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下山事件読解T<偽装の構図/1・4・8・9章> 自他殺不明、捜査打ち切り、G2、協力者
http://www.asyura2.com/05ban/ban5/msg/486.html
投稿者 下山事件 日時 2008 年 4 月 27 日 12:13:31: XlGOPZqQMF/ZQ

(回答先: 下山事件読解T<実行犯/3・6章> 延禎、ジョージ・ガーゲット、CIA 投稿者 下山事件 日時 2008 年 4 月 27 日 11:54:17)

下山事件読解T「葬られた夏・追跡下山事件」(諸永裕司 著、2002年12月 朝日新聞社 刊)
<偽装の構図/1・4・8・9章> 自他殺不明、捜査打ち切り、G2、協力者


(p.105・106)“下山事件とは何だったのか。半世紀たってもなお、解決はおろか、自殺か他殺かさえはっきりしない。僕はあらためて事件がかかえる闇の深さに思いを馳せていた。”


第4章(牽制)で著者が記した言葉だ。


(p.108)“下山総裁の死を巡る自他殺論争が事件直後、社会を二分したことはすでに触れた。
 捜査機関内では、大原のいた警視庁捜査二課と東京地検が「他殺」、のちに『下山国鉄総裁事件特別捜査報告』(下山白書)をまとめた捜査一課が「自殺」の立場をとり、マスコミでは、いちはやく目撃証言を報じた毎日新聞が「自殺」、朝日新聞と読売新聞が「他殺」に色分けされた。
 また、事件後、死体鑑定を担当した東京大学医学部(古畑種基主任教授)は、下山総裁が死んだあとに列車に轢かれたとする「死後轢断」(他殺)、のちに捜査一課から鑑定の評価を求められた慶応大学医学部(中舘久平教授)は、下山総裁は生きたまま列車に轢かれたとする「生体轢断」(自殺)と、意見はくっきり割れていた。”


本文は以下、当時の関係者で存命する人物を探し出しての取材の様子を、他殺説・自殺説それぞれに関する過去の資料を織り交ぜながら描いている。


(p.155)“しかし、取材を重ねていくうちに、僕はこう思うようになっていた。
 自他殺どちらとも結論がでないという、この状況こそが本当の狙いだったのではないか。言い方を変えれば、何者かが自他殺どちらにも見えるように細工したのではないか。”
(p.156)“事件を耳にした大半のひとが「総裁は殺された」と考えたという状況で事件が起きれば、世論の矛先が、首切りに強硬に反対していた共産勢力へ向けられることは容易に想像できる。”
(p.156・157)“犯人なり、事件を計画したグループがいるとすれば、狙いは首切りを阻止する左派労組とそれを支える共産勢力の追い落としではなかったか。ただ、捜査が進展すれば、共産勢力が関与していないことは間もなく明らかになるだろう。そして、犯人には追及の手が迫ってくる。そこで考えたのが、自殺に見せかけるという仕掛けではなかったか。
 総裁がみずから命を絶ったとなれば、他殺ほど強い風当たりは生まなくても、共産勢力が死へ追い込んだという感情的な反発は呼び起こせる。それに捜査網からも逃れやすくなる。
 つまり、他殺かもしれず、自殺かもしれない。他殺だとしても犯人はわからない。共産勢力が「殺害」に手を染めたのではないかという疑念を膨らませたまま、うやむやにする。
 それが最も政治的効果が高かった。
 事件を起こしたのは共産勢力の弱体化を狙う何者か。そして、自他殺不明となるように自殺説へと導くための布石を打ったのではないか――。”


捜査の手を逃れるために自殺の偽装が行なわれたと著者は述べている。しかし、偽装はそれだけだろうか。他殺を疑わせる多くの物的証拠が残っているのに、自殺の可能性があるからといって他殺にかんする捜査の手が緩められたりはしないだろう。


(p.144)“他殺とにらんで地道な捜査を続けてきた捜査二課は事件から五ヶ月が過ぎた一九四九(昭和二十四)年十二月、突然、解散の危機に追い込まれる。現場を指揮していた担当係長が“汚職事件”に連座したとの疑いをかけられて転出させられてしまったのだ。しかも、なぜか上野署次長(警視)への「栄転」という形だった。”


なるほど他殺の捜査は不明朗な形で終結させられており、あえて偽装の必要はなかったのだという見方もできる。しかし、そうした事態に陥るのは事件から五ヵ月後である。

自他殺不明とするには、他殺と睨んでの五ヶ月間にわたる捜査にも耐え得る偽装工作がなされる必要があったと考えるのが当然ではなかろうか。では、どのような偽装だろうか。他殺であることを確信させ、しかも、捜査を見当違いの方向へ導き、結局行き詰まらせる偽装ということになるだろう。


