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(回答先: 討論の火つけ役となったのは何か 投稿者 隣人 日時 2006 年 9 月 04 日 15:40:47)
スペインにおけるその討論でユダヤ教の側を代表できる霊的な力量を備えたただ一人の人物は
モーシェ・ベン・ナハマン、つまりナハマニデスでした。 1194年ごろヘローナ市で生まれた
ナハマニデスは、すでに十代の時分から聖書とタルムードの学者として名を上げていました。
そして30歳ですでに、タルムードの大部分に関する注解を書き、その後まもなく、マイモニデス
の著作を巡って、ユダヤ人共同体を分裂させるおそれのあった論争の仲裁をする主要な代弁者に
なりました。 ナハマニデスは当時のユダヤ教最大の聖書学者ならびにタルムード学者で、その
時期のユダヤ教に及ぼした影響の点で多分マイモニデスに次ぐ人物と考えられています。
ナハマニデスはカタロニア地方のユダヤ人共同体に大きな影響を及ぼしていた人で、国王ハイメ
1世も色々な国事に関してナハマニデスの意見を聞きました。ナハマニデスは明敏な思考力の
ゆえにユダヤ人からも異邦人からも尊敬されていました。ドミニコ会側は、ユダヤ人を辱める
点で実効を上げるには、彼らの第一級のラビを討論に参加させなければならないことをよく知っ
ていました。
ナハマニデスは、ドミニコ会側が意見の公平なやりとりなど少しも意図していないことを知って
いたので、討論には気乗り薄でした。つまり、質問には答えなければなりませんが、質問をする
ことは一切できなかったのです。しかしナハマニデスは国王の要請に応じ、答える際には自由に
話させてほしいとお願いしました。国王ハイメ1世はその願いに応じました。そのようにある程
度自由に話す許しが与えられたのは、中世を通じて前にも後にも例のないことで、ナハマニデス
に対して国王が深い敬意を抱いていたことの明らかな証拠でした。それでもナハマニデスは不安
でした。その討論の際に過度に敵対的とみなされるなら、自分もユダヤ人共同体も悲惨な影響を
被ることになると思われました。いつなんどき暴徒の襲撃を受けるか分からない状況でした。