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(回答先: 異端の肖像2006 「怒り」なき時代に<3> シンガーソング ライター松山千春(50) 【東京新聞】 投稿者 愚民党 日時 2006 年 1 月 04 日 10:48:35)
異端の肖像2006 「怒り」なき時代に<2>
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060103/mng_____tokuho__000.shtml
花粉症撲滅センター代表 永峯勝久(48)
南国・宮崎とはいえ十二月の太陽は弱々しく、山中の寒さは厳しい。なのに、山の神(やまんかん)のお堂がある峠から一望すると、濃緑の山林が折り重なるようにどこまでも続いていた。山の木がことごとく常緑樹のスギだからだ。
まるでスギという稲が植えられた水田ではないか。そう問うと、永峯勝久は、はるか向こうの山々を指して言った。
「ずーっと先のあの先、つまりまともな林道がないところまで、全部“水田”よ。われわれの先輩がそれこそ命がけの苦労をして植えたスギだ。子ども、孫の世代のためにと思って」
そこで言葉を切ると、身長一メートル九〇、おおらかそのものの「木こり」の顔に、苦渋の色が浮かんだ。
「今では邪魔者呼ばわりだもんなあ」
転機は四年前に訪れた。四十の手習いでネットをかじったばかりの永峯は、偶然たどりついた掲示板に、目がくぎ付けとなった。
「全国のスギを焼き払ってほしい」「スギが本当に憎い」「スギよ、この世から消えろ」「花粉症がつらい。生き地獄です」−。
スギ花粉症患者が集まるインターネットの掲示板には、スギに対する呪詛(じゅそ)の言葉が渦巻いていた。花粉症被害が深刻ではない宮崎では実感できなかった、患者たちの声だ。
林業従事者が利権を守るためにスギを放置し、ちゃんとスギを切らないから花粉が増えるといった非難も書き込まれていた。
永峯は掲示板に長文の書き込みをした。「現状では間伐予算が少ない。皆さんが支払われる医療費の4−5%を間伐費用にまわせばスギ花粉は必ず減少します。歯がゆい思いです」。だが、返事はなかった。
スギを育てて切って売り、また植える。スギ林業家として過ごしてきた永峯の二十歳からの二十八年間だ。祖父から三代続いた営みでもある。それが、否定された。では、どうすればいいのか。「今や、ただ切るだけ、という仕事が求められているのか…」
その年、永峯は「花粉症撲滅センター」という団体をつくった。「花粉症に苦しめられているあなたに代わって杉の木を切り倒します−。宮崎のまじめな木こり集団」。センターのホームページにそう掲げた。永峯が住む同県小林市と隣の須木村の林業者が協力業者として名を連ねる。
事業の概要はこうだ。スギを憎む全国の花粉症患者から寄付を募り、その資金で患者が希望する地域のスギ林を間伐する。スギは密に植えられたまま放置されているから、生き残りをかけて過剰に花粉を放出する。間伐することで単純な引き算以上の花粉削減効果がある。そして新たにスギを植えず、広葉樹の天然萌芽(ほうが)にまかせる−。
だが、周囲の評価はさんざんだった。県の林業協同組合の幹部は「永峯は何か夢でも見ちょるんかな」「バカでないか。患者が寄付するはずがない」と口々に言った。永峯の妻も心配を口にした。センターのホームページには「スギ花粉は公害。林業者も工場が公害に関して問われるのと同じ責任をとるべき」などと、辛辣(しんらつ)な意見が寄せられた。同センターの協力業者で須木村の冨永哲治(44)でさえ、こう苦笑する。
「まあ私としてはピンとこんのだわ。何しろ、今まで、花粉症という人を見たことがないしね」
永峯も「孤独な闘い」と認める。今年二月に花粉症患者を集め“間伐体験ツアー”を開くが、同ツアーが初の具体的事業ということ自体、地道に進めたいという永峯の信条はあるにせよ、これまで反響が少なかったことの裏返しでもある。
