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(回答先: 下山事件読解T<偽装の構図/1・4・8・9章> 自他殺不明、捜査打ち切り、G2、協力者 投稿者 下山事件 日時 2008 年 4 月 27 日 12:13:31)
下山事件読解T「葬られた夏・追跡下山事件」(諸永裕司 著、2002年12月 朝日新聞社 刊)
<意図/5章> 鈴木市蔵、従属国、国鉄一家
下山総裁殺害がCIAによって行われたのだとして、その意図は何だったのだろう。自他殺不明とする為の手の込んだ偽装工作によって事件そのものが謎となってしまうのであれば、一体何の目的があって国鉄総裁を殺害したのか理解に苦しむ。従来の他殺説に於ける労働運動弾圧や反共産主義という理由付けも、今ひとつ説得力に乏しいのではないか。
確かに、CIAに一杯食わされたG2としてなら、当初の予定は下山総裁行方不明という謎を作り出すことだったろう。さらには総裁らしき人物の轢断死体発見と自殺か他殺かの謎を。そして、その謎を背景としつつ三鷹事件や松川事件が起こることによって世論を味方とし、事態を一気に決着させようとしたと考えられる。そこでは、労働運動弾圧や反共産主義が目的であることに疑いはない。実際、下山事件の直後に相次いで起こったこれら二つの事件では共産党員や労組活動家が何人も逮捕され、労働運動の退潮と左翼勢力の衰退を招いた。だが、政府要人といえる国鉄総裁を殺害するとなると話は違うのではないか。大げさに言えば、日本政府を敵と見なす所業ということになるだろう。
アメリカの占領政策は、あくまで日本政府を通じて実施するとの基本方針であったと言われている。当時の吉田政権もGHQに対して協力的でこそあれ、決して占領者に敵対するものではなかったはずだ。下山総裁その人にしても、大量人員整理という人の嫌がる仕事を承知で総裁就任を引き受けたのであり、GHQも了解した人事だったはずだ。そういう人物をGHQが殺害したり、あるいは殺害の犯人を野放しにすることがあるだろうか。
そう考えてゆけば、事件の首謀者が、占領行政に責任を持つGHQではなく、高度な政治判断の下に秘密工作を担当するCIAであったとの推測が説得力を持つのではないか。下山事件は今日に至るも謎のままであり、様々な議論や憶測を呼びつつ、未だに決定的な理解は得られていない。秘密工作として完璧な成功と言えるのではないか。
果たしてCIAの意図は何だったのか。この点でユニークな見解を示した人物が居る。本書第5章以下にその名前が登場する鈴木市蔵だ。しかし、本書ではその見解は紹介されていない。従って、まず本書での鈴木市蔵の扱いを見ておく。
(p.160・161)“住所を頼りに見つけた木造家屋は古いたたずまいだった。玄関の引き戸を開けて声をかける。まもなく、年老いた元闘士はふらつく足元をかばうように両手で壁を伝いながら現れた。
「さあ、いらっしゃい」
それが、事件当時、国鉄労組副委員長を務めていた左派の重鎮、鈴木市蔵の第一声だった。
玄関のすぐわきにある四畳半の書斎で、僕は半分が書物で埋まっているソファの空いたところに腰を下ろした。本棚からあふれた資料が文字通り山のように積み上げられている。
事件当日の様子をたずねると、白髪の元闘士は懐かしそうに振り返った。
「私は国労本部のある国鉄本社の建物の四階にいたんだ。ちょうど窓辺で書類に目を通しているときでね。(七月五日の)夕方ごろかな、確か、知り合いの共同通信の記者が飛び込んできて、『下山さんが行方不明』だとラジオで流れているっていうんだ。もう話し合いどころじゃなくなったよ。容易ならざることだな、そう思ったね」
それというのも、街には首切りに反対していた労組を名指しで罵る声があふれていた。
「国労やりやがったなって、だれもがそう言っていてね。デマとはいえ、これは大変なことになったと思いましたよ」”
(p.164)“首切りを前に労組内部では右派と左派の対立が先鋭化し、事件を前に緊張感は頂点に達していた。
鈴木市蔵は言う。
