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(回答先: 天皇すり替えの傍証(孝明天皇暗殺直前に、長州の大室寅之祐が後の明治天皇にすり替えられる以前の動きの記録) 投稿者 真相ハンター 日時 2005 年 11 月 29 日 10:45:14)
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[太田龍の時事寸評]長島銀蔵著「皇統正史」に関する寸評2つ
http://www.asyura2.com/0505/bd41/msg/675.html
投稿者 あっしら 日時 2005 年 10 月 27 日 03:45:35: Mo7ApAlflbQ6s 氏投稿の転載
長島銀蔵著「皇統正史」(昭和四十一年、自費出版)を発見する。
更新 平成17年10月25日23時45分
平成十七年(二〇〇五年)十月二十四日(月)
(第一千四百七十二回)
○鹿島f著「日本侵略興亡史」(絶版)の参考文献の中に、
長島銀蔵著「皇統正史」、
○と言う著作が挙げられて居る。
○このほど、この本を見る機会を得た。
○これは、昭和四十一年十二月発行、非売品、とあり、
○静岡県清水市在住の著者、長島銀蔵の自費出版である。
○従って、市販はされて居らず、
○ごく小部数印刷され、著者の関係者に配布、贈呈されたもののようである。
○長島銀蔵。
このひとは、敗戦後、日本国憲法を可決した当時の貴族院議員、とある。
○更に、敗戦後、日本遺族連合会の初代会長(長男が大東亜戦争時、戦死)、
と言う。
○このひとが、南北朝問題の研究の道に入るように成った経過は分らない。
○この本の要点は、次の通り。
(1) 南朝の皇統は、現在の熊澤正照王(寛道王)まで続いて居り、
(2) 北朝は滅亡して居る。
(3) 従って、そのあとの北朝天皇は偽朝であり、足利系天皇である。
(4) 熊澤大然尊憲王は、明治四十一年、十一月二日、第一回の上奉文を
明治天皇に上奉した。
(5) 明治天皇は、明治十年に「大政紀要」を出版されて、南朝正統、とした。
(6) 更に、明治十年元老院発行纂輯の御系図では、貞成親王の父は不詳、
と明記してある。
(7) 熊澤大然尊憲王の上奉文が各界に伝わると、大きな波紋を引き起こし、
(8) 遂に国会に於る大問題と成り、
(9) 明治天皇の裁決によって、南朝正統、と決定され、
(10)時の桂内閣は瓦解した、
(11)しかし、明治天皇が間もなく崩御されて、そのために、南朝熊澤天皇
問題は事実上封印されてしまった、と。
○ここでの問題は、北朝が断絶して、そのあとは、足利系天皇である、
と言うところであろう。
○明治天皇が、公式発表の如く、北朝孝明天皇の皇太子、と言うことであれば、
○当然、南朝正統論で行けば、明治天皇は、偽天皇である、
○と成るであろう。
○にも拘わらず
明治天皇が、南朝正統論を裁決された、とは何を意味するのか。
○長島銀蔵著は、
孝明天皇父子弑逆問題も、
○長州大室天皇家大室寅之祐スリ変え明治天皇問題も、
○全く視野の外に置いてある。
○しかし、ここには、
鹿島著にも引用されて居らず、
○各種の南朝史論にも述べられて居ない、基本的文献と事実が集大成されて居り、
○これは、改めて注目すべきものと判断する。
(了)
「皇統正史」の著者、長島銀蔵とはどんな人物だったのか。
更新 平成17年10月25日23時46分
平成十七年(二〇〇五年)十月二十五日(火)
(第一千四百七十三回)
○当「時事寸評」前号(17.10.24)に、
長島銀蔵著「皇統正史」を取り上げた。
○この「長島銀蔵」と言う人物について調べると、このひとは、
明治三十四年(一九〇一年)〜昭和五十九年(一九八四年)
○静岡県富士宮市に生まれ、横浜瓦斯科学工業社長など、多額納税者として、
昭和二十一年五月から、二十二年五月まで一年間、貴族院議員。
昭和二十五年、参議院全国区から当選、とある。
○昭和二十四年の長者番付では、
「第二位、長島銀蔵、静岡、ペニシリン製造」と言う。
○長男が戦死。
昭和二十二年十一月、日本遺族会理事長。
○このひとが、どのようにして、南北朝問題を研究して、「皇統正史」を著述
するように成ったのか。
○それは、このひとが、静岡県富士宮市の出身、と言うことに関係があるだろう。
○富士山麓には、「隠れ南朝」の史跡があり、加茂喜三と言うひとの、それに
ついての著作がある。
○一応、この線で、理解して置こう。
○長島銀蔵氏は、もっぱら、熊澤天皇家についての研究であって、愛知県豊川市、
三浦天皇家とは接触が無いようである。
○南朝の一皇統が、今の福島県に移られたこと、
○そしてある時点で、足利幕府の南朝系を根絶やしにしようとする迫害政策のため
に、熊澤姓を名乗るに至った経緯が、前出「皇統正史」には詳述されて居る。
○前出、長島著によれば、
足利義満は、自己の息子を天皇にすると同時に、持明院統(北朝)の血統を全部
殺害した、
○と成って居る。
○従って、この説によれば、足利義満とそのあとの時代に、
北朝の血統は絶え、足利義満の血統が北朝と成った、と言うことに成る。
○応仁の乱の頃まで、南朝は健在であり、それから足利将軍六代義教が、南朝の
血統を根絶せよ、との方針を打ち出した、と言う。
○しかし、南朝系の一部は、熊澤家、としてずっと続いた、と。
○これに対し、
南朝三浦天皇家の方は、熊澤天皇家に比べると、細々とした感じである。
○長州の大室天皇家については、その系図は現在に伝わって居ないのみならず、
○幕末、大室弥兵衛の代で血統は断絶し、その二人の息子(虎吉、庄吉)は、
実は、地家作蔵の息子である、との説があり、
○この説を取るとすれば、大室天皇家は、絶えて居る。
○大室寅之祐=明治天皇。
○この人物は、実は、地家作蔵の息子。
○して見ると「熊澤天皇家」の方が、まだしも、実在の天皇の血筋である、との
見方も成り立つであろう。
(了)
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