九六四(昭和三十九)年、第六十一代内閣総理大臣に就任した。そして、こう繰り返すようになる。
「沖縄が祖国に還らなければ、日本の戦後は終わらない」
しかし、沖縄が返還されて三十年がすぎたいまも、日本の戦後は終わっていない。一九四九年の夏が闇に葬られているかぎり、終わることはない。 (未完)”
一九四九年の夏を闇に葬ってその後の日本を率いてきた政治家達を告発しているのか。文末の“未完”とは、単なる技巧的表現ではなく、このままで終わらせてはならないというメッセージとも読める。
それにしても、本書の出版をCIAが了解しているのだとすれば、アメリカ批判の結論というのはおかしいかも知れない。だが、占領下におけるCIAとG2の対立という図式を思い出せば不思議ではなくなる。アメリカの中に対立が存在するのだ。本書の出版より二年ほど後のことになるが、ブッシュ政権下の2005年、CIAはアメリカ政府部内における中枢情報機関としての地位を失う。CIAにとってもアメリカは変わったのだろう。
CIAの設置は1947年の国家安全保障法によっているが、同法により同時期に設置されたのが国防総省だ。大統領に直属し外交面での情報活動を受け持つCIAと、それまでの陸軍省・海軍省、さらに新設の空軍省を統括する国防総省とが並び立つことになった。占領下の日本におけるGHQやその部局であるG2は、とうぜん国防総省の影響下におかれる。
軍事における情報活動は、古来、常識である。キャノン機関がそうであったように、軍内にはそのための部署が存在している。にもかかわらず、軍の情報部門とは別に新たな情報組織が作られた理由は何なのだろう。純然たる軍事を超えた、広範囲な政治という観点ではないか。国境線を間に敵と対峙する軍の発想とは異なる、世界中に活動の領域を見出す広範囲な情報収集と秘密工作の必要性だ。
二度の大戦を経たヨーロッパ、そして世界は、国境線によって隔絶される社会の存続を不可能にしたと言えるかもしれない。何事であれ、国際的な交流・影響の下に動いていく時代の到来である。軍事に限らず、経済・文化など様々な領域で世界をリードすべき位置に立ったアメリカとして、そうした時代に適合した外交を進める上での情報・工作が求められたということではないか。
そして、軍事の分野でも似たようなことは始まっていた。東西対立だ。一国のみの戦略とは異なる、対共産圏という軍事戦略が求められていた。ただし、軍事を主眼とするのか、非軍事を含めた外交全般を主題とするのか、そこには微妙な違いもあったろう。常に敵を必要とする軍事と、世界への影響力強化を目指す政治の違いだ。だからこそ、大統領直属の新たな情報機関が作られたと考えるべきだろう。CIAと国防総省が同じ国家安全保障法によって同時にスタートしたのは、まさしく戦後という時代の反映だったのだろう。
しかし、そうした戦後世界も1991年末のソ連崩壊によって決定的に変化する。東西対立の終焉である。共産圏諸国を敵として組み立てられてきたアメリカの軍事戦略はその役割を終えることになった。ソ連との軍拡競争によって肥大化した米軍と、それを支える軍事関連の産業や研究は目的を見失うことになった。10年後の“「九・一一」”までは。
ブッシュ政権下の「テロとの戦い」は、軍事上の新たな敵の発見でもあった。しかも、この敵は、国境線の向こう側に対峙する敵なのではなく、国内はもちろん世界中のいたるところにひそむ神出鬼没の敵である。敵の影を察知すべき情報活動は不可欠のものとなる。軍の情報機関は全世界を対象に、あらゆる領域でその活動を展開しなければならない。こうして、CIAに求められてきた役割との違いはほとんど消滅することとなる。残る違いは、軍事を主眼とするか否かだ。
ここで、軍産複合体という言葉に思いあたる。1961年1月、アイゼンハワー米大統領の退任演説で言及された、米国の政治を左右する勢力としての概念だ。ブッシュ政権は、ソ連崩壊後に削減された米国の軍事費を東西冷戦時代以上に増大させた。それに先立つ8年間の民主党政権下で黒字に転換していた財政収支は、またたくまに赤字に戻った。戦争政策を機軸とするブッシュ政権下において、CIA独自の仕事はなくなってしまったのかも知れない。お払い箱寸前のCIAがブッシュ政権を批判の対象とすることに不思議はないのだ。
