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参考「読む年表・20世紀と昭和天皇」
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投稿者 イヌリン 日時 2005 年 9 月 13 日 15:32:03: ZZuWDDWxfeBqs

(回答先: 両統迭立の原則 投稿者 サンシャイン・リング 日時 2005 年 9 月 13 日 15:27:15)

参考書籍
著者: 読売新聞社
発行: 読売新聞社(1989/036/01)
書籍: (132ページ)
定価: 1989年版 読売年鑑 別冊

田中正造、天皇に直訴/1901
12月10日、帝国議会開会式からお帰りになる途中の明治天皇の馬車に、紋服姿の白ヒゲの老人が走り寄り、直訴を企てたが、護衛にさえぎられた。
老人は2か月前代議士を辞職したばかりの田中正造。栃木県を流れる渡良瀬川が上流の足尾銅山から出る鉱毒によって汚染され、魚が捕れなくなったり、農作物が年々減るなどして沿岸の農漁民を悩ませている実情を知り、代議士として10年間、対策を訴え続けてきたが、政府に無視され、ついに直訴という非常手段に訴えた。この直訴をきっかけに、世論も盛り上がり、政府はやっと鉱毒除去に乗り出したが、抜本的解決には至らなかった。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.2


社会民主党結成/1901
安部磯雄、片山潜、幸徳秋水、木下尚江、河上清、西川光二郎の6人による日本最初の社会主義政党「社会民主党」の結成は従来の「理論」から「実践」に一歩を踏み出し、注目された。
安部らは、工業の発展に伴う労働問題がようやく社会問題化しようとする情勢をとらえて政党結成に動き出し、ドイツ社民党綱領をもとに新党綱領を決定した。それは人種差別撤廃、軍備全廃、階級廃止、土地・資本の公有化を掲げ、実行綱領として貴族院廃止や普通選挙実施などをうたっていた。
結社届は5月19日神田警察署に提出されたが、20日結社を禁止され、綱領や結党宣言を掲載した万朝報など7紙は没収された。安部らは、桂内閣成立直後の6月3日、若干の組織変更を行い、社会平民党として結社届を出したが、即日禁止となった。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.3


伊藤内閣Cの増税/1901
伊藤内閣は北清事変の戦費や海軍拡充のための増税案を1月26日衆院に提出した。増税案は酒、砂糖、海関の3税をアップし、1180余万円を捻出しようとするもので、野党の憲政本党は2月4日の代議士会で政府案に賛成を決めたが、反対派は脱党して三四倶楽部を組織するなど、審議は難航した。
それでも同月19日、衆院で可決されたが、貴族院は委員会で否決するなど頑強に反対、前後2回、通算15日間の停会が命ぜられた。結局、最終的には天皇にすがって、貴族院に増税法案成立に協力を命ずる勅語を出していただき、3月16日やっと可決、同30日公布することができた。
このごたごたで政治力の衰えをみせた第4次伊藤内閣は、4月にはいると公債依存事業中止の是非をめぐる政府内の対立が表面化、5月2日辞表を提出、桂内閣(6月2日成立)にあとを譲った。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.3


19・20世紀送迎会開催/1901
慶応義塾では12月31日から元旦にかけ、19世紀・20世紀送迎会を催した。 福沢諭吉は病床にあって欠席(2月3日死去)したが、塾生ら500人が午後8時、東京・三田の同塾大広間に集まり、鎌田塾長や門野教頭らから来るべき新世紀の意義などについての講演を聞いたあと、新築の講堂で晩さん会に望んだ。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.3


煙草専売法/1904
大国ロシアを相手の戦費は政府の予想以上だった。その巨額な戦費捻出のため、政府は煙草に目をつけ、開戦の翌月の3月煙草専売法を公布(7月実施)し、製造販売権を民間から取り上げた。煙草専売は昭和60年の民営化まで半世紀以上も続き、政府のドル箱となった。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.7