(p.109・110)“他殺説の根拠とされるのは何よりも現場の状況だ。
 捜査二課の刑事だった大原は日本酒の一升瓶をわきに立て、湯飲みでチビチビやりながら、しまいには事件が解決しなかったことへの悔しさをにじませた。
「あんたの先輩でよ、下山病にかかっちまった矢田さんっていう記者がいてよ、そりゃあすごいことをやったんだよ」
 矢田は一九一三(大正二)年生まれ。早稲田大学在学中の三六(昭和十一)年に、ベルリン五輪に出場し、陸上の走り高跳びで五位入賞をはたす。朝日新聞入社後は、社会部記者として菅生事件などの報道で活躍したほか、初めての南極観測隊派遣を成功させたり、シルクロード踏査行やミロのヴィーナス日本展を仕掛けたりするなど、新聞記者の枠を越えて活動していた。
 とくに下山事件報道ではいくつもの重要証言を引き出し、のちに書き上げた『謀殺下山事件』は劇団民芸の舞台にまでなった。当時、共同通信にいた斎藤茂男とは社の枠を越えて情報交換するなど、ともに事件を追い続ける仲だったという。
 その矢田はある日、轢断地点の上手側、つまり列車が進んでくる北千住寄りに血痕が見つかった、という情報を聞き込んだ。さっそく現場に出向き、一本の枕木に血痕がついているのを見つけた。しかし、膨大な数の枕木すべてを確認するのは物理的に難しい。そんなとき、血液付着の有無を見極めるための薬品があることを知る。矢田は焼け残った本郷界隈の薬屋を訪ねて回り、ルミノールという薬品を手に入れた。液が血液につくと暗闇で浮かび上がるルミノールはいまでは警察の鑑識活動の常識となっているが、当時はあまり知られていなかった。
 そして、ある晩、矢田はルミノール液を入れたポンプを背中にかつぎ、みずから線路上に噴霧しながら歩いた。その結果、四つの血痕群、計四十六ヶ所の血痕が闇夜に浮かび上がった。
 下り線の轢断地点近くからはじまる第一血痕群(二四ヶ所)、上り線に移っての第二血痕群(六ヶ所)、間をおいて第三血痕群(八ヶ所)、はじめの血痕から二百メートルほど離れた第四血痕群(八ヶ所)、さらに、土手の下にある廃屋に近いロープ小屋からも三本指の跡が残っていた(上図参照)。しかも、血液型は下山のものと一致した。
 矢田が見つけた「血の道」は轢断地点から列車の進行方向とは逆方向のレール沿いに、線路わきのロープ小屋まで約二百メートルにわたって続いていた。死体が自力で逆に移動したとは考えられない。とすれば、血の滴る死体を何者かがロープ小屋から轢断地点まで運んだと考えるほうが自然だろう。”


名物新聞記者の面目躍如といったところだが、いかにも出来すぎているのではないだろうか。一本の枕木についていた血痕からすべての枕木を確認しようと思い立ったのもナカナカだが、当時あまり知られていなかったルミノールという薬品のことを運良く知ったことも、そして、その薬品を再び運良く手に入れることが出来たのも、なにやら不思議なことだ。

また、轢断地点近くからはじまる第一血痕群に見られる血痕の数は、他の各血痕群におけるそれの三倍に達している。もし、ロープ小屋から死体を運び出し轢断地点まで運んだのであれば、ロープ小屋に近い方により多くの血痕が残りそうなものだ。そして、死体を隠した可能性のあるロープ小屋には三本指の跡だけしかない。

さらに言えば、文中に“(上図参照)”とある上図をみると、轢断地点とロープ小屋の間でほぼ50メートルにわたって上り線路と下り線路の両方に並行して血痕が記されている。まさかジグザグに進んだわけでもなかろうにおかしなことだ。

要するに、“血の滴る死体を何者かがロープ小屋から轢断地点まで運んだと考えるほうが自然だろう”とは言えないのではないか。「血の道」は偽装の可能性があり、“新聞記者の枠を越え”た新聞記者である矢田をうまく誘導してそれを“見つけ”させたとも考えられる。


