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(回答先: 【殺人の自由化】無善悪4【コンパスと定規と6つの角】まだ読んでないが参考になりそうで…ここに保存したい、いいかな? 投稿者 SV問題 日時 2005 年 12 月 10 日 08:58:16)
【5】
同一種の殺戮が悪である根拠などはない
この社会では、どういうわけか、異なる種の間の食物連鎖は容認される。
ところが「共食い」は自然界でもあまりないので「不自然」であると、
なんの根拠もなく見なす前提がある。
ここから殺人(人間同士の殺戮)は悪とする決めつけが生まれている。
だが、動物同士は自然によって繁殖や脅威となる勢力が完璧に制限されているから、
同一種で食い合う必要は、めったにないとしても、それは人間には全く当てはまらない。
人の繁殖をうまく抑制して殺せるのは、微生物を除けば、
人間同士だけであるからだ。
我々個人は、その生涯に膨大な資源を浪費して、他の生物を食って生きるが、我々人間
にそんな資格や、価値があるのかすら、はなはだ疑問である。
殺戮における罪悪感のコントラスト
殺人の罪悪感というものには実はコントラストがあるという事実を洞察してみるとよい。
あなたが手を汚さない殺戮にはあなたは罪悪感を感じない。
あなたが尊厳を感じていない害虫のことは、まさに虫けらのように殺すのだ。
200年ほど前は、他人を殺すということは、一頭の牛かイノシシを刃物で殺すのと同
じわけであるから、手間も体力もかかるものであった。
おまけに相手に目の前で「命ごい」でもされれば、あなたは、殺した後に、嫌な後味が
残るだろう。
だが近代戦では、あなたはボタンを1回押せば、何百という人間の血も肉の破片も、
子供の悲鳴も誰の悲しむ声も聞くことなく、はるか上空の戦闘機から殺戮を行える。
そのとき、あなたの罪悪感は単に「下界は、たぶん悲惨だろうという推測」の中にのみ
あり、まるで実感などする事はない。
また、あなたが大統領やら何かそういった命令者の立場にいて、
殺戮を現場で「執行する立場」にいない場合には、
あなたの罪悪感は大幅に軽減されるか、ほとんどの場合は{皆無}である。
すなわち、
1)殺戮の手段と死体の状態、
2)殺戮の時に執行者本人に知覚されているもの、
3)殺戮する相手に感じる生命の尊厳の「程度」、
これらによって、あなたや社会の罪悪感は変化するという事実がある。
だからこそ、あなたは、自分に見えない生物の死や殺戮をなんとも思わない。
自分に見えるごく狭いもの、見えたもの、自分が共感出来るもの、
知り合いの死しか、あなたには痛切には死を感じない。
このようなわけで、自然との共存だ、やれ生命は大切だといったところで、
我々人間が『生命として認識している範囲』には、極度な限界があるわけである。
では、将来もしも植物や鉱物にも意識があり、また苦があることが立証され、さらに、
彼ら植物や鉱物が人間とコミュニケートできて、『殺さないでくれ』とコンピューター
を通じてメッセージをいってきたら、あなたはなんと言うつもりなのだ?。
きっとあなたは、こういうだろう
『生きて行くには、しょうがない摂理なのだ。おまえら植物だって、
土の養分を殺して生きているじゃないか』・・・
・・・・・・・・・・
かくして、もしも本当に、命があらゆるところに実感として認識されたとき、人々は、
生命に愛を持つのではなく、むしろ、そんなことを言っていたら、
空気も吸えず、生きて行けないということに結論がいきつく。
したがって本当に幅のある知覚力を持つ意識体や知性体は、むしろ宇宙では生命の尊厳
などをいちいち感じない。そしてまた、人間や自分だけを大切にすることもない。
あらゆるものが共存し、生死などは、毎日のとうぜんの現象であるかぎり何かが生きる
ために、何かが死ぬのは、あたりまえであり、その死ぬ側に、いつ自分が位置しても、
それは公平だということだ。
生命そのものが絶え間無い殺戮と死によって成立する
実際には、死によって支えられていない生は何ひとつ存在しない。
あなたの肉体の中では、無数のものが毎日、毎分、毎秒、死ぬ。
ある有機体がその有機的な機能できないまでに分解するということは、その有機体の死
である。我々はいつも、人間の死、それも自分の死ばかりを問題にする。
だから、遠方の戦争の死体など見ても、それはただの映画にすぎない。
死体の写真などいくら見ても、それはただの「死体のアート」にすぎない。
しかし、死というものの厳密な定義が「有機構造体の分解」であるとするならば、
何かが死んでいない瞬間など、この世界のどこにも存在しないのだ。
あなたが飲む水のために消毒されたダムの源水からは、無数の微生物が死ぬ。