露探? 秋山定輔議員辞職/1904
日露開戦直後、帝国議会が召集されるとすぐ「秋山は露探だ」という怪文書が院内に出回った。それによると、秋山は子爵令嬢との婚儀にあたり金の茶釜を贈ったが、その金の出所は、日ごろの言説からロシアに違いないというのだ。
秋山は懸命に否定したが、議会に調査委員会が設置され、「確たる証拠はないが、露国に利益する報告をなした」という委員会の結論に基づき、異例の「秋山君に処決を促す決議案」が可決されてしまった。秋山はやむなく辞任。彼が二六新報の社主として日露戦争に批判的立場をとり、政府攻撃の急先鋒だったため、ぬれぎぬを着せられたらしい。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.7


日本社会党結成/1906
西園寺内閣の成立を待ちかねたように、堺利彦、西川光二郎らは日本社会党の結成届を出した。明治34年、伊藤内閣時代に西川が幸徳秋水らと結成した社会民主党が結社禁止になっているため、今回は「国法の許す範囲内において社会主義に実行を期す」と合法政党をうたい、結社を許された。
同党は結党直後の3月、東京市電値上げ反対運動を組織するなど大衆運動の先頭に立つが、やがて「議会主義」をめぐる路線対立で分裂状態となり、結党1年後の明治40年2月、結社禁止処分を受ける。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.10


足尾銅山暴動/1907
日露戦争後、労働者の間で待遇改善を求める運動が活発化、ストが流行になっていた。特にこの年初め戦後恐慌が起きると、足尾銅山の大争議を皮切りに夕張炭鉱、幌内炭鉱、別子銅山、生野鉱山など次々にストが発生、あるものは暴動化して軍隊が鎮圧した。
2月の足尾銅山暴動も増税・物価高騰下の生活苦を背景に、大日本労働至誠会足尾支部の指導下で賃上げ運動展開中に発生したもの。現場係員の中間搾取、至誠会つぶしも活発に行われていたが、4日、作業員と係員の衝突がきっかけとなった。
初めは至誠会指導者の説得で収まってものの、警察が指導者2人を逮捕すると暴動は一挙に拡大。労働者は職員社宅、事務所、倉庫、選鉱所など次々に打ち壊し騒乱と化した。7日、銃剣で装備した高崎連隊3個中隊の到着をまってやっと鎮圧、360人余が検挙された。
この事件を扱った宇都宮裁判所の判決は、現場役職者でワイロを要求しないものはほとんどなく、ワイロの多少で賃金や作業内容を差別していたと指摘、「智乏しく慮浅き年壮気鋭の坑夫等が多年の怨嗟憤懣鬱結し」て、偶発的に起こしたと判断、至誠会指導者には無罪を言い渡している。
4か月後の別子銅山暴動も軍出動で鎮圧した。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.11


山県の西園寺内閣“毒殺”/1908
西園寺首相は6月、病気を理由に突然辞意を表明した。5月の総選挙では与党政友会が絶対多数を獲得、内閣改造も終わったばかり。世間は驚いた。直接の理由は、元老山県有朋が「西園寺内閣は社会主義者の取り締まりが手ぬるい」と天皇に密奏したため、とされる。
前年には在米日本人の過激派社会主義者が「暗殺主義第一巻第一号、日本皇帝睦仁君ニ与フ」と題するパンフレット配布事件が発生したのに続き、この41年6月、赤旗を掲げる社会主義者と警察の衝突事件も発生していた。
しかし官僚派の山県からみれば、西園寺・政友会提携下の原敬内相のもとで内務省人脈が切り崩されていくとの危機感を持っていた。この山県が内奏を倒閣の手段に使ったということで、当時は「山県の“毒殺”説」という憶測が流れた。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.12


赤旗事件/1908
社会主義者たちが東京・神田の錦輝館で同志山口孤剣の出獄歓迎会を開いたのがきっかけに起きた事件。孤剣は前年、封建的家族制度からの解放を主張して平民新聞に「父母を蹴れ」を掲載、入獄していた。
閉会まぎわ、荒畑寒村らが赤地に白字で「無政府共産」と縫い込んだ旗を振り回し革命歌を歌った。散会後、外には警官多数が待機、旗を奪い合う路上の大混乱になった。
この旗は荒畑、大杉栄が集まったメンバーの穏健派に示威行為しようと用意したもの。この事件では騒ぎを止めにはいった堺利彦や、面会のため警察署に赴いた管野スガらを含め男女10数人が逮捕され残酷な拷問を受けた。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.12