(p.111〜113)“他殺の根拠として、大原はほかにも四つの点を指摘している。
 第一は生活反応である。
 轢断された遺体には合計で三百八十ヶ所の疵があったが、睾丸や両手足の皮下出血といった一部をのぞけば、轢断による生活反応(生きているときにしかみられない出血や炎症)はほとんどなかった.つまり列車に轢かれたときはすでに死んでいたと考えるべきだろう。
 第二に遺留品。
 総裁がつけていたはずのメガネやライター、ネクタイピンは、付近を徹底して捜索したにもかかわらず、ついに見つからなかった。真っ二つに轢断された靴に塗られていた靴墨も総裁が普段使うものとは違っていた。大原が説明する。
「いつもの橙色ではなくチョコレート色の靴墨が塗られていた。靴ひもの結び方も、総裁のいつものやり方とまったく違うことを、奥さんが証言しているんだ」
 第三は油である。
 警視庁から東大裁判化学教室にもちこまれた下山の衣類には、轢断事故にもかかわらず血痕がついていなかった。そして、なぜか大量の油が含まれていた。ズボンの一部や肌着、褌にはベットリと染みこみ、ワイシャツにも襟から右胸にかけて油がついていた。だが不思議なことに上着にはほとんど油はなく、内ポケットに染み跡が残っているだけだった。
「洋服をはぐごとに油が染みているんだ。洋服を着ていたとしたなら逆に、外側の上着のほうが余計に染みるはずだ。ということは、下山総裁はどこかで洋服を脱がされた。そして、裸に近い状態で油にまみれることになったと考えるのが自然じゃないか。油のある工場かどこかで……」
 上着ボタンは前の上二つを残して千切れていた。下山は無理やり上着を脱がされ、殺害後に再び着せられたのではないか。大原はそう推測した。
「それだけじゃなく、靴の内側には油気がまったくなかったんだ。肌着、褌、靴下は油まみれだったのに。ということは、轢断の瞬間、総裁は靴を履いていなかったということになる。ところが、ご丁寧にも右の靴は列車に轢かれて裂けていた。つまり、脱がせた靴を何者かがレールの上に置いたとしか考えられないだろう」
 この油について東大法医学教室が調べたところ、機関車や貨車に使われる鉱物油ではなく、最終的に米ぬか油だとわかった。衣類の油を測ってみると約二合あったという。
 大原によれば、当時は物価統制の時代で、油は政府の油糧公団が配給していたため入手できるルートは限られていた。それを突き止められれば「殺害現場」も特定できるかも知れないほど、米ぬか油は貴重な手がかりだと思われていた。
 油に加え、事件の謎を解く手がかりがもうひとつあった。第四のカギとなる色素だ。
 下山の衣類には青緑、紫、赤、褐色の色素がついていた。鑑定を担当した東大法医学教室の主任教授、古畑はこの色素が轢断列車の積荷にはついていなかったことから、こう推測した。
「油と同じように、下山さんが轢断される前、つまり、どこかよその場所に連れていかれたときか、あるいは、運ばれたときに着いたものに違いない」
 それに符合するかのように、色素は上着を着てネクタイを結んでいれば着くはずのない襟の裏側からも検出されたという。また、褌には色素だけでなく鉄分が付着し、ハンカチから油と色素が見つかり、手の爪からは鉄紛、色素、ペンキ片、繊維が検出された(「文藝春秋」一九七三年八月号)。
 調べをすすめるうちに色素は塩基性のものとわかり、その出所を突き止める捜査を大原が担当することになった。
「この色素はおもに絹織物や皮革製品に使われるものだったんだ。そこで、現場付近の足立区、江東区、墨田区、北区を中心に、油脂を扱う会社など五百ヶ所をしらみつぶしに歩いたよ」
 懐かしさに悔しさをにじませながら、大原は続ける。
「でも捜査員が足りないから、染料を追いかけたのは俺ひとりさ。どこも可能性があるっていうだけで捜査令状を取ってるわけじゃないから苦労したよ。炎天下を歩いて、片っ端から話を聞きにいくんだ。できるだけ工場のような現場を見せてもらって、外に出ると額には玉の汗だよ。それをハンカチで拭い取って、染み込んだ染料を調べてもらっていたんだ。怪しいところはいくつかあったが、結局、決めては見つからなかったなあ」”


生活反応や遺留品の件は他殺と思わせることに役立つし、油や染料は捜査をあらぬ方向へ導くのに役立つ。そもそも、殺害現場を特定するのに役立つような物証を素人にさえ分かるように残すということ自体おかしいではないか。自殺の偽装さえするような犯人がそんな迂闊なことをするだろうか。油や染料が衣類に付着しないようにすることは別に難しくはないはずだ。特に油は約二合もあったなどいかにもこれ見よがしだ。

また、衣類に血痕がついていなかったということは遺体は裸の状態で運ばれ轢断された可能性も考えられる。とすれば、犯人は衣類だけを殺害現場から別の場所へ運び油や染料を意図的に付着させたのち轢断地点に放置したとも言える。とにかく、他殺の根拠とされるものをそのまま信じるのは素直すぎると言うべきだろう。

では、本当に他殺の偽装が行なわれ捜査が見当違いの方向へ進んでいたのだとすれば、なぜ不明朗な形で捜査が打ち切られることになったのだろう。


(p.144・145)“座敷で向かい合った大原は冷酒をすすりながら悔しさをにじませた。
「一課は、早々に自殺と決めちまったなかで、二課は油と染料の捜査に取りかかって、ちょうど油を集め終わったころだよ、(係長が)飛ばされたのは。おかげで、ただでさえ手薄な捜査ができなくなっちまった」
 コップに三分の一近く残っていた日本酒を飲み干す。
「係長が汚職にかかわっていたなんてデマですよ。その証拠に転出先での肩書きは上がってる。悪いことしたとしたら、なぜ栄転なんだ。まったくおかしな話じゃないか」
 酔いも手伝ってか、声を上げた。
「(目的は)ただ、帳場を解散することだけ。迷宮入りさせるためだよ。よくあることでね、事件はだれかがつぶすんだ。『これで終り』なんてだれも言わないし、言う前に解散させられる。まだまだ、やれることはいっぱいあった。油をはじめ調べきれていないことは残っていた」
 なにしろ死体の鑑定書さえできてはいなかったのだ。
「(東大教授の)古畑さんの解剖所見が出ているだけ、それだって間違いだといって片付けられた。死後轢断という解剖所見と鑑定を付き合わせることもせずに解散だよ。かりに解剖所見が間違っていたとしても、捜査を打ち切ることはないでしょう。せめて物質鑑定が終わるまでは解散しないと思ってたんだけど……」”

(p.145・146)“この捜査の打ち切りをめぐっては内幕を明かす長文のメモがある。
「週刊ポスト」(一九七七年一月十四・二十一日号)が報じた、GHQ民生局(GS)公務員課の課長代理が、局長のホイットニー少将に宛てた覚書だ。「増田官房長官の秘密組織との関係について」と題され、事件から約八ヵ月後の五〇年三月十六日付で、余白に大きく「極秘」とある。報告者の名前からマッコイ・メモと呼ばれるメモはこう書き出されている。
<一九四九年十二月六日、田中警視総監は下山事件を捜査してきた吉武捜査二課係長の転任を決めた>
ともに内務省OBで警察の大先輩でもある安井誠一郎東京都知事や増田甲子匕官房長官が、係長の転任に反対して田中栄一・警視総監に圧力をかけた、という内容だ。記事は「この人事は政治問題である」と分析し、増田長官のコメントが添えてある。
<「このマッコイ・メモというのは事実無根で、まったくのデタラメだよ。私個人としては今でも下山事件は他殺だと思っているし、捜査を続けるべき事件だと思っている」>”