とはいえ、アメリカの政治を左右するのは軍産複合体だけではないだろう。20世紀後半という時代のなかで、CIAが果たしてきた役割もあるはずだ。本当に彼らは無用の存在と化してしまったのだろうか。
考えられることの一つは、CIAの設置を必要とした国際化という時代の趨勢が、グローバル化という新たな段階に達したということだろう。国際化とは国家と国家の関わり方と言えるが、グローバル化とは国家を超えた関わりが主流をなすということだろう。アメリカの政治を左右してきた別の勢力にとっては、アメリカという国の利用価値自体が低下したのかも知れない。あるいは、それまで外聞を憚った工作の多くが公然と行えるようになったのかも知れない。近年盛んなNGOなどは世界中を活動範囲として時代を牽引する花形の地位にあるかのようだ。もはや、こそこそ隠れてやる必要はないのだろう。
さて、ここまで終章の記述にみえたアメリカ批判の意味について考えてきたが、本書がアメリカ批判を展開しているというわけではない。本書が強調するのは、“日本の戦後は終わっていない”“国民の大半がそれとは気づかないまま巨大な力に操られていたのかもしれない”ということだ。そして、その巨大な力に奉仕することでみずからの地位を築いてきた者達を名指しすることのようだ。
わずか6ページの終章において、そのはじめと終わりの二度にわたって名指しされているのは佐藤栄作だ。書き出しはこうなっている。
(p.337)“二〇〇一年秋、夕刊を眺めていた僕はふいに、見出しの文字に引き寄せられた。
(佐藤元首相 「平和賞」に疑問)
下山事件を追いかけるうちに、僕のなかで疑惑の人物として浮かび上がってきた佐藤栄作の名前が太字で躍っていた。
ノルウェーのオスロから配信された記事は、ノーベル賞委員会が創設百周年を記念して出版した「ノーベル平和賞 平和への百年」のなかで、一九七四(昭和四十九)年の佐藤元首相への授賞に疑問が投げかけられている、と伝えていた。著者である三人の歴史家のひとり、オイビン・ステネルセン氏が語ったという言葉は強烈だった。
<「佐藤氏を選んだことはノーベル賞委員会が犯した最大の誤り」>
沖縄返還を実現したものの、ベトナム戦争ではアメリカの政策を全面的に支持し、その後、公開された米公文書では非核政策をナンセンスと言ったことが明かされるなど、実際の政治姿勢との隔たりが厳しく指摘されていた。
だが、問われるべきはそれだけだろうか。”
次のページには、三人の元諜報部員に続いて、第2章(接点)や第7章(動機)で扱われた人々の名前が出てくる。そして、終章の中ほどで著者はこう述べる。
(p.339)“そこに共通するのは「反共」という大義だ。逆手に取れば、それこそが事件を起こす「動機」だったとも言える。もちろん証拠はない。だが、そう考えることには矛盾もない。”
(p.340)“「共産化を防ぐ」ことが「国のため」になる。彼らはそう信じていた。だから、資本主義の道へと進むための「捨て石」として下山の死が必要だった、と割り切ることができるのではないだろうか。”
GHQの参謀第2部(G2)と、その影響下にあった日本人達は、たしかに「反共」という大義を共有していたのかも知れない。その大義の下に戦後の日本をリードしてきたのかも知れない。だが21世紀の今日、その大義は無用となった。彼らもまた、無用の存在となった。著者はそう言いたいのだろうか。
“戦後は終わっていない”とすれば、今どんな巨大な力が“国民の大半がそれとは気づかないまま”日本を操ろうとしているのだろう。その力に奉仕している日本人は誰だと言いたいのだろう。佐藤栄作に代表される政治勢力ということだろうか。戦後、「反共」を掲げて活動してきた者達だろうか。ひたすら「国のため」を口にする人々だろうか。「グローバル化」や「テロとの戦い」という世界の動きに対して、日本人・日本社会はどうすべきだと言いたいのか。
