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(回答先: ナハマニデス 投稿者 隣人 日時 2006 年 9 月 04 日 15:36:31)
中世の時代中ずっと、ローマ・カトリック教会は真の宗教を奉じていると称していました。
しかしユダヤ民族は、自分たちは神の選民であるという主張を曲げたことがありませんでした。
教会は、改宗の必要をユダヤ人に納得させることができなかったため不満を抱くようになり、
しばしば暴力や迫害に訴えました。十字軍の何回かの遠征の際、ユダヤ人はバプテスマか死かの
二者択一を迫られて何万人も虐殺されたり、火あぶりの刑にされたりしました。当時、教会の
息のかかった反ユダヤ主義が多くの国の風潮となっていました。
しかし、カトリック教国のスペインでは十二、三世紀当時、別の精神が広まっていました。
キリスト教を攻撃しない限り、ユダヤ人は宗教上の自由を認められており、国王の宮廷で重要
な地位に就けられた人さえいました。ところが、そうした順調な時期が1世紀ほど続いた後、
ドミニコ会の司祭たちはユダヤ教の社会的影響を減少させ、ユダヤ人をカトリック教に改宗させ
ようとして種々の処置を講じました。ドミニコ会士たちは公式の討論の取り決めを設けるよう
アラゴンの国王ハイメ1世に圧力をかけました。ユダヤ教の立場が劣っていることを証明して、
すべてのユダヤ人に改宗の必要を示すのが、その狙いでした。
これはユダヤ教徒とキリスト教徒の初めての討論ではありませんでした。1240年には、フランス
のパリで公式の論争が行なわれていました。その主な狙いは、ユダヤ人の聖典であるタルムード
の真価を試すことでした。しかし、ユダヤ人の参加者には言論の自由がほとんど認められていま
せんでした。教会がその論争で勝利したことを宣言した後、各地の公共広場ではタルムードの
写しが大量に焼き捨てられました。
しかし、アラゴンの国王ハイメ1世はもっと寛容な精神を抱いていたので、そのような見せかけ
の審理は行なえませんでした。このことに気づいたドミニコ会側は、別の方法を試みました。
ハイヤム・マコービが自著「試されるユダヤ教」の中で述べているように、ドミニコ会側は、
「パリの場合のように弾劾するのではなく、丁重に接して説得に努めるように装った」討論に
ユダヤ人を招いたのです。ドミニコ会側は、ユダヤ人でカトリック教に転向し、ドミニコ会の
司祭になっていたパブロ・クリスチャニを自分たちの主要な代表者に任命しました。ドミニコ
会側は、タルムードやラビの文献に通じているパブロ・クリスチャニの知識を利用すれば、
自分たちの立場の正しさを証明できるに違いないと考えました。