戊申詔書/1908
日露戦争後、社会主義やストライキ、自然主義、兵の脱走、はては美人投票など、世の中が「軽佻浮薄」に流れているということで、 第2次桂内閣は天皇の権威をかりて「戊申詔書」を公布した。軍人勅諭や教育勅語と違って国民生活全体に規範を示したもので、祝祭日に奉読を求められた。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.12


煤煙事件/1908
裕福な家庭育ちで女子大卒、才媛といわれた平塚明子(雷鳥、23歳)が3月21日、遺書を残して家を出た。かねて男嫌いで哲学、禅に凝っていたということで周りは厭世の自殺を心配した。ところが数日後、雪の塩原尾花峠で心中未遂の平塚と文学士・森田米松(草平、28歳)が一緒に保護された。
事件は当時盛んな自然主義を地で行くスキャンダルとして世上をにぎわした。世間の指弾を浴びた森田だったが夏目漱石の援助を受け、この心中未遂事件を素材に小説「煤煙」を発表。作家の仲間入りした。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.12


南北朝正閨問題/1911
“情意統合”で平穏に進むとみられた第27議会で藤沢元造代議士(無所属)が国定教科書「尋常小学日本歴史」の記述について衆議院に質問書を提出した。南北朝を併立させて記述していることなどが皇室の尊厳を傷つける、というのがその趣旨。藤沢はいよいよ2月16日質問演説に立つことがきまった。しかし、前日桂首相に質問書取り下げ撤回を求められ、16日は質問を取り止めたばかりか、議員辞職まで表明した。
この余波は大きく、政府は教科書執筆者喜田定吉博士を文部省休職処分としたうえ、教科書では南朝を正統とし、改訂教科書の「南北朝」の項を「吉野朝」に変え天皇の歴代表から北朝を削除した。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.15


中村屋事件/1915
インド総督に爆弾を投げ負傷させたベンガル民族運動の指導者ラス・ビハリ・ボースはこの年来日して孫文と知己を得た。 孫文も大総統の地位を譲った袁世凱が独裁化し、2年前の第2革命も失敗に終わって日本に亡命していた。
11月、ボースは英政府に配慮する政府から国外退去を命ぜられた。ところが孫文と親しい頭山満ら有志の助けで新宿のパン屋中村屋の相馬愛蔵・黒光(女流文学者)夫妻のもとにかくまわれた。
長女俊子と結婚、のち太平洋戦争が始まるとインド独立連盟総裁として、日本に協力したインド国民軍結成に当たる。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.20


大隈重信の選挙戦術/1915
青島攻略の戦勝気分に乗り、この年3月、総選挙が実施された。 大隈首相は主要停車場に展望車を止めて車上から与党候補を応援、さらに演説録音のレコードを候補者に配る録音演説戦法を編み出した。さらに前例のなかった首相、閣僚大動員の応援態勢を敷き、大隈伯後援会を全国に広げた。
財閥の資金を受け、与党候補者に公認料を出す先例をつくり、養嗣子信常が出馬した前橋では投票前日、全有権者に電報を打ち勝敗を決めた。
一方で選挙干渉も大々的に行った。
議会解散後、首相は警視総監経験者の大浦兼武農商務相を内相に回し選挙取り締まりに当たらせ、警察官の戸別訪問や威嚇がひんぱんに行われた。金沢市では記載内容が立会人に透けて見える軍用パンの包装用紙を投票用紙に使い、選挙はやり直し。県高等警察課長は拘引され、知事は辞職した。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.20


大浦内相辞任/1915
第12回総選挙のあと政友会の村野常右衛門が大浦内相を選挙法違反と収賄罪で告発した。
告発内容は大浦が丸亀市から立候補した大正倶楽部の白川友一の対立候補を辞退させるため1万円を受け取ったというものだが、 大浦は増師案の成立を図るため前議会(当時は農商務相)で政友会代議士を脱党させる買収工作をしていたことも判明した。
この事件で白川らの代議士や前代議士10人以上が拘引され、大浦内相は引退した。 大隈内閣も一たん総辞職したが、元老の留任勧告で内閣改造の上、引き続き政権担当した。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.20


