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(回答先: 発見!茨城県守谷市守谷は諏訪ー鹿島レイライン上=「太陽の道」、サバト儀式はここのはず! 投稿者 サラ 日時 2005 年 12 月 13 日 20:27:44)
守谷は逆賊将門=極悪非道の反逆者といわれた平将門が館を構えた地。将門の打ち首とその怨霊の話は有名だ。
おそらく日本を支配したつもりとなっているユダヤメーソン達にとって、非常に意味の深い場所であろう。さらに愛宕神社もある。
東京の愛宕山と守谷の愛宕をつなぐ線、守谷。
ユダヤメーソン達によるサバトののろいの相手は朝廷であろう。
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茨城県北相馬郡守谷町
守谷の町は天慶2年(939)に将門が館を構えた地といわれ現在の守谷小学校校門近くの”2本松”と呼ばれるところに、明治34年建立の【平将門城址の碑】が建てられています。承平元年(931)平将門が、行基の作という地蔵菩薩を安置して建てた一宇が、開基とされています。境内には将門と7人の影武者の供養塔があります。また、本堂には江戸時代につくられた位牌が安置されています。
http://www.tomida.net/masakado/moriya/ma-moriya.htm
関東一帯とくに下総国地方(茨城県の南西部と千葉県の北部)では、戦前は学校で
平将門を "逆賊将門=極悪非道の反逆者" と習った子供達も家に帰れば
「平親皇さま」「将門さま」 と崇め尊ぶ生活に戻る信仰の対象として尊敬されてきました。
いまでも将門の乱が起こった時、山城国神護寺護摩堂の不動明王を今の成田に移し、
朝敵調伏の護摩を焚き、乱がおさまった翌年建てたのが成田山新勝寺という事で、
将門の子孫とか家来の子孫の方々は関東の名刹成田山新勝寺にはお参りしない
との事です。
また将門の"愛妾桔梗の前"の裏切りで討たれたので、花のキキョウを植えないとか、
将門の紋所(九曜星)がキュウリの輪切りに似ているのでキュウリは輪切りにしない
そうです。
平将門は(903?-940)平安中期の武将で、桓武天皇の曾孫高望王の孫で鎮守府将軍
良将の三男として父祖以来の下総国猿島、豊田、相馬郡を相続したのですが、
伯父国香、良兼が領地を侵略した為、これに対し将門は承平5年(935)国香を倒しました。
この一門の争いから発展し常陸国(茨城県)下野国、上野国(栃木県)の国府を襲い
占領し国印と倉庫の鍵を奪い、関東の大半をおさえた将門は自ら新皇と称しました。
将門の系図は
桓武天皇--葛原親王--高見王--高望王--良将--将門
となり将門は桓武天皇を基点とした皇統上は陽成天皇(第57代)、醍醐天皇(第60代)と同じ位置に当たります。皇統上は天皇につける位置にあったわけです。
しかし下野押領使藤原秀郷の助けを得た平貞盛に天慶3年(940)2月14日に討たれ
ました。時に三十八才でした。戦死の地は現在の岩井市の国王神社のあたりとの事です。この一連の内乱を承平天慶の乱と言われています。
現在、下総国を中心に将門を祭る神社仏閣、伝承の地が沢山有ります。
尊敬され人気の『将門縁の地』を訪ねてみました。
http://www.tomida.net/masakado/masakado.htm
http://city-kanchan.hp.infoseek.co.jp/mycity/atago-moriya.htm
http://hureai-town.com/monet/monethome-jisha.htm