「六月末に熱海で開かれた第十五回国鉄労組中央委員会は、大量首切りに対する運動方針を決める天王山だった。ストに踏み切ろうと訴える左派と、ストをしない『合法闘争』を掲げる右派とが正面からぶつかり合って、結論が出たのは深夜の二時半をすぎていた。結局、最悪の場合はストをふくむ実力行使をするということで落ち着いたんだ」”
(p.166)“はたして、過激派分子と呼ばれた左派は本気で鉄道を止めようと考えていたのだろうか。
時折、記憶がおぼろげになることもあった元労組副委員長の鈴木市蔵だったが、この質問への答えは明確だった。
「とにかく、世間からもマスコミからも、頻発していた列車妨害事件の首謀者ではないかとの疑いの目を向けられる四面楚歌の状態で、そんなだいそれたことを起こせるような力はとてもありませんでしたよ」
首切りに抵抗するストをめぐり、当局との交渉が大詰めを迎えていた六月末、鈴木は代々木の共産党本部に乗り込んでいる。
「この戦いの先頭に立って、スト成功のための奮起を全党員に訴えてほしい。それなのに、『アカハタ』は我々の闘争に水をさすような論評を載せている。党の真意はどこにあるのか」
労組が掲げるストを後押しするつもりがあるのか、と党の方針を問い質したのだ。
党政治局を代表して面会した伊藤律と志田重男の二人は黙っていた。しばらくして、伊藤は「政治局見解」というものを語りはじめたという。”
(p.167)“鈴木に理論武装はできていなかった。伊藤が追い討ちをかける。
「占領下であり、(一九四七年にマッカーサーが労働争議を禁じた)ゼネスト禁止命令はまだ生きている。これに反する党の方針、指導は党自身の合法性の問題に発展する危険を持っている」
つまり、共産党はスト決行という実力行使への後押しはしない、と宣言したのだ。
「ああ、見捨てられたのだなと思いました。もはや、地下に潜って非合法活動をやっていた、かつての共産党ではない。合法的な戦術をとるべき、つまりストはするなというのが中央の方針だった。結局、GHQに逆らうことができないとわかったんです。がっかりして力が抜けました」
いまにも崩れそうな本の山に囲まれながら、鈴木は静かに言い添えた。
「共産党はストにさえ反対なのに、下山さんを誘拐して殺すなんてできるわけないじゃないですか。まして、その後ろ盾もない左派労組に何ができたというのでしょう」”
本書においては鈴木市蔵を事件当時の生き証人として、なかんずく、下山総裁と相対峙していた国鉄労組の中心人物として取り上げている。そうした立場にあった鈴木市蔵自身は下山事件の意味をどのように捉えたのか。事件から32年後の1981年に出版した自著「下山事件前後」の中で次のように述べている。同書の184頁から185頁にかけての文章を以下に引用する。
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(引用開始)
下山事件の翌年、一九五〇年にはアメリカ帝国主義による朝鮮侵略戦争が開始され、日本共産党中央委員会全員は政治追放され、全労連と朝鮮総連は解散させられた。その年の夏、現在の自衛隊の前身である警察予備隊が創設される。また、全ての産業、企業にわたってレッド・パージが行われ、一万数千の活動家が職場と組合から追放されたのである。サンフランシスコでの単独講和はこうした強圧下で調印され、安保体制下の事実上の従属国としての日本がつくりだされたのである。
「下山さんが死んだことによって、自分は東芝の首切りについての確信を得た。そのおかげで、東芝の企業の再建をしとげることができた。その意味で、決して下山国鉄総裁の死は、日本経済の再建にとって犬死ではなかったと思う」
東芝の会長であり経団連の会長であった故石坂泰三はそう述懐している(『日本労働運動の歴史』一八八頁)。
下山事件、この謀略性が真に意味するものは、アメリカ帝国主義への従属の強制、――そういう言葉がもし抽象的であるならば、アメリカ帝国主義のいうなりになる日本支配層をつくりだすための、そのための脅迫性をもった「警告的宣言」という意味あいが下山事件を貫いている。いわば、石坂のいうとおりに、その死は日本経済の再建、真の意味では、アメリカ向け日本資本主義の再建のために必要な徹底的な合理化計画、無慈悲な首切り遂行のための「スケープ・ゴート」としての意味をもつものであった。このことに、逆らうもの、消極的なもの、善意の日和見主義、そういうものは敵性的で、必要とあらば血祭りにあげるのもやぶさかではない。それは労働者や共産主義者に止まらない。権力機構の一員であっても決して容赦しない。そういう帝国主義的威圧としての意味を、その死によって「宣告」したのが下山事件の本当の意味であったと思う。この事件でもっとも恐怖にふるえたのはむしろ、日本支配層であり、独占的な企業経営者それ自身であったろう。