農薬を使えば、微生物や虫という動物が死ぬ。
あなたの肉体の内部でさえも、白血球は、無数の有機体を殺している。
人間たちは、死がいけないとか、命が大切だという場合に、常に、
人間勝手な範囲、つまり人間勝手な規模とスケールで物事を語る悪癖がある。
だが、命とは、まさに死と殺戮そのものに支えられているのだ。
結 論
1)人類の発生以来、人類には、ただの一日も、殺人のなかった日はない。
殺人または暴力は、悪ではなく人類の属性である。(ただし善とも言っていない)
2)罰が皆無の無法状態では、間違いなく殺人は急増する結果となる。
したがって精神性ではなく処罰への恐怖だけが殺人を抑止し得るものである。
3)ただしその処罰は、公衆の面前で執行されねば、全く処罰の意味がない。
4)同じ殺戮という結果であるにもかかわらず被害者の命には、価格がある。
同じ人間であるにもかかわらず、雑草のような命から、大事件になる命まで
『社会的な』段階があるのだ。
5)同じ行為であるのになぜか加害者の罪にも価格がある。
したがって裁判などがあるのだが、殺人は本来ならば、正当防衛すらも認めず無条件に
加害者を死刑とする方が、場合によっては物事の整理がしやすく、抑止効果があるとも
思われる。
6)殺人の罪や処罰は、あくまでもその時代の国家または組織の政治的状況下における
「変動的な法」が基準であり、その基準は、断じて精神性や普遍性ではない。
雑 感
すくなくとも、生存するための日常生活だけに関しては、
何万年にも渡って我々は一切の哲学も宗教もモラルも必要とせずに成立させてきた。
つまり、宗教や哲学やモラルは、本来は人間の「生活必需品」ではない。
少なくとも、生存するためだけならば、弱肉強食のほうが自然であり、
知能と体力が強い種の人類が生き延びてゆくのが、生物学的にもメリットがある。
やれ、「共存だ、愛だ、協力だ、平和だ」など口ではいうが、それらは単に、多数決で
「生存する手段としての妥協と調停」のことを言っているにすぎない。
平和も協力も愛も、すべて生き延びるために必要になったものであって、
それ以外の目的はあり得ない。
やれ高い意識の発達だなんだというものへの修行もまた、つまるところは、
自分が苦しみたくないからである。しかしなぜ苦しみから逃げようとするのだろうか?。
それは、結局は、苦しみとは長期的に見れば「自分の死」に至るからである。
このように「生きるため」という論理に還元されるようなものは、すべて同じ
『生存教』という宗教にすぎない。
しかし、もしも、生存することは正しいという論理が成立してしまうならば、
1)我々が生存するために、殺戮している食物の生きる権利はどうなるのか?。
2)もしも生存は正しいとしたら、別に生きたいとも思っていない植物人間につけられた
電極や人工呼吸器にも意味があるのだろうか?。
3)もしも生存が正しいとしても、それは誰の生存のことを言っているのか?。
嫌悪する民族同士がいたら、そのときは、どっちの生存が優先されるのか?。
4)また、すべての人間が平和共存したとしても、それによってもし人口過剰で危機が
くるとしたら、生存や延命行為や出産制限をどうすべきなのか?。
命は大切です、など言う『矛盾した論理』があるかぎり世俗も宗教も、
すべては『生存』を最優先の目的とし、そして生存を最優先するために、結局は、
その『生存そのものの目的とは何かという疑問を問うこと』をしない。
「生きるのは正しい」というこの『妄想』は誰が聞いてもあたりさわりなく賛同される
ために、自分で物事を全く考えようとしない者がたびたび持論の「最後の切札」として
持ち出すことが多いものだ。『でも、とにかく、生きるんだ』と。しかし、・・・
『では、結局は、一体何のための生命なのだ??』と哲学者は言うのである。
EO
‥‥
『エコロジーに異論あり』
人命の価値や地球の価格などは
それぞれの生物の視点で変わってしまう。
したがって普遍的な平和共存などは不可能である。
‥‥
ところで、環境問題というようなものが、人間にのしかかっているようである。
だが、こうした事は、それを見る意識や思考の「視点」の変化によって、
その問題意識は全く変わってしまうものである。
環境問題というのは「このままだと、ゆくゆくは地球上の多くの生物が死滅するかもし
れない」危険性を根拠にして叫ばれる。
だが、注意すべき事は、これを叫んだ時点で我々人間は、もう既に、
「人間本意」の考え方、あるいは自分たちと利害関係があったり、
自分たちが見た目で愛着を持つような動物のことばかりを念頭に入れた「生物本意」の
考え方に毒されているという事だ。
というのも温暖化あるいは低温かは、もしかすると、
