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B「南朝正閏論」も「北朝正統論」も誤り
南北朝時代の天皇のうち、南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)のいずれが正統か、という議論は
既に江戸時代より歴史家の間で行われてきた。しかし、同時にこれはタブーでもあった。なぜならば、
どちらを正統とみるかは、政治的なイデオロギーと関わっていたからである。
徳川幕府は、将軍家の血筋が(北朝方の)足利氏と同じく清和源氏であるという立場に立つ以上は、
どうしても北朝の方を正統と見なす必要があり、故にそのように決した。もっとも、将軍家の遠縁に
あたる水戸徳川家は、光圀以来勤王思想の発信源であったため、これとは正反対に南朝を正統とした。
明治維新が相成って後暫くは、両方のいずれかを正統とは見なさずに「並立論」が定着していたが、
明治末期(明治44年)には再び「正閏論」が台頭するに至った。だが、今度は、江戸時代の時とは
正反対に、南朝を正統とするに至った。先の水戸学に影響された、やや過激な国粋主義のもたらした
産物である(私自身は、確かに、水戸藩が明治維新に対して果たした役割を積極的に評価をしている。
しかし、その理論的支柱となった「水戸学」には、少なからず誤りがある。それに関しては、今後も
随所において説明を行うが、今回は割愛したい)。もっとも、時の桂太郎内閣は「正閏論」に対して
消極的な姿勢であったため、反桂系の犬養毅(立憲国民党)が内閣問責の演説を行い、これを契機に
桂内閣は退陣のやむなきに至る(この2年後には、かの有名な「大正政変」が起こり、桂はその政治
生命を完全に喪失することとなる)。これもまた、政争と絡んだ要素を有していたのである。
こうした「政争」とは無関係に、南北朝のいずれかを正統と見るか、ということを深く洞察するに、
その根拠となる要素は極めて少ない。三種の神器を奉じていたのは南朝であり、これが「南朝正閏論」
の理由となったのである。しかし、現皇室に至る血統や、実際に京で政務を執っていた、という点で
見るならば、北朝が正統ということになる。しかし、実際には、両統が並立していたという事実には
何ら変わりはない。又、並立状態の解消は「両統合一」の形式をもって行われた(南朝最後の後亀山
天皇が、北朝最後の後小松天皇に神器をお譲りになった)。ちなみに、南朝とは別に、持明院統から
光明天皇を擁立し申し上げたのは、一つに「両統迭立の原則」(※1)による面もあるが、足利尊氏
の策するところが少なくなかった。尊氏は、戦前の国定教科書においては「逆臣」とされ、これに異
を唱えた大臣がその職を追われるという一件まで生じた。さすがに「逆臣」というのは度が過ぎるが、
持明院統の天皇もまた、大覚寺統の天皇と同様に、政治の渦中にあられたということには間違いない。
こうした諸般の事情を考慮すれば、「両統(南北朝)が並立状態にあった」と見るのが最も正しい。
但し、両統が分裂する以前の「元弘の変」(1331年)の際は、鎌倉幕府の打倒を目指して挙兵を
された後醍醐天皇に対して、時の幕府執権北条高時が隠岐島に配流申し上げ、代わりに持明院統から
光厳天皇を擁立し申し上げた。この経緯を見るに、心情的には後醍醐天皇に同情申し上げたいのだが、
現実には光厳天皇が帝位にあられたというのが事実であろう。なお、鎌倉幕府の滅亡から程なくして
光厳天皇は帝位を降りられ、代わりに後醍醐天皇が再び帝位に就かれるが、これは「重そ」とてよい。
したがって、正式な代数は次のようになる。
97代 後醍醐天皇 1318年 2月26日 〜 1331年 9月20日
98代 光厳天皇 1331年 9月20日 〜 1333年 5月25日(鎌倉幕府滅亡)
99代 後醍醐天皇 1333年 5月25日 〜 1336年 8月15日(南北朝の分立)
<南朝>
1代 後醍醐天皇 1336年 8月15日 〜 1339年 8月15日(南朝発足)
2代 後村上天皇 1339年 8月15日 〜 1368年 3月11日
3代 長慶天皇 1368年 3月11日 〜 1383年11月30日
4代 後亀山天皇 1383年11月30日 〜 1392年10月 5日(両統の合一)
<北朝>
1代 光明天皇 1336年 8月15日 〜 1348年10月27日(北朝発足)
2代 崇光天皇 1348年10月27日 〜 1351年11月 7日
3代 後光厳天皇 1352年 8月17日 〜 1371年 3月23日
4代 後円融天皇 1371年 3月23日 〜 1382年 4月11日
5代 後小松天皇 1382年 4月11日 〜 1392年10月 5日(両統の合一)
100代 後小松天皇 1392年10月 5日 〜 1412年 8月29日(爾後は一統)
とにかくも、いずれか一方のみを正統とすることは、もう一方を「偽帝」と断じてしまうことになる。
これは、両皇統のいずれも政治の荒波に翻弄された「犠牲者」であるという事実を覆い隠してしまう
のみならず、皇室に対する国民の崇敬の念をも歪めてしまうおそれすらある。
※1「両統迭立の原則」
後宇多上皇が皇子の後深草天皇に対して弟君の亀山天皇に譲位するように諭された件に端を発した
宮中の争議を調停すべく、鎌倉幕府の進言により、爾後は両皇統から天皇をお立てすると決したこと。
但し、南北朝合一以降の天皇が全て北朝系から立たれたことで、北朝が唯一の皇統であると確立され、
両統迭立論は自然消滅した。