かれらは下山事件の二の舞になることを恐れねばならない。そのためには率先して労働者の首を切らねばならない。石坂発言の中の「確信」とはそういう恐怖を背後に感じながらの「確信」であったろう。
一九四九年の国鉄闘争にまつわる事件、下山、三鷹、松川の三大事件に共通する謀略性の特徴は、政治的で、組織的であることによって、計画的な国家的犯罪という、烙印をつよく押しだしている。しかも、きわめて非日本人的な性格をもつものとして……。これが特徴である。
――― 以上、「下山事件前後」(鈴木市蔵 著、1981年7月 亜紀書房 刊)からの引用。
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驚くべき指摘だ。しかし、言われてみればなるほどとも思える。政府要人たる人物の殺害なのだから、日本政府及び政府を支える日本指導層への威嚇と考えることに無理はない。問題は、誰による威嚇かという点だろう。
「国労やりやがったなって、だれもがそう言っていてね」という鈴木の言葉は、事件直後の街の様子を伝えている。事件を知った多くの人々がとっさに思い浮かべたのが、人員整理をめぐって下山総裁と対峙していた国労であって不思議はない。むしろ素直な反応と言える。だが、当の国労の中心にいた鈴木にとって、それはあり得ない事だった。鈴木の目には、日本政府の背後にいて全てを指揮するアメリカの存在が大きく浮かび上がったということだろう。
とは言え、アメリカに協力的な吉田政権及び日本指導層に対して血なまぐさい威嚇が必要なのだろうか。むしろ、一つ間違えれば逆に不信と反抗を呼び覚ます危険もあるのではないか。敗戦国とはいえ、つい数年前まで挙国一致体制で戦争を遂行してきた国ではないか。
ここで我々は、戦勝国アメリカの立場に立って考える必要があるだろう。日本を占領しているアメリカとしては、敵対的であった国家・国民をどのように取り扱えばよいのか。
まず、率先して戦争を遂行した勢力を壊滅させることはもちろんだが、それを支えた挙国一致体制そのものの解体も不可欠だろう。戦後の民主化政策といわれる農地改革や財閥解体は、そうした意味をもつものと考えられる。戦時体制下で非合法化されていた共産党をはじめとする左翼勢力の活動を認めることも、そうした狙いがあったに違いない。
しかし一方で、アメリカに協力的な国家としての再建も忘れてはならない。そのためには、戦時中と異なる新たな日本指導層の育成・支援も欠かせまい。そうした役割を担い得る人々にリーダーとしての自覚や自信を植え付ける必要もあったのではないか。
本書第5章にある記述は、こうした観点から戦後間もない日本社会を考える参考になる。下山事件の三年前、終戦一年後の夏に起こった大量解雇をめぐる国鉄内の争議だ。
(p.168)“事件の三年前となる四十六年の夏、まだ国鉄が誕生していない運輸省鉄道総局時代に、七万五千人の首切りが打ち出されていた。戦後初めてのことだった。
担当部局のトップは鉄道総局長官の佐藤栄作である。のちに首相として沖縄返還を実現させてノーベル平和賞を受けることになる人物は当時、運輸省の役人だった。そして下山が死んだときの国鉄副総裁、加賀山之雄が職員局長だった。
一方、労組では、首切りにはストで対抗しようという左派と、国民の足を預かっているのだからストはすべきでないという右派が対立していた。下山事件を前にいっそう熱を帯びることになる労組内対立の潮流はすでに生まれていたのだ。結局、話し合いは収拾がつかず、左派から送り出されていた労組委員長がみずからの判断でストを決断することになった。
こうして迎えた大詰めの労使交渉の様子を、元交通新聞記者の有賀宗吉は『国鉄の労政と労働運動』で描いている。
<舞台は三転、(九月)十四日七時五十五分から長官室で運輸大臣との会見に移った。