この件については第8章(謀略)にも言及がある。

著者は米国立公文書館ノーフォーク別館(マッカーサー記念館)を訪れて、公開されたGHQの内部文書を閲覧している。以下は、その際目にしたというGS(民政局)の覚書による叙述だ。


(p.301)“<警視庁は派閥抗争によって分裂している>
 下山事件の捜査本部が事実上、解散する直前の四九年十二月十四日付けの「警察事情」と題された文書はそう書き出され、最終的に、警視庁が「自殺」と認定して公式捜査を打ち切るという不自然な経緯を指摘している。さらに、捜査一課が自殺説、二課は他殺説と二つに分かれ対立していた理由をこう分析している。
<警視庁及び政府の政治的駆け引きと、前内務官僚の警察権力復活を狙う動きがからんでいる>
 最終的に自殺説に落ち着いたことについては、
<田中(栄一)警視総監及び坂本(智元)刑事部長は捜査一課の圧力により、下山事件は自殺でしかありえないという立場をとった>
 と捜査一課の圧力が働いたことを指摘したうえで、こう予測していた。
<殺人犯(複数)を発見することは、共犯者が仲間割れでもしない限り不可能だろう>
 また、「胃の内容物がない」「メガネが見つかっていない」ことなどから、GHQはあくまで「他殺」と見ていたことがわかる。”


警視総監が、旧内務官僚としての大先輩に当る東京都知事や官房長官の反対を押し切って、捜査担当の係長を転出させたということらしい。しかもその背景には、警察内部の派閥争いと警察権力そのものの復活を狙う動きや政府との政治的駆け引きがからんでいるという。しかし、どうからんでいるのか?これらの記述だけでは何のことか分からない。

著者は、他殺説をとっていたもうひとつの捜査機関である東京地検の元検事にも会って話を聞いている。第4章の終りにこう記されている。


(p.156)“「そうだね、いまも気持ちのどこかに引っ掛かっているのは下山事件だけですね」
 思いのほか、すぐに答えが返ってきた。それは即答と言ってもよいほどだった。
「でもね、執着したってどうしようもありません。当時でさえはっきりしないものを今さらなんて無理ですよ。それに検察や警察があれだけやっても難しいのだから……。あなたがひとりでやるのは大変でしょう」”
(p.157)“再三の質問を避けていた金沢が事件の性格について言葉少なに語ったことがある。
「ただ申し上げられるのは、非常に複雑な時代で、単純に国内情勢だけではなかった、ということです」”
(p.157)“ずっと黙り込んでいた金沢は最後にこう言った。
「まあ、(下山事件は)それだけ深みがあるものなのでしょう」”


単純に国内情勢だけではないとすれば、まず考えられるのは当時日本を占領していたアメリカの関与ということになろう。しかし、先に引用したGS(民政局)の文書からみる限りアメリカは観察者の域を出ていない。再び第8章のGHQ文書を見てみよう。GHQ内でGS(民政局)と対立していたG2(参謀第二部)の文書だ。G2は、キャノン機関を傘下に収め、諜報などを担当していた。


(p.299・300)“資料のなかから、<SPOT INTELLIGENCE REPORT> と題された速報を見つけた。秘匿を解かれたかつての極秘文書にはウィロビーのイニシャルとともに「部外秘」の判が押され、数時間ごとにまとめられた情報にG2の分析が添えてある。
 こうした公文書からは、GHQが事件をどう見ていたのかが手に取るようにわかる。
 事件が起きた四九年七月五日、午後四時四十分付の速報には、
<下山氏は、政府の人員計画にもとづく国鉄職員の大量解雇に反対する労働者から繰り返し脅迫を受けており、誘拐された可能性がある>
 というG2の見解が記されている。下山の行方がわからなくなってからわずか七時間後、報道機関がようやく動き始めたころのリポートだ。
 そして、二日後の七月七日の速報につけられたタイトルに僕は吸い寄せられた。
「MURDER OF SHIMOYAMA(下山殺害事件)」
 他殺を明言したタイトルをつけ、
<複数の人数(犯人)が殺人容疑事件に関与しているものと認められ、重要な手がかりは間もなく得られるものとみられる>(G2見解)
 と、「複数による他殺説を明確に打ち出していた。その後の報告書を見ても、GHQは一貫して「他殺」として扱っていた。”
(p.300)“ところが、八月に入ると、G2へ上げられる報告のうち下山事件に関するものがなぜか極端に少なくなる。当時、日本の警察が「戦後の最重要事件」(G2文書)と位置づけたほどの大事件なのに、である。どんな些細な情報でも文書に残す米政府の情報管理システムからすると、きわめて異例ではないだろうか。”


同じ文書に日本側の動きも記されていた。


(p.300)“さらに、吉田茂首相がウィロビー少将に事件についての情報提供を求めた書簡もあった。
<警察幹部には捜査の進展状況を報告するよう求めておりますが、まだ手許に届いていません。この事件に関して占領軍がお持ちのいかなる情報でもお寄せいただければ大変ありがたく存じます>
 日付は八月三日。結局、見送られることになるが、捜査一課が自殺説を発表しようとしていた、その日である。書簡は、日本政府がCICなどの情報網を持つG2に頼っていた様子をうかがわせた。”