ロシア革命/1917
第1次世界大戦の長期化は次第に交戦諸国の経済を圧迫するようになってきた。西欧諸国との交通が途絶え、国内の交通網が未発達のロシアは、ドイツとともに特に深刻な状況に陥っていた。開戦以来、成人男子の約半数が戦争に動員され、工場労働者の約7割が軍需産業に従事させられていた。
特に都市部では食料と燃料が極度に不足し、人々の苦しみは深く、2月ごろには、首都ペトログラードでは労働者のスト、デモ、集会が相次ぎ、まさに革命前夜の様相を呈していた。
反乱は3月8日に始まった。女子繊維労働者がストを起こすと多くの婦人が合流して「パンをよこせ」と叫んだ。またたく間に大きな騒乱になり、翌日には全市の半数の労働者が職場を放棄して市の中心部の集結、専制政府の打倒・戦争反対といった政治的要求を掲げた。
当初は鎮圧にあたっていた兵士も労働者に味方し始め、街は無政府状態に。そして12日(ロシア暦2月27日)、軍隊の多くは革命側につき、首都は労働者と反乱軍によって占拠され、政治犯が解放された。 2月革命である。15日、皇帝ニコライ2世は退位、ロマノフ王朝は滅亡する。
同日、臨時政府ができたが、ブルジョワジー勢力が実権を握ってしまう。革命勢力を率いていたのはロシア社会民主党のメンシェビキと社会革命党で、戦争に反対していたボルシェビキは弾圧を受けて弱体化していたのである。
臨時政府は戦争を継続した。このため、民衆の諸要求は反故にされた。
4月、レーニンがスイスから帰国。 「4月テーゼ」を発表し、プロレタリアートと貧農の手に権力を渡すべきだと主張した。ボルシェビキに支持が集まり出し、労働者はボルシェビキのスローガンを掲げてデモをするようになった。
7月、ロシア軍の大攻勢が失敗に終わると、16日、労働者・兵士50万人が武装蜂起するが失敗し、 レーニンは再び亡命する。臨時政府はケレンスキーが首相となった。
9月に入ると最高司令官コロニーロフが反旗を翻す。ケレンスキー政権はボルシェビキの力を得てこれを鎮圧した。
ロシア経済は破局を迎えていた。 レーニンは亡命先のフィンランドから蜂起を呼びかけた。ペトログラードとモスクワのソビエトを掌握したボルシェビキは11月6日武装蜂起、7日(ロシア暦10月25日)、 ソビエト政権が樹立された。世界最初の社会主義革命が実現した10月革命である。この夜の全ロシア・ソビエト大会では全交戦国に即時講和が呼びかけられ、地主の土地の没収、労働者による工場管理、銀行の国有化などが宣言された。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.22


大戦景気/1917
第1次世界大戦により、ヨーロッパの経済は混乱した。戦場から遠く離れた日本でも当初は悪影響が及んだ。欧州向け輸出産業は滞貨と価格低落に悩み、原材料を輸入する産業も品薄と価格高騰に泣かされた。
ところが1916年下半期から、日本経済は好況に転じた。ロシア、イギリス向けの軍需品の輸出が増え、好景気のアメリカへの生糸輸出が急増した。戦争でヨーロッパの産品が途絶えたため、日本製品の市場は中国、東南アジア、中南米にまで広がったのである。
大戦景気は多くの「成金」を生んだ。「成金」は将棋の歩が敵陣に入ると金に早変わりすることから生まれた言葉で、日露戦争後の株式ブームの際使われ始めたが、今度は規模が違った。日立鉱山を経営し、莫大な利益を上げた久原房之助、1隻の商船からスタートし、所有船60隻、60割配当という記録を作った内田汽船の内田信也、台湾の産品の販売から鉄の買占めで財閥と張り合うところまで急成長した鈴木商店などはその典型だ。
しかし、好況も輸出で支えられ、国内の経済基盤がぜい弱である以上、戦争が終われば空中の楼閣のように崩れるのは必然であった。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.23


