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(回答先: 【殺人の自由化】無善悪5【コンパスと定規と6つの角】まだ読んでないが参考になりそうで…ここに保存したい、いいかな? 投稿者 SV問題 日時 2005 年 12 月 10 日 09:04:33)
【6】
『全宇宙における生物の生と死』
…
何事であれ、何が「正しいか」という事の定義は困難である。
第一に「正しい事があるはずだ」という前提に、まず疑問の余地がある。
何かが正しいとか正しくないかは、「誰かが苦痛かそうでないか」とか、
「誰かの生存に有利か不利か」という事で計る事も多々あるが、
明確に善悪が定義できない場合が実に多くある。
ところで、人間の脳活動をも含めた自然法則には一切の誤動作はない。
というのも人間が自分の脳や身体に対してある特定の使い方をしてしまい、
その結果として我々が大きな苦痛を受けてしまったという場合にも、
結局は、どこにも「誤動作」などは存在していないからである。
そこには単なる「原因と結果」があるのみであり、
要は、それらの刺激の知覚信号を「経験する主体」が、
それを苦痛と感じるか、それとも快楽と感じるかの問題だけである。
しかし、その苦痛と快楽の区別でさえも、その線引きが困難であったり、
よく見れば、もともと「苦と楽は相互依存している」ものなのである。
・・・・・・・・・
さて、人間と人間以外の生物もどちらも世界の創造者(あるいは創造法則)
なるものから、「生きている事の明確な目的」を示されていないという点
では全く平等であろう。ただ人間以外の生物は生存の問題で哲学的に悩ん
だりはしない。彼らは遺伝子に組み込まれたプログラムどうりに生きて死ぬ。
しかし、それでは、人間が哲学的に悩むことや、何かの精神的修行をする
事は、遺伝子に組み込まれていないもので、それが超自然的知能の進化に
よるものか?、と言えば、そんな事は全くないといえる。なぜならば、
そもそも我々が哲学などしてしまう事自体のその根底には、我々の生存が
脅かされたり、他の生物には発生しないような無駄な心理的な不安や葛藤
が生じざるを得ないという構造上の原因があるからである。
我々は決して「純粋に知的な動機」から哲学をするのではない。
哲学は、いかにも知的遊戯であるかのように見られやすい。
だがあらゆる種類の哲学は、極めて動物的な『生存における苦への恐怖』
がその本当の背景となっているのである。
だから、人間は科学によって何を作り出し、哲学によって何を思考し、
宗教によって何を信じ、また瞑想などによって何をどう訓練したところで、
基本的には、極めて動物的で恐怖に満ちた状態のままなのである。
しかし人間と、人間以外の生物の、はたしてどちらが幸福であるか、
または苦しみが少ないかという点になると、
動物たちもまた、決して幸福だとは言えないだろう。
ただ、人間以外の生物の多くは、心理的葛藤や羞恥心や、見栄による欺瞞
などという余計な不幸を生み出す事はあまりない。
彼らとて、縄張り争いや、餌や異性獲得の為の争いによる、一時的な闘争
感情はあるだろうが、人間のようにいちいちそれらの経験を記憶しては
あとまで根に持つようなことは、(全くなくはないが)ほとんどない。
しかしだからといって、自然が「絶対的見本」であるかと言いえば、
自然とても何ひとつ人間の手本や生きる基準にはなり得ない事も事実だ。
とかく人間は「人間は間違いを犯しても、自然には間違いはない」などと
思いがちである。しかし、自然が正しいという根拠もまたどこにもない。
自然界の様相ときたら、微生物から高等生物に至るあらゆる生物はあいか
わらずその一日のほとんどが「空腹の苦」にさらされているのである。
・・・・・・・・・
ところでブータンという国には「国民総幸福論」というものがあるらしい。
私は詳しいことは全く知らないが、噂によればブータンの政治や経済の根底
には国民の幸福の基準となる「思想」があるらしい。
テレビで見たかぎりでは実際の生活形態としては、昔の日本にも似ており、
人々は民族衣装で暮らし、物質を大切に使い、自給自足し、「病的先進国」
からの有害情報や物流も適度に規制されている。
この国では経済発展が目的なのではなく、
国民のつつましく「平和的な生活の維持」にこそ主眼があるようだ。
一見すると、こうした国は理想的な国家であるように人間の目に映る。
しかし、そもそも「人間」という種の集団には、事の最初から理想的社会
の実現などは不可能とも言えるのである。
我々は、よく、人類史の中で、一体いつの時代が幸福だったのだろうと、
ふと考えることがあるものだ。自国で言うならば、江戸時代なのか、
それとも明治ごろ、それとも縄文時代なのかと。
しかし、私個人としては、どの時代であったにせよ、
人間が集団として幸福だったことはなく、また、人間以外の生物が普遍的
に幸福だったこともないと考えている。
・・・・・・・・・