事件後ほぼ一ヶ月の時点で、GHQにおいても日本政府及び捜査機関においても、事件への取り組みに何らかの変化が生じたと思われる。その変化の結果として自他殺不明から捜査打ち切りに至る流れが生じたのではないか。事件が謎とされ始めるのだ。そしてG2は、事件への関心を失ったのではないか。第3章の記述に戻る。


(p.130)“事件から一ヶ月近くになろうとする一九四九年八月三日、大詰めの捜査会議が刑事部長の坂本智元宅で開かれた。
<下山事件近く結論発表 特捜本部 自殺と断定、きょう合同捜査会議>
 この朝、同日付の毎日新聞は一面トップでそう報じている。だが、自殺という発表は結局、見送られることになる。いったい何があったのか。その経緯はいまだに明らかにされていない。”


前述のとおり、他殺の捜査はその後も約四ヶ月にわたって行なわれている。そして、G2と対立するGSはさらに翌年三月に至ってもなお日本の捜査当局の動きに注目し続けていた。こうしたなかで、他殺説をとっていたにもかかわらずはやばやと事件への興味を失ったかに見えるG2の動きについては、いま一度よく考えてみる必要がありそうだ。

上述のGHQ文書によればG2は、下山総裁の行方がわからなくなって七時間後、報道機関がようやく動き始めたころのリポートで早くも誘拐の可能性を示唆しているという。情報収集能力のなせる技なのか、それとも、当時のだれもが思いつくありふれた憶測に過ぎないのか。この素早さと対照的に、他殺を明言するに至るのは轢断死体発見の翌日となっている。死体発見は未明のことであり、その翌日ということは二十四時間を経過したのちなのだろう。殺害の判断については慎重だったということなのか。東京地検の元検事、金沢が第3章で語っている。


(p.154)“「あの日は明け方、連絡を受けて現場へ向かいました。着いたのは朝の四時ごろだったかな、まだ警視庁の鑑識課も到着していなかった」
 一言ひとこと確かめるように言葉を継ぐ。
「GHQに「確かに下山総裁だ」と連絡を入れたら、「指紋はどうだ」って聞かれてね、ずいぶん学問的なんだなあと思ったものですよ。顔は確認したけど、あのころ、日本の捜査機関はそんなことも考えていなかった」”


死体が下山総裁本人であるかどうかについて、日本の捜査機関からの連絡に対し念押しをするというのはどう考えればいいのだろう。G2には、下山国鉄総裁が死体で発見されることに対して疑念を持つべき理由があったと考えるのはうがち過ぎだろうか。

実は、第9章に面白い記述がある。第9章は、著者がアメリカ取材を行なうそもそもの目的であった元キャノン機関のナンバー2、ビクター松井への取材で構成されている。


(p.326・327)“「何も知らなかった日本人」によると、韓は「村井恵」という日本名をもつ韓国人で、明治学院大学を卒業して朝鮮銀行で働いていたところを日本陸軍の特務機関にスカウトされ、上海で「村井機関」を主宰していた。戦後は、キャノン機関の本拠地である本郷ハウスに出入りするようになったという。
 著者である作家の畠山清行が「(韓の)死後に発表する」という約束のもとに録音したという証言から、事件とビクターに関する部分を抜き出してみよう。

<その夜、韓道峰は本郷ハウスの自室で遅くまで調べものをしていた。朝鮮戦争前で、大陸情報を集めていたから、深夜まで仕事をすることが多かったのである。
 すると、電話のベルが鳴った。《こんな夜更けにだれだろう?》と思って受話器をとると、ビック松井である。松井は機関第一のやり手で、キャノンも片腕とたのんでいた二世だ。機関閉鎖後、南方の工作に回され、最近はカンボジアのシアヌーク殿下の暗殺計画で有名になった男である。香港から殿下宛てに爆弾のプレゼントを贈りつけ、包みを開いたとたんに爆発して儀典長が死んだ。そのため、殿下から名指しで非難され、国際的な悪名をはせた人物である。松井は、
「万事かたづいた、とキャノンに伝えてほしい」
 と言った。キャノンはその夜は留守だった。韓は、横浜の自宅へ帰ったものと思っていたから、《明日になれば帰るのに、自分で言ったらよさそうなものを》と思ったので、
「どこかへ行くのか」
 と聞くと、
「神戸までドライブだ。少々腐ったことがあってね。じゃあ頼むよ」
 と電話を切ったのである。
 なにが腐ったことなもんか。また新しい女でもできたんだろう。この雨のなかをご苦労様にと思った記憶があるから大降りではないが、雨が降っていたことは確かだし、その明け方、キャノンは帰ってきていたのだが、翌朝起きてから松井の伝言を伝えると、そんな大事なことをなぜ急いで伝えなかったのか、とひどく叱られた。それでよく記憶しているのだが――
 松井の伝言を聞くと、キャノンはひどく慌ててすぐ方々へ電話をかけていた。
「しまった。まずいことをやってくれた」
 などと言っているのを韓は聞いている。松井の「少々腐ったことがあって……」という言葉やキャノンの態度からみて工作になにか手違いのあったことは確かだが、――キャノンには(下山を/筆者注)殺す気はなかった。生かして脅すだけで意のままに動かせれば、それが一番だ、と考えていたのではないかと思う> ”