満鉄疑獄/1921
1月31日の衆議院予算委員会の席上、野党憲政会が満州鉄道の炭鉱・汽船買収問題を取り上げ、政府を追及した。疑獄事件に火をつけたのは、大阪毎日新聞が報道した元満鉄職員の手記だった。
疑獄の主人公は満鉄副社長の中西清一。満州・撫順炭鉱の近くに搭連炭鉱という日中合併の小規模の炭鉱があり、これを満鉄が220万円で購入した。ところが、三月に株主や憲政会系弁護士が出した告訴状によれば、同炭鉱の実価は70万円とされていた。
中西は、原内閣成立で逓信次官にばってきされ、その後満鉄入りし、実権を握ったが、原との関係が噂された。また、同炭鉱の日本側経営者の東洋炭鉱には、この年の総選挙に政友会から立候補した森恪が専務取締役を務めていた。買収金のうち30万円が先に支払われ、これが森と政友会の選挙資金にあてられたとの疑惑がもたれた。
さらに満鉄の子会社の大連汽船が三菱造船所との契約を解除して、政友会と関係の深い内田信也が経営する造船所から汽船「鳳山丸」(8500d)を276万円で買ったことも問題化した。
当時の満鉄は資金が乏しく、従業員への賃金支払いも困っていただけに、 “豪勢”な買い物には疑惑の目が向けられるのは当然だった。
中西は第一審では背任で有罪、懲役10か月の判決を受けたが、二審では証拠不十分で無罪となった。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.29


皇太子訪欧/1921
東宮御学問所を修了された皇太子裕仁親王は3月3日、御召艦「香取」、供奉艦「鹿島」を伴い横浜港を出航、半年間の欧州歴訪の途につかれた。
大正天皇が病弱であったため、宮中には強い反対があったが、原首相らの後押しで訪欧が実行された。
裕仁親王は英、仏、ベルギー、蘭、伊5か国をご視察、9月3日に帰国された。バッキンガム宮殿での歓迎パーティーで華やかな雰囲気にひたり、スコットランドのアリール公爵の居城で公爵夫妻が農民らと和気あいあいとパーティーを催す光景を見られた。パリでは、フォンテーヌブローの森を自動車で走り、地下鉄に乗って買い物を楽しまれるなど、それまであじわってことのなかった「人」としての自由を味わわれた。思い出深く有意義なご旅行になったようで、のちに「いまもあのときの経験が役立ち、勉強になって、今日の私の行動があると思います」と語られた。
外遊中に大正天皇の病状は悪化、11月25日、裕仁親王は摂政に就任し、大正天皇の代わりにご公務につかれた。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.29


ソ連邦成立/1922
国内戦の混乱で、旧ロシア帝国内には一時30を超える政権が生まれたが、激しい戦闘の中で淘汰され、ロシア連邦・ウクライナ・白ロシア・ザカフカーズ連邦の4ソビエト共和国に統合された。
4共和国は互いに同盟を結び、同一外交政策をとっていたため、内戦の終わりとともに合併問題が浮上した。
合併にあたっては、各共和国が平等の資格で新たな「ソビエト連邦」を作るというレーニンの主張が採用され、ロシア連邦の下に3共和国を置くスターリン案はしりぞけられた。
12月30日、第1回全連邦ソビエト大会が召集され、「ソビエト社会主義共和国連邦」の成立が宣言された。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.31


甘粕事件/1923
9月16日、社会主義者大杉栄(39)が妻の伊藤野枝(29)、おいの橘宗一(7)とともに行方不明となり、憲兵隊に殺されたという噂が広まった。
20日、東京憲兵隊渋谷分隊長兼麹町分隊長の甘粕正彦大尉が「違法行為」を理由に軍法会議にかけられることになった。福田雅太郎戒厳司令官が更迭され、憲兵司令官の小泉五一少将は停職となった。
24日、軍法会議予審が終わり、甘粕が大杉ら3人を殺したことが発表されて事件の全容が明らかになった。それによると甘粕は、大杉が震災に乗じて混乱を起こすかも知れないので殺すことを決め、9月16日夕、自宅近くで大杉らを拉致、麹町憲兵分隊に連行し、同夜、取り調べを装いながら次々に絞め殺した。死体は構内の古井戸に投げ入れて埋めてしまった。
甘粕は一個人の判断で殺害したと主張した。上官の関与もしくは関知が疑われたが、軍法会議は背後関係を一切追及しなかった。 12月8日の判決では甘粕が懲役10年、共犯の森慶次郎曹長は同3年が言い渡された。
甘粕は3年で仮出所し、満州にわたり、満州映画協会理事長などを務め、20年8月の終戦でピストル自殺するまで軍をバックに権力をふるった。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.33


