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(回答先: 言い忘れました。輪廻転生 投稿者 サラ 日時 2005 年 4 月 05 日 00:55:31)
なぜ、その殺された人達が痛み、苦しみ、浮かばれない気持ちを嘆き、この世に留まるのか。いったい何を聞いて浄化するのか。
現世の生が全てではなく、カルマの精算の為である事を知る事で浄化し、また次のカルマを精算する為に再び肉体と言う衣に舞い戻るのでは無いのか。
そのカルマの精算こそ、全てを知るという事である。争い、憎しみに意味は無く、くり返す事はそのカルマへの停滞になるのです。
そこに到達できない者は再び肉体と言うカルマに戻って修行を重ねるのである。ただ死んだ者が全て神になるのでは無く、肉体を必要としないまでに悟り、体現しえた者こそが肉体のカルマを脱ぎ捨て、高みに達するのである。
まさにその高みに達した者こそが、人々が言う神、宗教の神であって、それは本来の神では無いのである。高みに達して私達を見続け、見守る我々の一部なのである。
彼等は私達に同じ高みに達してもらえない場合、全ての高みに達した魂の集合体、本当の意味での神になりえず、だからこそ同じ過ちをくり返す我々を哀れみ、嘆いているのである。
我々人類の存在理由は、安易に欲に浸りやすい肉体と言うカルマを超え、肉体を必要としない、高貴なる魂を作り上げる事に有るのである。そこまでの浄化された魂の集合体こそが神に近ずく者達であり、我々人類全ての魂がそこに到達できない場合、我々は神に成り得ないのである。3次元から4次元、その先への新たなるカルマ、超越が出来ないのである。
その為に、いつまでも気付かない我々いる為、終局が訪れるのであり、無くなり去った古代文明と同じ道を歩むのである。そしてまた人類が気付く時まで、高みに達する時まで人類の歴史は繰り替えされるのである。まさに一からの精算である。
それが、聖書に在る終局の意味である。
その為に、ユダヤの人々は敢えて苦難の道のりを何千年もの間、歩み続けているのである。それが旧約聖書の約束である。