韓道峰なる人物の憶測に同意するとすれば、キャノン機関は下山を殺すつもりはなかった。殺すのではなく単に拉致しただけだった。ところがキャノンにとっては何かの手違いで、誰かが殺害してしまったということになる。

G2の文書は、下山総裁が失踪した日の午後には誘拐の可能性を指摘している。日本の報道機関がやっと動き始めた時点でこうした指摘が可能だったのは、G2の傘下にあるキャノン機関自身がその誘拐に関与していたからだと考えてはどうか。もちろん殺す予定などなかった。ところが翌日、下山が轢死体で発見されたとの連絡が日本側からもたらされる。G2としては耳を疑う内容だ。“指紋はどうだ”と問い返さずにはいられないということになる。

しかし、自殺や他殺の偽装を行なう以上、下山ではない誰かの死体が必要ではあっただろう。そして、その死体は下山に似ているほうがいいはずだ。轢断現場で発見された下山の名刺や衣類などは、日本の捜査機関が下山の死体だと誤認することを期待して死体とともに残すことが最初から予定されていたのだとも考えられる。ならば、日本側からの連絡に対し指紋を云々するのはかえって変ではないか。

やはりG2は無関係で、指紋はどうだとの念押しにも深い意味はなかったと考えるべきか。だが、要するにG2は混乱していたのかも知れない。拉致誘拐失踪という筋書きのみを聞いていた者、その先の轢断死体発見(但し、下山とは別人)さらには偽装工作というシナリオまで知らされていた者、そして全てを承知していた者、人によって反応はまちまちだったのだと。

轢断死体発見の翌日になって殺害事件と断定したG2文書は、“重要な手がかりは間もなく得られるものとみられる”との見解を示している。殺害事件となれば犯人を探し出さねばならない。重要な手がかりというのが犯人につながるものだとすれば、当然、G2自身ではない何者かについての手がかりなのだろう。しかし、結局その手がかりは示されなかったということではないのか。やはり、G2の中に混乱があったと考えることができそうだ。仮にG2が事件の首謀者であるか実行者であるかしたとするなら考えられないような混乱が。

結局G2は利用され、そして、肝心な部分で一杯食わされたのだろう。肝心な部分というのはもちろん下山総裁を殺害することだ。G2が聞かされていたシナリオはこうではないか。下山総裁を拉致し行方不明とする。その後、下山総裁とおぼしき轢断死体が発見され世情は騒然となる。折からの国鉄大量人員整理は、労組批判の世論が高まるなか一気に決着がつけられる。その後、総裁は拉致グループのもとから救い出される。

騙されたことに気付いたG2はどうするだろう。先に本稿<実行犯/3・6章>で推測したように相手がCIAだとすれば解決は簡単ではあるまい。事はワシントンに持ち込まれるのではないか。アメリカ政府部内での話し合いによって決着が図られることとなる。その決着がついたのが7月末で、そこでの取り決めに従い事態の処理が行なわれるのが8月に入ってからということではないか。以後、G2は事件から手を引いたのだろう。G2にしてみれば、腹立たしくも不名誉な一件は早く忘れてしまいたかったのではないか。8月に入ってG2の文書から下山事件に関するものが極端に少なくなるのはそのためと考えれば納得がいく。

ところで、8月はじめの時点で事態の処理が行なわれたとすれば、それ以降なおも他殺の捜査が続けられたのはどう考えればいいのだろう。なるほど、左派勢力による他殺の可能性を残すには捜査が継続されていた方がいいだろう。だがそれだけだろうか。

先のGS文書によれば“警視庁は派閥抗争によって分裂して”おり、“警視庁及び政府の政治的駆け引きと、前内務官僚の警察権力復活を狙う動きがからんでいる”とある。どこにでもありがちな単なる内部対立とも思えるが、他殺捜査の幕引きをめぐる争いだという点を考えれば事件との関連が気になる。あるいは関係者の中に事件に関与した者がいたのではないか。事件がCIAとG2によって起こされたとしても、日本側に協力者はいなかったのだろうか。

占領下の最高権力機関であるGHQに対し、日本の政府や政治家その他の人々はどのように関わっていたのだろう。一説には、GHQ内部のGSとG2の主導権争いが日本側要人の間にも持ち込まれていたという。それぞれの立場からGHQの有力者と密接なつながりを築こうとするのは大いにあり得ることだ。下山事件に際しても、そうしたつながりの中で何らかの協力が行なわれた可能性は否定できない。そして、その協力の事実を掴むことが警察権力復活に影響するような場合、警視庁と政府の政治的駆け引きに使われそうな場合、派閥抗争の重要な材料となりうる場合、捜査の継続は大きな意味を持ってくる。

では、協力者は誰だろう。G2文書に登場していた吉田茂はどうか。もう一度その部分を見てみよう。

“吉田茂首相がウィロビー少将に事件についての情報提供を求めた書簡もあった。
<警察幹部には捜査の進展状況を報告するよう求めておりますが、まだ手許に届いていません。この事件に関して占領軍がお持ちのいかなる情報でもお寄せいただければ大変ありがたく存じます>
 日付は八月三日。結局、見送られることになるが、捜査一課が自殺説を発表しようとしていた、その日である。”