ならば、我々や生物たちは、何億年もの時を、そしてこれか何十億年も、
「一体なんのためにこの宇宙に存在しているのだろう??」。
どうみても、あきらかに我々を含む生き物たちの宿命とは、
「飢えと満足」という名の「不幸と幸福を往復する機械」としか見えない。
『死心伝』の著者であるEO師の透徹した視力によれば、
地球という惑星はむろんのこと、それ以外のいかなる星系や、
非物理的な次元世界においても、そこで行われていることは、
『思考や感情の生産業』と見なされている。
我々が、自分たちの生存環境において、苦痛を経験しようが、快楽を経験
しようが、至福や愛の深さを経験しようが、絶望を経験しようが、
そんな事は「収穫者には全く関係ないこと」だ。
常に収穫者にとって関心があるのは、収穫量と、収穫物の品質のみである。
ちょうど、我々人間の農業生産者にとっては、作物や土壌中の生物たちが、
「自分たちの生をどのように感じているか」などと言う事は無視しており、
ただ収穫量と品質のみが収穫者にとっての重要問題であるのと同じだ。
・・・・・・・・・
あるときEO師は私に人間の発生する感情が別の宇宙の生物の中では、
いくらで取り引きされているかという『価格表』、
いわば人間の精神の「人心売買」の価格表を見せてくれたことがあった。
つまり我々が日々発生している憎悪や、愛や執着や恐怖や殺意にも、
珍重される感情や、収穫量が多いと喜ばれるものがあるというのである。
その価格表には、我々人類が愛や快楽や幸福感、満足感や笑いとして感じ
る感情の品名から、我々が悲しんだり怒ったりする感情、そして軽い嫌悪
から殺意や自殺願望まで、あらゆる感情の種類の名称が、
数十種にわたって「品種分類」されており、それぞれが各次元間、または
銀河系間で取り引きされる時の価格が表示されていた。
すなわち微生物から人間、そしてさらには別の宇宙や異次元の世界の住人
たちも、結局はどこもかしこも、「感情農場に生育する作物」である、
というのがEO師の見解である。
したがって、人間の感情の起伏が低迷すれば、
ちょうど我々が植物の成長が悪くなると、肥料を与えたり、枝を剪定して
植物に刺激を与えるように、「収穫者たち」もまた人類のさまざまな感情
の成長をうながすための薬品を投与したり、品種改良をほどこすのである。
その結果として我々個人の中、そして集団としての人間社会の中では、
他の動物たちに見られないほど屈折した感情の根が生育し、
常に不安感情と享楽的感情の葉が青々と覆い茂り、
時には絶望という見事な花が咲くほどにまで成長させられる。
・・・・・・・・・
言うまでもなく、我々は自分の意志で生まれてくるわけではない。
また親の意志で生まれたり、母体で成長するのでもない。そもそも人間と
いう種の発生原因と、その精神の仕組み(設計)自体が被造物である我々
人間や、その他の生物自身の意志によるものではないのは明白な事だ。
ここで、いわゆる宗教や自然崇拝という妄想は、世界や宇宙の創造者なる
誰かが「善意から人間や万物を作り出した」などと考えてしまう。
だが、現象世界をよく見れば、あきらかに善意よりも悪意に満ちた設計
または「生産者に都合のよい設計」で生物は出来上がっているものだ。
にもかかわらず、彼らは自分たちの存在のその「無力さの事実」を認めた
くはないのであろう。そういう点では科学もまた一種の宗教と見なせる。
しかし、もしも我々生物が、「感情農場」という農園の、単なる「作物」
であるならば、そもそも最初から最後まで極めて無力な存在なのだ。
我々は遺伝子をコントロールできるようになったと自慢などをしているよ
うだが、我々の意志や知能すらも収穫者によって品種をコントロールされ、
収穫者によって成長させられ、収穫者によって余計なものは処分され、
収穫者によって収穫され、売買され、宇宙の誰かの生存の糧となる食品に
すぎない存在なのである。さらに、自殺などしたところで、
次のどこかの星の農場で、やはり作物人間として生まれるだけである。
このような宇宙像が当然の前提となっていう「EOイズム」では、
いかなる形で、いかなる次元に生まれ変わってそこで生存したとしても、
くる日もくる日も、宇宙では何かを生み出し続けなければならない。
いきあたりばったりで何かを口実にしては、生き物が自分たちの体や精神
を「休みなく動かしていなければならない」という、「宇宙産業」自体が
EOイズムでは疑問の焦点となっている。
・・・・・・・・・
このホームページでは「EOの宇宙論」は内容の構成上あまりにも飛躍が
あるために、EOイズムのほんの断片のみを「死心伝」に組み込んだ。
もっと詳しく知りたい方は『虚無宇宙からの伝言』に記載のEO師の著作
(9作)のうち、次のものをぜひ一度読まれる事をお勧めする。
『ひきつりながら読む精神世界』『廃虚のブッダたち』いずれも、マンガ
古書で有名な「まんだらけ」出版部発行につき全国書店で注文可能です。
また、限定自費出版物で出ている『反逆の宇宙』などを読まれる事もお勧
めします。…