陸軍機密費問題/1926
3月4日の衆議院で、憲政会の中野正剛が、 田中義一政友会総裁がシベリア出兵当時の陸軍機密費の一部を横領して政界入りの資金にしたと追及した。
同日、元陸軍二等主計の三瓶俊治が、当時陸相の田中と次官の山梨半造が大臣官房主計室の金庫に眠っていた無記名公債を横領したと告発していた。1月には田中が神戸の高利貸しから多額の借金をしていたことも明らかになっており、問題の公債が借金の担保になったのではないかという疑惑が浮かんだ。また、ハバロフスクなどで日本軍が捕獲した金塊の一部も行方不明となり、田中が疑われた。
政友会は、中野がソ連の手先となって軍民離間を図っていると攻撃した。告発した三瓶は一時身を隠していたが2か月後、「懺悔録」を書き、告訴の内容はうそだったといい出した。政友会や軍部の圧力が噂された。
この事件を捜査していた東京地方検事局の担当者は、敏腕で名の通っていた石田基次席検事だった。
ところが10月30日朝、石田検事は大森と蒲田のあいだの鉄橋の下の小川で変死体となって発見された。死因は下あご付近の打撲とみられた。石田検事は前夜、日比谷の料亭で検事の集まりに出席していたが、死体で見つかった場所は市ヶ谷の自宅とは逆方向だった。多くの疑問が残ったが、検事局は過失死と片付け、解剖もせずに火葬にしてしまう。
石田検事の死で陸軍機密費事件は不起訴に終わる。石田検事は朴烈事件、松島遊郭移転疑獄も手がけていただけに、その死と事件の結末には大きな疑惑が残った。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.36


松嶋遊郭疑獄事件/1926
この年初頭、関西の土地会社が自社所有地内に松島遊郭を移転させるため政党に金をはらまいたという怪文書が飛びかった。大阪の中心部にある松島遊郭は風紀上の理由で移転が取りざたされていたのである。
検察当局が動き出し、前政友会幹事長岩崎勲・憲政会総務箕浦勝人・政友本党党務委員長高見之通という大物政治家に疑惑の目が向けられた。岩崎は移転に際し、政友会は反対しないという党議をまとめるための運動費、箕浦は、若槻礼次郎内相(当時)から松島遊郭移転を了解する言明を得るための資金、高見は、政友本党は移転を妨害しないという床次竹二郎総裁の了解を得る運動費としてそれぞれ3〜40万円を受け取ったというものだ。
3人は起訴されたが、容疑は詐欺だった。検察当局は政府および大阪府には遊郭移転の計画はなかったとしたのである。これに激怒した箕浦が「移転は知事が決定することで、自分が指示するはずがない」と証言した若槻礼次郎首相(前内相)を偽証罪で告訴するという事件まで起こった。
裁判では「犯罪の証拠なし」として箕浦、高見は無罪になった(岩崎は途中死亡)。しかし、実業家と政党幹部の醜い関係を国民に印象づけた。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.36


説教強盗逮捕/1929
強盗に入った家で、「庭にあかりをつけなさい」とか「犬を飼いなさい」など防犯上の心得を教える強盗が大正15年から東京で出没した。新聞に「説教強盗」と名付けられ、ニセ者まで現れた。金持ちはこぞって番犬を飼い始め、犬の値段が上がったという話まである。
警視庁は20万人の警官を動員して捜査にあたり、現場に残された指紋から左官職人妻木松吉(29)を逮捕した。妻木は無期懲役となったが、23年仮釈放された。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.41


岩ノ坂もらい子殺し/1930
4月、東京郊外の板橋町岩ノ坂で、41人ものもらい子殺しが発覚した。同月13日、この地区に住む作業員の内縁の妻が、もらい子を誤って乳房で窒息死させたと医師のところを訪ねた。死因に疑いを持った医師が板橋署に届け出たのがきっかけだった。
同署が調べてみると、岩ノ坂では1年間に30人の乳児の変死があった。同署は同地区の大勢の人を取り調べ、おそるべき事件が明るみに出た。
同地区は貧しい人たちが集まっていたところで、多くの乳児がもらわれてきた。この子たちの多くは、裕福な家庭の夫人・令嬢の不義の子だった。当時は中絶が認められておらず、生まれてきた子は里子に出されるか産院などを通じ、養育費付きで他人に譲られた。そうした乳児たちの行き先の1つが岩ノ坂だった。
赤子をもらった者は数日間は育てるが、食べ物を与えず殺してしまった。育ったときは、男は鉱山に、女は遊郭に売っていた。
この事件の結末ははっきりしないが、罪を問われたのは1人だけだったという。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.43