『交渉に入る前に申し上げたいが、この会見が十一時までにまとまらない場合はゼネストに入ります』
鈴木清一委員長がまず申し入れる.。双方ともに妥協しようという気持ちになっているので、言葉のやり取りは静かだった。”
(p.171〜173)“当時、朝日新聞の労働担当記者だった村上寛治は、交渉の席を取り囲む新聞記者の一群から一部始終を見守っていた。
「佐藤栄作が『わかった。俺が負けた』と言って、首切りを撤回したんです。それは衝撃的な場面でした」
労組委員長の鈴木清一はかつて一介の線路作業員だった。その作業員を前にエリート官僚が頭を下げたからだ。
「ああ、時代は民主主義の世の中に変わったんだなあ、としみじみ思いましたよ。いまでも、あの場面は忘れられません」
ストが予定された日付から「九・一五闘争」と呼ばれることになる交渉で最後に頭を下げた佐藤にすれば屈辱的だったに違いない。佐藤の三回忌を前にした一九七七(昭和五十二)年春に編まれた『鉄道人 佐藤栄作』には、労組委員長だった鈴木清一がこんな文章を寄せている。
<現在とは違いアメリカの占領下でしたから、何を決めるにも相当な覚悟が必要でした。日本政府や国鉄当局だけの考えでは決まらない時代でした。佐藤長官も馘首取り消しを回答するまでには、大変悩んだことだろうと思います。交渉が妥結して調印し、私は平山(孝・運輸次官)さん、佐藤さん、加賀山さんと握手しました。そのときです。ふと佐藤さんの顔を見ますと、涙をいっぱいためており、いまにもこぼれ落ちそうでした>
佐藤自身はどう思っていたのだろうか。一九六四(昭和三十九)年に著した『今日は明日の前日』のなかで、こう振り返っている。
<本当に鉄道がとまるのではないかという際どいところであった。(中略)先輩の人たちからはストライキにならなくてよかったといわれたが、労働運動やこれに対処する管理者のむずかしさを考えさせられた事件だった>
首切りに向けて現場を指揮していた加賀山ものちに、こう記している。
<きっかけをつくったのは私にほかならないのだが、(中略)当時、組合というものに対する認識が足りなかったし、やり方も非常にごつごつしていた。当時はあの手よりない、と思っていた>
無理もない。実際は首切りを進める当局側も、これに抵抗する労組側も、どう闘いを進めていくかという戦術どころか、労働運動というものがどんなものであるかさえわかっていなかったのだ。僕にそう教えてくれたのは元朝日新聞記者の村上だった。
「民主主義のなかで労働運動をやった経験者なんて、ひとりもいなかった。社会党や共産党の戦前からの闘士も、弾圧に抵抗した体験は誇らしげに語ったが、民主主義のなかで労働運動をどう進めていくかについては戸惑っていた。政党の指導者も、当局の局長も課長も事務官も、組合の役員も活動家も学者も、そして僕たちジャーナリストもみんな手探りだった。当時、『民主主義について』という論文を書ける大学教授なんていなかったんじゃないかな」
いずれにせよ、首切りが回避されたことで、大量の余剰人員という課題はそのまま持ち越されることになった。
そして三年後、国鉄総裁の下山定則の死を招くことになるのが十万人の首切りだった。”
(p.165)“それまでの国鉄は「国鉄一家」と呼ばれ、家族になぞらえられるほどの労使協調ぶりで知られていた。駅長や区長が権威をもち、従業員も上司を「おやじ」と呼ぶような関係だった。複数の元国鉄幹部がそう話している。その「血の通った」国鉄が変わろうとしていた。”
以上の記述から見えてくるのは、戦前の挙国一致体制の下でつちかわれた日本社会の一体性であり、合理化のための人員整理すら思うにまかせない企業管理者の苦渋である。占領者の立場から見れば、管理者の不甲斐なさも問題だったろう。「血の通った」国鉄を変えるための人身御供として国鉄総裁の轢断死体が必要であった理由もそこにあると考えれば説明がつく。
自殺か他殺か、誰が殺したのか、そんなことより重要だったのは、あいまいな妥協やなれ合いが許されない、命がけの決断を要求される時が来ているのだと日本人の全てに知らしめることだったのだろう。
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