一件何の変哲もない協力要請に見えるが、その日付を考えると違和感が生じる。文中にもあるとおり、捜査一課の結論を出すことが予定されていたその日だ。結論を出す日になって情報提供を求めるとは変な話ではないか。本当に占領軍の情報に期待するのなら要請は事件発生直後に行なわれるべきだし、そもそも電話一本ですむことではないのか。一ヶ月近くも経ってからの正式書簡など日本の捜査陣の無能力を占領者に告白するようなものではないか。

確かに、文面はそうした印象を与えるものとも言える。しかし、事件を謎として終わらせるというアメリカ政府の結論が出て、G2が事件への興味を失った時点での書簡だとすれば、そして、書簡の相手がG2の責任者であるウィロビー少将だという点を考慮すれば、文面とは別の隠された意味がありそうだ。

つまり、日本政府(吉田首相)とGHQ(G2)の間では、この時点まで下山事件について情報交換はなされていなかったという外見を取り繕うことだ。もちろん、事実は逆であったということに他ならない。両者は密接に連絡を取り合っていたのだろう。しかし事態の処理を行なうにあたって、全て無かったことにしようとなったのではないか。

では、両者の連携とは何だったのか。この場合、主導権はG2の側にあったと思われるのでG2の立場から事件を考えてみよう。G2の理解では、下山が殺されることなどあるはずもなかった。一時行方不明になってもらえばよかったのだ。しかし、本人に事情を伝えないまま拉致しようとすれば不測の事態もあり得る。あらかじめ本人に説明し納得させ、さらには協力させることが必要だったというのが本当ではないか。

しかし、そうしたことのできる人間は限られる。何よりも本人に信用され、さらに、説得を可能にする充分な権威を持つ者でなければなるまい。どうしても日本側の協力者が必要となるわけだ。誰に下山を説得させたらよいのかを判断でき、欲を言えば、その後の経過において日本政府を的確に行動させ得る力を持つ者、そして何よりもG2と気脈を通じた人物。吉田茂がその適任者だったのだろう。第9章にはこんな記述もある。


(p.321)“大の反共主義者だったウィロビーが宿泊していた帝国ホテル元社長の犬丸徹三は、こう述懐している。
<「ウィロビーは帝国ホテルに三つ部屋を持っていて、宿舎兼事務所にしていた。(中略)そこで吉田さんとヒソヒソ……。あのころは、みんな政治家連中は米大使館(マッカーサーの宿舎)には行かず、ウィロビーのとこで総理大臣になったり、あそこで組閣したりしたんだ>(『知られざる日本占領』)”


ウィロビーから計画への協力を求められた吉田は、もちろん承諾しただろう。そして、誰に下山を説得させるか考えた。いや、考えるまでもない。佐藤栄作しかいない。吉田の腹心であり、運輸官僚OBで国鉄の人員整理問題にも深く関与し、下山の先輩にあたる。下山が失踪する朝、下山自身の口から佐藤の名前が出ている。第1章(現場)から引用する。


(p.26・27)“警視庁の捜査一課を主体とする下山事件特別捜査本部が作成した『下山国鉄総裁事件捜査報告』(下山白書)には、事件当日の下山の足取りが記録されている。以下、白書などをもとに当日の様子を再現してみよう。

 一九四九年七月五日――。
 気象庁の記録によれば、くもりで風はなく、暑い一日を予感させる朝だった。
 下山は七時に目を覚まし、いつものように居間の食卓についた。家族と一緒に朝食をとりながら話題にのぼったのは長男の帰省のことだった。
「今夜は、久しぶりに帰ってくるんだな」
 名古屋大学に通っていた定彦(当時二一歳)が家に戻り、家族がそろうのを楽しみにしているようだった。味噌汁に半熟卵とお新香が並び、下山はご飯を二膳平らげた。
 八時二十分ごろ、下山は東京都大田区上池上の自宅前で、迎えの公用車ビュイック四一年型に乗り込んだ。車は歌手の淡谷のり子宅の前を通り、五反田の国鉄ガード下を抜け、国道一号線を品川方面へ向かった。さらに芝公園の前を通って御成門のあたりにさしかかったとき、下山は思い出したように漏らしている。
「今朝は佐藤さんのところへ寄るんだった」
 佐藤さんとは、のちに首相となり、沖縄返還によってノーベル平和賞を受ける佐藤栄作のことである。このときは衆院議員に初当選して半年ながら、自民党の前身である民主自由党の政調会長を務めていた。
 下山とは国鉄の前身である旧鉄道省(のちの運輸省)時代からの知り合いで、下山が東京鉄道局長に就任したときの運輸次官として隣り合わせの部屋で働いたこともあった。
 運転手が引き返すかどうかたずねると、下山は首を振った。
「またにしよう」
 佐藤にどんな用件があったのかはわからない。”


この後の下山の足取りについては不審な点が多いとされている。


(p.27)“車が和田倉門をすぎて東京駅前ロータリーにさしかかると、
「買い物がしたいから三越へやってくれ」
 国鉄の入る運輸省ビルを目前にしての進路変更だった。駅北側のガードあたりにくると、初めて行き先を告げた。
「白木屋(後の東急百貨店日本橋店)でもよいから、まっすぐに行ってくれ。きょうは十時までに役所へ行けばよいのだから」”


これは下山の思い違いでなければ嘘だ。次のページの最後には、その朝九時から局長会議が予定されていたとある。また、買い物について下山の妻は“この忙しいときに買い物などに行くとは考えられません”と話している。