谷崎潤一郎、妻を譲る/1930
8月18日、作家の佐藤春夫が谷崎潤一郎の妻と結婚、話題となった。
谷崎は以前から千代子夫人の親類の女性と恋仲になり、夫人を冷たく扱うようになった。その夫人に同情し、愛するようになったのが佐藤である。佐藤にも妻がいたが、もともと冷めた関係だったため、その春に離婚。谷崎も夫人と離婚することになった。
さらに人々の注目を集めたのは、谷崎・千代子・佐藤の3人の連名で出した次のような声明書である。
「・・・・・・我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り、・・・・・・素より双方交際の儀は従前の通りにつき、右御諒承の上、一層の御厚誼を賜り度く、いずれ相当仲人を立て、御披露に及ぶべく候えども、取あえず寸楮を以て、御通知申し上げ候・・・・・・」
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.43


満州事変勃発/1931
9月18日午後10時20分、満州奉天北約8キロの柳条溝(湖)の満鉄線路で爆発が起こった。関東軍は中国軍が満鉄を爆破したと発表、一斉に行動を起こし、翌19日、奉天をはじめ周辺諸都市を占領した。満州事変の端緒であり、日中15年戦争の幕明けでもあった。
実際は、爆弾を仕掛けたのは関東軍独立守備歩兵第2大隊第3中隊の河本末守中尉らだった。爆破といっても列車の運行には支障のないほど軽微なもので、関東軍が計画した謀略実行の合図であった。
満州における日本の最大の権益である満鉄は営業不振に陥っていた。不況で日本の対満貿易が不振のうえ、中国が競合線を建設し、貨物を奪われていた。日本として放置できない問題だったが、幣原外相は対話路線を取り、中国との外交交渉で解決を図ろうとした。
これは軍部には「弱腰外交」としか映らなかった。陸軍、中でも関東軍は一挙に武力で満蒙を奪い取る構想を練りあげていた。米国との決戦を不可避と見、満州を完全に支配して戦争に備えるとともに、満州占領で軍の発言力を高め、日本の政治を刷新しようという狙いである。陸軍はこの構想を取り入れ、6月、「満蒙問題解決方策大綱」をまとめ、一年間の準備期間を置くことを決める。
7月2日、満州万宝山で、入植者の朝鮮人が中国官憲の中止命令を無視して用水路工事を進め、日中が武力衝突(万宝山事件)、日本人立ち入り禁止地区にはいった中村震太郎大尉が現地中国軍に殺されたことが同月中旬確認され、関東軍は軍事行動を実行に移すことを決める。
政府は満州事変の不拡大方針を取る。軍中央は不明確な態度。しかし、関東軍は吉林省に出兵し、奉天の守備を薄くする。これに呼応して在朝鮮軍が独断で国境を越える。
政府はこうした軍の独走を止めることができず、事後承認を繰り返す。折からの10月事件で、クーデターにおびえ、強い姿勢に出られなかったのである。
国民政府の蒋介石は共産党と戦闘中だったため、日本軍との戦いを避け、国際連盟への提訴にとどめる。 張学良も抵抗らしい抵抗はせず、地方軍閥もほとんどが日本軍と手を結んで地方政権固めする途を選んだ。
国際連盟理事会は10月24日、撤兵勧告案を決議、日本への圧力が高まるが、日本の中立的調査団派遣案が容れられ、リットン調査団が組織される。
こうして翌年5月には日本軍は満州のほぼ全域を掌中に収める。その一方で、宣統帝溥儀を天津から脱出させ(11月10日)、満州国建国に乗り出す。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.44