本書は朝日新聞社から発行されている。戦後の日本において常に良識を標榜し、高い見識を誇ってきたオピニオン・リーダーとも言える新聞社だ。スイス・ジュネーブ生まれの著者はその社員である。“思考停止。判断回避。現状容認。直情径行。責任放棄。他者依存……。だれかに拠りかかり、決定を委ね、みずからは何も引き受けないという、戦後、半世紀をすぎた日本の、日本人の姿を”改めるように説いているのだろうか。
しかし、“戦後の自由や民主主義はそもそもスタート時点から、見せかけ、まやかしの幻影だった”とすれば、“戦後という時代がもし、そんな虚構から出発し、人間にとって譲り渡すことにできない自由などというものの価値を、実ははじめから知らずに過ごしてきているのだとしたら”、答えを見出すのは簡単なことではないだろう。終章で引用されている野坂昭如の言葉「戦後が死んだ」と著者の「戦後は終わっていない」とは、どのように重なりどのように食い違うのだろう。下山事件を追跡して本書の著者がたどった道を、改めて歩き直してみる必要がありそうだ。著者とは違ったところへたどり着くかも知れないではないか。
第2章(接点)で、著者は戦後という時代の手掛かりとなるビルを探し当てている。
(p.54・55)“乳白色の照明が灯るレストランの窓際に、パスタを口に運んでいる美しい女性がいた。すぐ横の入り口には赤と白と緑の三色旗が飾られている。そのまま視線を動かした先に古めかしい木製の扉が見えた。予感がした。
なかの鈍い光に誘われるように扉を開けてフロアに足を踏み入れると、目の前に年代ものの蛇腹式エレベーターがあった。
「ここかっ」
僕は声になりそうな叫びを胸のなかで飲み込んだ。
奥にある石の階段は、足をかける矩面の中央がうっすらと窪んでいる。黒光りする手摺りに施された彫刻やレトロ調のランプを見て、期待は膨らんだ。「彼」の話で触れた、金の延べ板が床下に隠されていたのはこのビルなのか。「おまえのおじいさんは、下山事件に関係していたんだよ」と告白された「彼」の祖父が働いていたという亜細亜産業が入っていたのか。きっと、そうだ。五十年前、彼らはこの建物の中にいた。確かにそう思わせるたたずまいに鼓動が早まっていた。”
そして、その亜細亜産業で働いていたという元幹部を訪ねている。
(p.60)“「亜細亜産業ねえ……」
元幹部はしばらく黙り込んだ。
「おもしろいところに目をつけたなあ……。うーん、でも、どうしていまになって、それも亜細亜産業なんだい?」
葉巻の煙をくゆらせながら、こちらをうかがうような目で身を乗り出す。僕は戦後の占領期について調べていると答えた。
「そうだね、あのころは大変な時代だったからねえ……。本当のことを書けばベストセラーになる。間違いないよ」
元幹部はニヤリと笑ったように見えた。”
一方、第7章(動機)にはこんな記述もある。
(p.262)“帰り際、別荘から歩いて五分とかからないところに浅間山荘があると聞き、立ち寄ってみることにした。
そうと言われなければわからないほど建物は色あせ、ところどころ朽ちかけている。連合赤軍の学生たちが管理人の妻を人質にとって立てこもり、その救出劇をテレビが生中継で伝えたのは一九七二(昭和四十七)年、三十年も前のことだ。元内閣安全保障室長の佐々木淳行が陣頭指揮を取ったという林の木々も疎らになっている。
時代の象徴として多くの日本人に記憶されていると思われる事件の現場とはいえ、僕にはまるで実感がわかなかった。当時、僕はまだ三歳になったばかりだった。
年代にかかわらず、その時代を生きたすべての人間が無理に記憶の糸をたどらなくても思い出すことのできる事件やできごとがある。浅間山荘事件がそうであるように、下山事件もまた、そうした「集団の記憶」のひとつだった。”
著者にとっては、三十年前の浅間山荘事件は風化してしまっても、その二十三年前に起こった下山事件は風化していないらしい。何が事件を風化させ、何が事件を風化させないのか。時間だけの問題ではないようだ。
本書中「彼」と呼ばれていた人物が、三年後、下山事件に関する本を実名で出版した。「最後の証言」(柴田哲孝 著、2005年刊)だ。本稿の続きとして読解してみたい。
――――― 下山事件読解T 終わり ―――――――