次世代の地球に生息する特定の植物や、昆虫や、ウィルスたちにとっては、
むしろ逆に繁殖に「非常に好ましい環境」となるかもしれないのだから。
また極端に言えば、化学物質の汚染で、仮に地上からすべての生物が消えたとしても
「鉱物」や「宝石」としてのこの惑星それ自体は、何ら問題もなく、
地球はこれからも存在してゆくのである。
またハッブル望遠鏡で遠い銀河群を見れば分かるように、地球に類似する環境の惑星な
どは、まさに腐るほどあり、宇宙ではいくらでも生物などは発生している。
別の銀河に対しては、いまのところすべてが単なる「推測」なので、
「地球の命を大切にしよう」などと言っている。
だが、いずれ、もしも実際に別の惑星で生息している無数の種類の生物を自分たちの目
で見たら、地球人は自分たちの惑星環境や生き物に対して、今ほどには固執をしなくな
るのは必至であろう。
自分の住むところが「ここしかない」とか「人類に類似する知的生命体は自分たちしか
いない」などと妄想すれば自分たちの惑星や人間と言う種に固執するものだ。
だが住む惑星などどこにでもあり、いくらでも知的生物が無数に存在するという
「全宇宙」という視点からすれば、人間と言う生物の危機などは、ほとんど誰も問題に
などしていないという現実も充分にありえるわけである。
・・・・・・・・・
たとえば、あなたがうっかり蟻たちの巣穴を壊してしまったとしよう。
蟻たちの社会にとっては、それはとんだ災難であり大きな環境問題である。
だが、あなたは言うだろう、
「いや、すまなかった。でも地面は広いのだから、
またいくらでも巣を掘ればいいじゃないかね。」
蟻たちのその怒りや悲しみと、あなたの「大した事じゃない」という気持ちの
その二つには、余りのも大きな認識の違いがある。
しかし、ミクロの次元というものはさらに果てしないものだ。
たとえば、あなたの内臓から切除されたガン細胞にとっては、
その切除という事件は、まさにガン細胞たちにとっては、自分たちの住む宇宙そのもの
が崩壊させられるほどの危機感と不幸だったのかもしれないのだ。
このように、常に、いろいろな問題で騒いだり叫んだりするのは、
あくまでも被害をこうむる者たちの「認識範囲(知覚領域)」を前提にしている。
こうなると、一体誰が不幸で誰が幸福かとか、誰が被害者で誰が加害者かという問題も
確定が出来なくなる。それほど多種に存在している、生物の、
「一体どの生物の利害関係が優先されるべきなのか」などと言う事には、
全く基準はないわけである。
宇宙では地球ばかりでなく、どこの宇宙であれ、固体や集合としていきる生物には、
自分の固体を優先して大切にし、自分たちの家族や「群れ」を優先して大切にし、
自分たちの「種」を優先して大切にしようとする本能だけが存在する。
そしてこの「自分の一部であると実感する範囲」は、決して知識では実感とはならない。
というのも、いくらあなたが顕微鏡を覗いたところで、微生物に対して翌日から愛情を
持つわけではなく、いくらあなたが望遠鏡で星を見たところで、翌日から銀河系規模の
視点で地球を見るわけではないのだから。
「グローバルな視点のため」などと言って、エコロジーやら天文学やら、何の知識をど
う頭に詰め込んだところで、いっこうに人間や生物は、
「自分の心身の死活問題に直結するような範囲の問題」に対してだけ、日々集中し続け
ているのが現実である。むろん、それは本能であるから変更のしようがない。
こうなれば、当然の事として、異なる生き物の間では、
闘争は絶対に避けられないものとなるのである。
従って(極論すれば)闘争というもの、殺戮というものが完全に回避される可能性は
たったの一つしか存在しない。
それは宇宙の全生物が、自分の身体や自分の種や自分の惑星に対して、
「何一つも愛着を持たない」という意識状態である。
なぜならば、何かに愛着を持てば、かならずそれを守ろうとする。
何かを守ろうとすれば、かならず闘争か、もしくは「無理な共生」に陥ってしまう。
そして無理な共生は必ずその犠牲となる生物を発生させてしまう。
だが宇宙ではただの一度として、
ここの生物が「自分」又は「自分たち」の生存を第一に優先するようにプログラムさ
れなかった事はない
したがって、闘争や殺し合いや捕食行為は、「生きるため」という正当化によって、
それぞれの生物間で、これからも「永久に続いていく」のである。
だから、環境問題を叫んだところで、それは一体誰のための環境の事を言っているのか
を考えてみるとよい。
こうした思索は、結局は、知的あるいは物理的に強い物が生き残るという「弱肉強食」
が正しいという論理に落ち着くのだろうが、
さりとて、生とは「生き残ったから幸福だ」というような単純な問題でもあるまい。