滝川事件/1933
政治の中枢部に乗り込んだ軍部は思想対策に乗り出す。軍部に批判的な思想はすべて攻撃対象とされた。
その最初の標的が京大法学部の滝川幸辰教授(刑法)。4月11日、滝川教授の2著書が、内乱と姦通を奨励しているとして発禁に。 22日、鳩山一郎文相はこれを理由に滝川教授の罷免を要求。京大が拒否すると、文部省は5月15日、滝川教授を休職処分とした。
法学部教授陣は全員辞表を提出して抗議、学生も支援した。しかし文部省の切り崩し工作で、京大側の敗北で終わる。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.47


ゴーストップ事件/1933
6月17日、大阪の天六市電交差点で、信号を無視して道路を横断しようとした第4師団の一等兵を曽根崎署の巡査がとがめたが、兵士は「憲兵ならともかく、巡査の指示は受けない」と反抗。巡査は派出所に連行すると乱闘になった。
陸軍は「軍服着用である以上、軍人として扱うべき」「陛下の軍隊を侮辱するのは不敬」と硬化。大阪府警は「公務外の外出であれば交通規則に従うべき」「警察官も陛下の警察官」と反発、大抗争に。5か月後、兵庫県知事の仲裁で解決するが、当時の軍の横暴ぶりを示すエピソードである。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.47


帝人事件/1934
1月17日から「時事新報」紙に「番町会を暴く」という暴露・告発記事か掲載され始め、帝国人絹の持株売買をめぐる疑惑が取りざたされた。
帝国人絹は鈴木商店系の人絹会社で金融恐慌の際、その22万株が担保として台湾銀行に入っていた。
おりからの人絹ブームで、帝人株の値上がりが見込まれ、鈴木商店の番頭格の金子直吉らが財界グループ「番町会」の河合良成、永野譲らに買い戻しのあっせんを依頼した。そこで河合、永野らは鳩山一郎文相・黒田英雄大蔵次官に働きかけて島田茂台銀頭取を動かし1株125円で10万株の払い下げに成功。これと同時に帝人が増資を決めたため株価は150円にはね上がり、河合らは大儲けした。この際、関与した中島久万吉商相、黒田次官に帝人株や現金が渡ったというのが疑惑の内容。
さっそく検事局が捜査に乗り出し、中島商相・黒田次官ら6人が収賄、三土忠造鉄道相は偽証罪、島田台銀頭取、高木復亨帝人社長ら9人が背任・贈賄で計16人が起訴された。
斎藤内閣にも大打撃であった。起訴は免れたものの鳩山文相は他の汚職の疑惑が持たれて3月辞職。中島商相は“逆賊”足利尊氏を礼賛したと追及されて辞職(2月)。さらに荒木陸相も病気を理由にやはり辞職していた。7月、斎藤内閣は崩壊した。
ところが3年後の判決では全員無罪となった。証拠不十分ではなく、事件そのものが存在せず、単なる商取引と商習慣による謝礼と認定された。
確かに検察の取り調べは過酷であり、「検察ファッショ」という言葉も生まれた。検察を動かしたのは平沼騏一郎枢密院副議長で、平沼の枢密院議長就任を阻んだ斎藤をうらみ、倒閣のため検察に圧力をかけたともいわれる。
帝人事件は財界人の金儲けの実態とそれに結託する政界の醜さを暴露したが、政財界の浄化にはつながらず、むしろ軍部の発言力の強化を招いた。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.48


翼賛選挙/1942
第2次近衛内閣のもとで「戦時下」を理由に一年間延期されていた議員任期が満了となり、4月に総選挙が行われた。
東条内閣は「翼賛政治体制協議会」を設置して推薦候補を決めさせ、戦争完遂の議会を確立するため部落会、町内会、隣組などあらゆる組織を動員し、激しい選挙干渉も行った。
翼賛壮年団、在郷軍人会が活発な動きをみせ、推薦候補には臨時軍事費を流用した巨額の選挙資金が流れた。一方、非推薦者には「自由主義者」「非国民」のレッテルはりが盛んに行われた。非推薦の当選者は85人。選挙後の議会では翼賛政治会を結成させ、政治結社は禁じた。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.60


上野動物園、猛獣を薬殺/1943
空襲時の混乱を避けるとして上野動物園の猛獣27頭が陸軍の命令で殺された。ゾウは毒を与えても飲まず餓死させた。
エサをねだって芸をみせる姿が係の涙をさそったという。
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  P.61

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