だが、永峯の志は衰えていない。心には根深い“国策”への不信がある。「スギほど国策に翻弄(ほんろう)された木はない。スギが悪いんじゃない。責任は人間にある。こんな山に誰がした」
かつてスギが国策だったことを雄弁に物語る歌がある。太平洋戦争末期に作られた童謡「お山の杉の子」(吉田テフ子作詞、戦後サトウハチロー補作詞)の一節には、こうある。
「大きな杉は何になる 兵隊さんを運ぶ船 傷痍(しょうい)の勇士の寝るお家」
戦争中、軍需材木として重要だったスギは、戦後も復興のため増産が続いた。
国有林はもちろん、民有林でもスギの植林には補助金が出た。おかげで、日本の全森林面積のうち約18%・四百五十二万ヘクタールをスギ林が占めるようになった。
だが、一九七〇年代から圧倒的に安い外国産材が輸入されはじめ、スギの需要は激減し、価格も下落した。七五年ごろまで、一立方メートルあたり二万八千円だったスギの製材前価格は、現在わずか七千五百円ほどだ。
これに対して同じ容積のスギを伐採してふもとまで運び出す経費が約八千円。一本切れば、その都度約五百円損をする計算だ。直径五十センチはある樹齢五十年(五十年生)のスギでさえ、一万円になるかどうか。
スギ人工林の76%が民有林で、民有林の山持ち地主は「ただ切るだけ」の間伐を嫌がり、切った木を商品化しようとするが、それでは赤字となる。だから、切らない。永峯たちにとって生命線は、採算ラインギリギリの国有林管理の委託事業だ。同業者は減っていき、残った者も土地を切り売りするか借金するかして、どうにかやっているだけ。
「林業という職種はもういらんと世の中で思われてるのかな。自分だって、今のままなら、子どもに林業を継げとはよう言わん」
永峯の旧友で、クヌギやブナなど天然木にこだわる製材所「きりしま木材」社長の小薗公平(50)に言わせれば、国策といっても、単純に「林野行政の失敗」というだけでは、片づけられない。三十種類以上の天然木を使った自宅の見事ないろりの前で、「これが本当の日本家屋」と胸を張り、こう語る。
「広葉樹、針葉樹が複雑な植生を作り出すのが日本の山で、それを生かした家造りがあった。なのに、工業製品を世界に売るために薬漬けの危険な外材を受け入れ、家造りさえも変えてしまった。その流れを支持したのは誰か。世の中ではないか。木は息の長い生き物。世の中の変わりように合わせて育ちはしない」
村おこしとして「大自然復元構想」という照葉樹林主体の森林づくりを提唱する須木村の加藤建夫村長(60)も、永峯の理解者だ。「照葉樹林にするには八十年かかる。採算なんて取れない。でも、日本そのものの山のあり方を考えるときが来ているんじゃないか」
加藤は昨年末、永峯の間伐実験のために村有林のスギ林を貸し出した。会社を維持するため、営業に駆け回って現場を三カ月離れていた永峯も、久々にチェーンソーをふるった。会社には三人の若者がいて、ふだんは彼らが最前線に立つ。「木を切るのは経験のいる危険な仕事。おやじも十年前、倒れてくる木に当たって亡くなった」
国策に翻弄され、危険で、もうからない。なのに、まだ林業なのか。
「山はダメになってもすぐに困るわけじゃあない。特に都会では。だけどしっぺ返しは必ずあるんだ。そのひとつが花粉症。おれは山が好きだからずっと働けるようにしたいんだ」
視線の先には、若者たちとスギ林があった。 (敬称略、大村 歩)
◆ながみね・かつひさ 1957年宮崎県小林市生まれ。任意団体「花粉症撲滅センター」代表、同県西諸地区素材生産事業協同組合代表理事。永峯林業経営。20歳で3代目の林業家となり、以後、一貫して主にスギ林業に携わる。同センターは2月、初の事業として実際の間伐を行う予定で、現場見学参加希望の花粉症患者を募集している。同センターのホームページはhttp://www.kafunsyou-bokumetsu.jp/
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060103/mng_____tokuho__000.shtml