先を続けよう。


(p.27)“ところが白木屋前へくるとシャッターが下りていたため、そのまま五百メートルと離れていない三越の前へ向かわせる。三越の正面玄関にかかる表札には「九時半開店」とあった。
「まだ開店していませんね」
「うん」
「役所へ帰りましょうか」
「うん」
 ところが、新常盤橋からガード下にくると、一転して神田に回れという。都電通りから三越と三井銀行本店の間を抜けて北へ進み、神田駅に着いたものの下山は降りようとせず、車は右折して室町三丁目へ出た。交差点にさしかかったところで、
「三菱本店へ行ってくれ」
 運転手は言われる通りにハンドルを切った。再び国鉄に近い東京駅北口あたりにくると、下山は怒気をはらんだ声でこう告げている。
「もう少し早く行け」
 職員に顔でも見られるのが嫌なのだろうかと思いながら、運転手はアクセルを踏み込み、丸ビルの前をすぎた。そのさきに財閥解体で三菱銀行から名前を変えたばかりの千代田銀行があった。
 下山は総裁に就任してから使うようになった地下の私金庫へまっすぐ向かい、二十分ほどで戻っている、何をしていたのかはわからない。座席に戻るなり短く命じた。
「いまから行けば、ちょうどいいだろう。三越南口へ」
 そこにある駐車場は普段からよく使い、とくに長時間になるときは必ず止めさせる場所だった。三越の南口へ着くと、
「まだ開いていないんじゃないか」
 下山はいぶかるように言った。それにかまわず運転手は車から降り、もう人が入ってますよ、と言いながら左側の後部ドアを開けた。
「五分ぐらいだから待っててくれ」
 下山はそう言い残すと、三越本店の大きな扉の向こうへ姿を消した。午前九時三十五分すぎのことだ。車内には弁当の入ったカバンが置かれたままになっていた。”


下山は、あらかじめ言い含められたとおりの時間と場所で拉致グループと接触するために時間つぶしをしていたのではないだろうか。もともとは佐藤のところへ挨拶に行けばちょうどよいと考えていたのがうっかりしていていつもの方向に車が向かってしまった。さすがに緊張していたのだろう。挨拶といっても「ご指示どおりにこれから行ってきます」と言うだけのことだろうからすぐに気を変えてそのまま車を走らせた。

さて、時間つぶしの口実に買い物をすると言ったのだが、定刻を過ぎても役所に向かわないことのつじつま合わせに「きょうは十時までに役所へ行けばよいのだから」との言葉が出たと思われる。普段なら運転手の手前などを取り繕うこともないだろうが、嘘をついているという自覚が余計な言い訳まで口にさせたのではないか。嘘に嘘を重ねたのだ。

しかし、白木屋も三越もまだ開店していなかった。どうしようとの考えも浮ばないので、とりあえず役所と反対方向の神田に車を向かわせた。神田駅を通り過ぎ室町三丁目の交差点にきたところで三菱銀行本店の私金庫を思い出し、しばらく行方不明になるのだからまとまった現金を持っていこうかとの考えが浮んだ。G2が用意してくれるはずの隠れ家ですごすのだから、現金が必要ということもなかろうが何かの役に立つかも知れないと考えたのではないか。

国鉄に近い東京駅北口あたりにくると怒気をはらんだ声で「もう少し早く行け」と言ったのは、すでに隠密行動の意識が強まっていたと考えると説明がつく。これは、三越南口に着いて「まだ開いていないんじゃないか」といぶかるように言ったことにも通じる。開店直前の入り口で待たされ人目につくのを嫌ったと思われる。

約束の場所は三越で、時間は九時半の開店直後だったのだろう。注目すべきは、三越南口の駐車場が長時間駐車する時に必ず停めさせる場所だったことだ。そんな場所に停めさせながら下山は「五分ぐらいだから待っててくれ」と言い残して車を降りている。そして、この場所を選んだのにはおそらく理由がある。


(p.29)“三越南口で下山の戻りを待っていた運転手が総裁の失踪を知ったのは、午後五時のNHKラジオニュースでだった。連絡を受けて駆けつけた刑事から、どうして早くに届けなかったのかと問いつめられ、運転手はこう答えている。
「待たせっぱなしはしょっちゅうのことで、特に不審に思うことはなかったからです」
 運転手は二十年近く運輸省に勤め、下山とも一年ほどの馴染みだった。人柄も実直で、「西を向いておけ」と言えば、いつまでも向いているような男だったという。この日も三越で総裁を見送ったあと、飲まず食わずのまま待っていた。”


著者の判断では、失踪当日の午後、下山を装う人物が轢断現場近くに出没し自殺の偽装が行なわれたということだ。この偽装のための時間稼ぎが必要だったのではないか。あまりに早く国鉄総裁の失踪が知れ渡ることは不都合だったのだろう。運転手もともに行方不明であれば何があったのかの判断はつけにくく、より時間を要することにもなろう。このもくろみは充分すぎるほどあたったことになる。

そして、自殺の偽装がほぼ終わるころ、NHKのラジオニュースが人々を驚かせる。だが、政府要人の失踪をマスコミを通じて発表するタイミングとしては、いささか早すぎるとも考えられる。まして、運転手や車の所在も分からない時点でのことではないか。たとえ失踪が疑い得ないとしても、なぜそうした事態が起こったのか原因が何も分からないうちにその事実を直ちに発表しなければならない理由はない。つまり、全ては予定されていたということではないのか。

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